「社長からのミッション」(私の履歴書ep7)
今回は、秘書室長として過ごした3年間の後編部分を紹介します。
秘書室での仕事が2年目に入った時、社長が交代しました。
前任のI社長は、当時の社長任期の内規に到達したことで、取締役も退任し相談役に退かれました。 その後任がM社長で、大株主の取締役名古屋支社長を務めていた方でした。 I社長は厳格な方で仕事中は近寄りがたい雰囲気を持った方でしたが、新任のM社長はその正反対の気さくでコミュニケーションがとりやすい方でした。
和やかになった秘書室
M社長は、自ら社員食堂に足を運んで社員に交じって昼食を摂ったり、仕事終わりに「ちょっと一杯行こうか」という時も会社近くの普通の居酒屋を好んだり、社長とは思えないフレンドリーさを持ったM社長が来られて、秘書室内にも和やかな空気が漂いだしました。
そして、社長交代と同時に経営企画部長も交代しました。
新任の経営企画部長は、僕の物流企画課時代の上司・Yさんで、この時は取締役になっておられました。 気さくなM社長と、尊敬するYさんの下で働けることにモチベーションが高まりました。
ただ、社長が交代したとはいえ、秘書室での仕事に変わりはありません。適度な緊張感を持っていないと仕事にミスが生じます。 秘書室での仕事のミスは会社の重大事に発展する可能性もありますから、そこはかなり気を付けるようにしていましたが、ピリピリした雰囲気が無くなったことでストレスはかなり緩和されたと思います。
新たなCI・CC戦略
社長交代を機に、近畿コカ・コーラボトリング株式会社は様々なCI(Corporate Indentity)・CC(Corporate Communication)戦略を講じることになります。
広報部長もGさんに代わったことをきっかけに、経営企画部と広報部とがタッグを組み、M社長の社交性をうまく利用し、社長を前面に押し出した積極的な対外広報戦略を展開していくこととなりました。
この他にも、京都工場の見学施設を全面的にリニュアルし、それまでとはケタが異なる数のお客様に来ていただけることになりました。
M社長が就任された直後には、社長に全支店・事業所を回って頂き、現場の生の声を聞いていただく懇話会のようなこともやりました。(勿論、懇話会が終われば、秘書室予算での懇親会付きです)
勿論、僕は秘書としてすべてに同行しましたが、現場管理職たちがM社長のリーダーシップへの大きな期待を抱いていることは明らかでした。
労働組合の中央執行委員長をされていたOさんからも「新社長との二人っきりの懇親の場を設けて欲しい」と依頼があり、たしか大阪心斎橋の割烹をセットした記憶があります。こんなことはI社長の時代には無かった依頼でした。
同時にI社長時代に取り組んだ構造改革も効果を発揮しだしたことで業績も上向きになり、とにかく会社全体が前向きに取り組んでいけるような、そんな明るい雰囲気も感じていました。
アメリカ出張のお供が最高の想い出
M社長は、東京にご家族を残しての単身赴任だったので、新大阪駅近くのマンションにお一人で住んでおられました。
さすがに毎夜の外食は健康に悪いということで、自炊(魚をさばくのはプロ級です)もしておられましたが、やはり週に1~2度は近くの居酒屋に行かれていました。 僕も秘書としてご相伴に与る機会が多かったので、M社長とのコミュニケーションの量はI社長時代と比較にならないくらいに増えていました。本当に楽しい時間でした。
M社長との一番の想い出はアメリカ出張の際にお供させて頂いたことでしょうか。 カリフォルニア州ナパバレーにて 近畿コカ・コーラと友好関係にあるCCNNE社(Coca-Cola Northern New England社)の訪問が主目的でしたが、そこ(ニューハンプシャー州)に行くまでに、サンフランシスコやナパバレーに立ち寄って観光などもしました。 この出張にご一緒できたことは一生の想い出です。
さて、秘書室での仕事も3年となり、充実した毎日を送っていた時、またもや衝撃の異動通知を受けることとなります。
秘書室を離れたくない
12月のある日の朝、秘書室に人事部門を管掌するN常務が来られて、僕に「吉川、社長からなんか聞いてるか?」と意味深なことを言い出しました。
「何の話ですか?」と尋ねる僕に、N常務は「社長室に行って、Nが来て何か聞いているか?と言われました。と言ってみて」とさらに意味深なことを言います。
この後、すぐに社長室に入り、N常務のやり取りを申し上げたところ、「本当はもう少し先に言おうと思ってたんだけど」ということで、翌年から僕が人事部に異動することを告げられました。
正直なところ、当面はここ(秘書室)で働くのだろうと思い込んでいましたし、M社長のことが大好きだったので、秘書室を離れるのは本当に嫌でした。
しかし、社長は自ら、僕の異動の目的と僕の人事でのミッションを説明して下さったことで、腹が据わりました。
「部門業績評価のコンセプトを社員の目標管理と人事評価に応用し、会社の目標>部門の目標>個人の目標がしっかりと繋がる仕組みを作って欲しい」(M社長が就任されたときから、部門業績評価制度をつくり、これに基づいて部門長以上の評価を決めるような仕組みを構築し一定の成果を得ていました)
「当社は人材育成が不十分だ。一人ひとりが意欲を持って自己成長に取り組めるように人事部から仕掛けをしてほしい」
社長からしめされたミッションとはこの二つでした。
心に刺さる言葉
そして、こんな言葉を付け加えてくださいました。
「このまま吉川さんにいてもらった方が何かとやりやすいが、私のこの思いを実現してくれるのは、いつもそばにいてくれた吉川さんしかいない」
この言葉は本当に心に刺さりました。そしてこんなに心が震えたのも初めてでした。
「喜んで人事部へ行きます」とお答えした、あの時の社長室でのシーンは今でも明確に記憶の中にあります。
明確なミッションがモチベーションになる
物流企画課の時代に、取り組んだ物流ロジスティクス戦略の仕事の時も、当時のY課長から「物流サービス水準の向上、配達の労務負荷の軽減、物流コストの低減という3つの課題はトレードオフの関係だ。しかし必ず同時に達成する」というビジョンが示されました
最初は困難な課題だと思いましたが、一つひとつ形になっていく中で「これはやれるという確信」が大きなモチベーションに繋がりました。
今回も同様で、社長から示された「会社の目標を一人ひとりの目標に繋げる」「人材育成に取り組む」というのは明確なテーマです。
しかも、経営トップから与えられた直接のミッションに身が引き締まるどころの騒ぎではありませんでした。
明確なミッションがモチベーションに変わる実例だと思います
秘書業務は総務部へ
僕の後任は、営業部門出身のAさんでした。
気になっていたのは、経営会議の事務局業務、部門業績評価の運営、社長補佐としての仕事をどう引き継いでいくかということでしたが、経営企画部長のY取締役から 「秘書業務は総務部に戻す。経営会議の事務局業務、部門業績評価の運営、社長補佐としての仕事は経営企画部で引き受ける」 との話があったので、後顧の憂いなく、僕は人事部に異動することとなりました。
そして、翌年から僕の
「人事部 人事・人材育成担当 部長代理」
としての新たな仕事が始まりました。
最初は嫌で嫌でしょうがなかった秘書室での仕事でしたが、僕のアシスタント(女性)にも助けられ、何とか3年の任期を全うすることが出来ました。
この3年間は僕の大切な宝物の一つです。
(つづく)