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俳句のレトリック

2024.11.28 13:28

https://tsukinami.exblog.jp/30382254/ 【俳句のレトリック(1)】より

  一 レトリックとは

 レトリックの語は、修辞学あるいは修辞法、修辞技法などと訳される。ことばのあやという意味で、文彩と呼ばれることもある。

 ちょっとした言いまわし、文章表現上の小技にすぎないからというので、日本の詩歌ではレトリックを軽んじる傾向があった。これには近代以降の詩歌、特に俳句や短歌が、写生すなわち写実的描写を重視してきたことの影響もある。

 俳句のレトリックをまなぶ前に、ごく簡単にレトリック学の全体像に触れておきたい。

 伝統的なレトリックの語は、ヨーロッパで二千五百年の歴史を持ち、雄弁術、弁論術、説得術などと日本語に訳されて、体系化された学問領域を意味した。古代ギリシアの哲学者でプラトンの弟子であったアリストテレスの著書にも『弁論術』や『詩学』がある。

 一般向け入門書たとえば瀬戸賢一著『日本語のレトリック』(岩波ジュニア新書)などによれば、古典的なレトリックは、三つの分野と五つの技術部門で編成されていた。

  《分野》   《技術部門》

   思考 ――― 発想、配置

   言語 ――― 修辞

   実演 ――― 記憶、発表

 右の全体像のうち言語分野の「修辞(文体)」部門が文章表現におけるレトリックである。修辞すなわち効果的な言葉の運用によって、読者から共感を得るための技、テクニックといってよい。

 詩歌のレトリックもまた、単に言葉のあや、表面的な装飾という程度のものではなく、作者の意図を正しく読者へ伝えようとする、詩的内容に深くかかわる技術の体系なのである。現代の詩歌はレトリックの本来有する〝説得術〟としての役割をもっと尊重するべきだろう。読者からの共感なくして文学は成り立たないのだから。

 本稿では俳句のレトリックについて、適宜、実例(作品)をあげながら検証したい。

 俳句の修辞に、意味のレトリック、形状のレトリック、構成のレトリックの三種があると措定し、まずは、意味のレトリックから始めよう。

  二 意味のレトリック

① 直喩(シミリーsimile、明喩)

 類似性を直接的に示す比喩のこと。日常会話でも「花のような美しさ」などと用いられる。

 直喩の句は「~の如く」「~のやうに」「~に似て」とわかりやすい言葉で詠まれることが多い。口語句なら「~みたいに」も使えるだろう。

  向日葵の蘂焼かれたる地図のごと 今井 聖

  花びらのやうに公魚釣られけり  山田弘子

  山姥と夏蚕のかほと相似たり   黒田杏子

 しかし比喩が露骨、明白すぎることを嫌って直接的な言葉を隠したやり方がある。

  栄螺にもふんどしがありほろ苦し 津田清子

  摩天楼より新緑がパセリほど   鷹羽狩行

  浅蜊掘るうしろ姿は原始人    名村早智子

  穴惑ばらの刺繍を身につけて   田中裕明

 これらの句は、厳密には次項のメタファー(隠喩)に分類されるべきかもしれない。また、次の二句の場合も「~のやうに」や類似の言葉である「たとへば~」で直喩らしい形を整えた句でありながら、単純、直接的な見立てとはいえない。

  死ぬときは箸置くやうに草の花  小川軽舟

  たましひのたとへば秋のほたる哉 飯田蛇笏

② 隠喩(メタファーmetaphor、暗喩)

 メタファーとは、未知なるものを別の既知なるものに置き換えて表現する比喩のこと。典型的には、抽象的なものをわかりやすく具象的なものに見立てる技法といえる。

 戦前いわゆる「新興俳句」弾圧事件で特高に検挙された俳人がこんな反戦句を詠んでいる。

  戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉

 一方、徴兵制と縁のない平成の俳人は、平和な日常にひそむ暗部をこんな措辞で抉ってみせた。

  人類に空爆のある雑煮かな  関 悦史

 昭和三十年代に前衛俳句が盛んになった頃から、メタファーの語も注目されるようになった。

  彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太

  骸骨が舐め合う秋も名残かな  永田耕衣

  擦過の一人記憶も雨の品川駅  鈴木六林男

  うしろ手に閉めし障子の内と外 中村苑子

 抽象(概念や心情)を具象(目に見える物)で表現するという定義に限ってみれば、メタファーとは近代俳句における写生なのかもしれない。

  柩の中は蝶の乱舞であるだらう 今井 豊

  幻聴も吾がいのちなり冬の蝶  中岡毅雄

 (俳誌「いぶき」2020年2月発行、季刊第7号掲載)

https://tsukinami.exblog.jp/30382255/ 【俳句のレトリック(2)】より

  二 意味のレトリック(続き)

③ 擬人法(パーソニフィケーションpersonification)

 あらゆる人でないものの現象を人の行為や姿に見立てる技法のこと。人でないものとは動植物のみならず時候、天文、地理、生活にまで及ぶ。

  たてよこに富士伸びてゐる夏野かな 桂 信子

 自然を大づかみして、それでいてしなやか。

  車にも仰臥という死春の月 高野ムツオ

 ひっくり返った自動車の姿は平成二十三年三月東北の震災の象徴である。現代かな表記の句。

 擬人化はわかりやすさ、説得のしやすさという意味で修辞法の代表選手といえる。とはいえ、安易に用い過ぎると底の浅い作為を露呈しかねないから、とくに初学者は心して使いたい。

  冬菊のまとふはおのがひかりのみ 水原秋櫻子

  鉄塔のふんばつてゐる大刈田 塩川雄三

④ 共感覚法(シネスシージアsynesthesia)

 ある一つの刺激を受けて、五感のうち複数の感覚が同時に生まれる現象を「共感覚」と呼ぶ。

 あんがい日常でも頻繁に用いられる技法で、たとえば「音が大きい」は聴覚と視覚、「なめらかな味」は触覚と味覚、そんな二つの感覚を同時に反応させた共感覚法による修辞といえる。

  麦飯は日暮れの匂い私雨 塩野谷 仁

 私雨すなわち局地的な降雨が、嗅覚と視覚とを呼び覚まし、懐旧の情に訴えかける。

  静かにもとろりと灯る切子かな 鈴木花蓑

 この切子は盆灯籠の一種である切籠灯籠のことだろう。触覚の「とろり」が視覚に流れ込む。

  美しき緑走れり夏料理 星野立子

 この緑は何だろうか。料理の胡瓜や紫蘇やオクラ、鮎をのせた笹の葉。舌の上に走る新鮮な味。肌に触れる風のそよぎ。川床から見える山の緑。せせらぎの音や老鶯の鳴き声までもが聞こえてくる。これほど五感に訴えかける句は珍しい。

  やはらかき母にぶつかる蚊帳の中 今井 聖

  指揮棒の先より生るる音ぬくし 稲畑廣太郎

  見えさうな金木犀の香なりけり 津川絵理子

  三 形状のレトリック

⑤ 対句法(アンティセシスantithesis、対比)

 日本詩歌のレトリックはおおむね漢詩(中国古典詩)の影響を受けている。たとえば、盛唐の詩人である杜甫の五言律詩『春望』の冒頭部分が、対句の例としてわかりやすい。

  国破山河在  ~ 国破れて 山河在り

  城春草木深  ~ 城春にして 草木深し

 八句構成である律詩の通常ルールから外れているけれども、第一句と第二句が対を成している。この対称の妙は敗戦後の日本人の心を強く打った。

  鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女

  右の眼に大河左の眼に騎兵  西東三鬼

  水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり 鈴木六林男

  切株があり愚直の斧があり 佐藤鬼房

  しぐるゝや駅に西口東口  安住 敦

  一月の川一月の谷の中  飯田龍太

  昼は日を夜は月をあげ大花野 鷹羽狩行

  いつかふたりいづれひとりで見る櫻 黒田杏子

  右手に消え左手に点る大文字 名村早智子

  人を焼くにほひと繭を煮るにほひ 今井 豊

⑥ 反復法(リピティションrepetition、リフレインrefrain)

 反復法とは同じ語句の連続、繰り返しのこと。詩歌ではこれをリフレインと呼ぶ。

  あなたなる夜雨の葛のあなたかな 芝 不器男

 遠く彼方にあるものへの尽きない思い。

  つばめつばめ泥が好きなる燕かな 細見綾子

 十七音しかない俳句に「つばめ」の語を三度登場させた。それでいて決して浪費ではない。

  花に問へ奥千本の花に問へ 黒田杏子

 桜の名所、吉野の花はエリアごとに下千本、中千本、上千本そして奥千本と呼ばれる。リフレインの場合、意味を強調し印象を深めるよりも、リズムを高めたり調べを滑らかにする効果のほうが大きいのかもしれない。

  すこし読みすこしねむりぬ春の霜 中岡毅雄

 病後の療養中の作だろうか。「すこし」が二度あらわれて、傷つきやすい現代人の心をやさしく包み込む。対句の形状でもある。

  あじさゐの毬あつまりて毬をなす 鷹羽狩行

  一年生一年生を呼びに来る 名村早智子

  次の世もまた次の世も黒揚羽 今井 豊

https://tsukinami.exblog.jp/30382257/ 【俳句のレトリック(3)】より

  三 形状のレトリック(続き)

⑦ 倒置法(インヴァージョンinversion)

 文法的に正常、ふつうと考えられる語順を逆転させ、関心のありどころを明示する技法。たとえば、日常会話でも「怪しいな、雲行きが」と言って、後ろへ送った言葉に重心を置くことがある。

  放心をくるむ毛布の一枚に 山田弘子

 平成七年一月神戸で震災が発生した直後、被災者の茫然自失の姿を描く。現場に立ち会った俳人は、それ以上言葉を発することができなかった。

 季節感が十七音の中で埋没してしまわないように、季語を上五または下五に取り出すことはあるし、逆に、さりげなく中七に配して目立たなくする方法もある。

  鷹渡る白灯台を起点とし 栗田やすし

 渥美半島の南端、伊良湖岬で見る鷹の渡り。

  漕ぎいづる螢散華のただ中に 黒田杏子

 四万十川を下ってゆく船から見た光景らしい。

  翁に問ふプルトニウムは花なるやと 小澤 實

⑧ オトマトペ(声喩onomatopoeia)

 創造的な音韻表現を用いた技法のこと。その代表格が擬態語あるいは擬音語、擬声語である。

 押韻をオノマトペに含める考え方もあるが、ふつう別個に扱われるため次項でとりあげる。

  天地の間をほろと時雨かな 高濱虚子

  水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼

  鳥わたるこきこきこきと罐切れば 秋元不死男

  乗鞍の諸嶽ずつぷり霧浸し 山口誓子

  雪の水車ごつとんことりもう止むか 大野林火

  チチポポと鼓打たうよ花月夜 松本たかし

 これらの秀句を眺めていると、俗語の果たしてきた役割の大きさに気づく。オノマトペは万葉古歌の時代からつづく言葉遊びだけれども、ただの遊びじゃない。詩語に昇華された音の遊びである。

  学僧のむんずと摑む蛇のかほ 今井 豊

 昔は大人も子供も素手で蛇を捕まえた。修業僧ならば、庭の魔物ごときに怯えていてはいけない。

  とととととととととと脈アマリリス 中岡毅雄

 平仮名の「と」ばかり連続して十個縦に並んでいる。読み手は言いようのない不安に襲われる。侘び、寂びや滑稽だけが俳句じゃない。

⑨ 押韻(ライムrhyme,頭韻、脚韻)

 漢詩に〈同じ韻の文字を定位置(ふつう偶数句の句末)で用いなければならない〉という規則がある。この「韻」をあえて俳句で説明してみる。

  孑孒に生まれ棒振るほかはなし 名村早智子

 右の句では上五のボーフラ、中七のボーの語頭のボーが同じ音であるが、分解してみると子音Bを除いた母音Oが同じ響き(オー)を持っている。このように同じ母音の響きをもつ別の漢字(右の例でいうと、孑と棒)を句末に配置して対比させることを漢詩の世界で「韻を踏む」といった。

 俳句の押韻(頭韻、脚韻)は、そのような漢詩の押韻(脚韻)を応用したものである。同一あるいは類似の音(漢詩と違い、子音を含む。右の句でいえばボの音)を持つ文字を上五・中七・下五の複数の句頭または句尾(まれには中途)に配置し、リズム効果を高める。遊びの要素もある。

  目のなかに芒原あり森賀まり 田中裕明

  みづうみのみなとのなつのみじかけれ 同

 脚韻と頭韻の例。前句では下五に愛妻の氏名を詠み込み、駄洒落から脱している。後句では上・中・下の句頭に同じ韻のミを配して心地よい。

⑩ 省略法(エリプシスellipsis、切れ、体言止め)

 省略法とは文脈上容易に復元できそうな語句を省略し、余韻ある表現を生み出す技法のこと。

  大根引臀を濡らして帰りけり 国光六四三

 勢い余って尻餅をついた農作業の場面を省いてみた。類想のある句かもしれないが。

  天皇の白髪にこそ夏の月 宇多喜代子

 戦後憲法下における天皇のあるべき姿と非戦の誓いとを模索し続けた、前天皇の意志と行動。白髪はそのシンボルであり、これも広義の省略法。

  まだもののかたちに雪の積もりをり 片山由美子

 雪は降り始めたばかり。日常から非日常へ。

 また「切れ」も俳句における省略法の一典型。長い和歌・俳諧の歴史の中で、具体的な道具として、切字や句末の体言止めなどが編み出された。

  よろけ来て仮寝をかはる蚕飼かな 皆吉爽雨

 蚕小屋で寝ずの番を交代するとき、次の人が寝ぼけたまま、よろけるようにやってきた。

  東山回して鉾を回しけり 後藤比奈夫

  流氷の渾身の白ふぶきけり 中岡毅雄

  短夜の赤子よもつともつと泣け 宇多喜代子

 (俳誌「いぶき」2020年8月発行、季刊第9号掲載)

https://tsukinami.exblog.jp/30382259/ 【俳句のレトリック(4)】より

  四 構成のレトリック

⑪ 本歌取り(引喩、アリュージョンallusion)

 先人の和歌を踏まえ、その一部を明らかな形で借用しながら、本歌を超えるような詩的世界を生みだす技法のこと。

 鎌倉初期の勅撰和歌集「新古今集」の時代に流行し、いまだ根強く試され続けている。遊び心と知的好奇心とが刺激されるせいだろうか。

  あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 作者不詳

  ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月影 藤原定家

 前の歌は「万葉集」に詠み人知らずと記され、一説に柿本人麻呂作と伝えられる。後ろの定家は「新古今集」の撰者で、のちに歌聖と称えられた。こういう二首ならば誰だって本歌取りとわかる。

 俳句にもこの技法を応用した例が少なくない。

  凩の果はありけり海の音 池西言水

  凩や目刺に残る海の色 芥川龍之介

  海に出て木枯帰るところなし 山口誓子

 元禄期の言水は右の一句をもって「凩の言水」と呼ばれた。龍之介や誓子の句は、言水の句を本歌(本句)と意識しながら詠んだものだろう。

  滝をのぞく背をはなれゐる命かな 原 石鼎

  飛込の途中たましひ遅れけり 中原道夫

 道夫の句が石鼎作を踏まえたものかどうか分からないけれども、似たモチーフではある。ちなみにこの心的現象を「遊離魂」と呼ぶそうだ。

  水遊びする子に手紙来ることなく 波多野爽波

  水遊びする子に先生から手紙  田中裕明

 裕明は「青」主宰爽波の門下。先生から学びとりたいという率直な姿勢が伝わってくる。

  蒼海へ鷹を放ちし神の島  山田弘子

  神々の高さに鷹の光りをり 山田佳乃

 宮古島での作。二人は母と娘で「円虹」の創刊主宰と継承主宰。親子のような関係性ほど、乗り越えなければならない壁は高いのかもしれない。

  百代の過客しんがりに猫の子も 加藤楸邨

 芭蕉の『おくのほそ道』を踏まえた句遊び。

 本歌の一節が無意識に口をついて出るとき、それをしのぐ秀歌、秀句が生まれるのだろう。

⑫ 取合せ(列叙法、アキュミュレーションaccumulation)

 列叙とはならべ書きのこと。俳句では、ふつうモノとコトあるいは主題と副題とに、似て非なるものを組み合せる技法を取合せ、配合と呼ぶ。

  大試験今終りたる比叡かな  五十嵐播水

  叱りし子抱きしめてをり星月夜 名村早智子

  追憶はおとなの遊び小鳥来る  仁平 勝

  悉く全集にあり衣被  田中裕明

 実作において、どうやればうまく取り合わせられるのか。それは大きな問題である。以前別のところに書いた拙文「何をどう取り合わせるか」の中から、とりはやし(統合)の働きを紹介した次のくだりを転載しよう。とりはやしは、現代の国文学者堀切実が折にふれて論じているテーマでもある。

 先にあげた『俳諧問答』によれば、芭蕉は「発句は畢竟取合物とおもひ侍るべし。二ツ取合て、よくとりはやすを上手と云也といへり」と説いています。二ツをただぶつけ合っても、取合せの句になりにくい。そこで、二ツを結婚させる仲人役としてのとりはやし、すなわち、取り合わせるための措辞(詩的な言葉の選択)を上手くやりなさいとすすめています。

 ごく古い時代の歌謡に問答形式があった。二つを取り合わせる俳句の技法は、そんな和歌の伝統を引き継ぐ叙法なのかもしれない。

 取合せの類語である二物衝撃にも触れておく。

  夏草に汽罐車の車輪来て止る 山口誓子

 右は昭和八年の連作「大阪駅構内」五句中の初句で、映画技法モンタージュ(組立て)に関心を抱き始めた誓子による初期の代表作である。文芸界にモンタージュ論をいちはやく紹介したのは、物理学者寺田寅彦や詩人西脇順三郎ら。誓子が当時流行していたモンタージュ論からの応用として「写生構成」論の中で提唱したのが、俳句における二物衝撃の始まりともいわれている。

 二物衝撃とは物と物との思いがけない結合とその衝撃から生まれる詩情―それも乾いた抒情―を重視した技法である。とりわけ戦後の前衛俳句がこの概念を多用し、より強く意外性や即物性を重視した新鮮な組合せを駆使し、俳句に拡がりと深みとをもたらそうと目論んだ。

 俳句入門書の多くが、一物仕立てよりも取合せの形から俳句づくりを始めなさいと説く。写実的な描写を意識するあまり詩性を見失いがちな初中級者にとって、取合せは福音なのかもしれない。

  紫苑咲く子を生むためのふくらはぎ 今井 豊

  ひとたびは生を彼岸に冬ざくら 中岡毅雄

 (俳誌「いぶき」2020年11月発行、季刊第10号掲載)

https://tsukinami.exblog.jp/30382264/ 【俳句のレトリック(5)】

  五 レトリックと作意

 ここまでとりあげてきた、俳句のレトリック(修辞法)をまとめてみよう。

(a) 意味のレトリック

 ①直喩 ②メタファー(隠喩・暗喩) ③擬人法 ④共感覚法

(b) 形状のレトリック

 ⑤対句法(対比) ⑥リフレイン(反復法) ⑦倒置法 ⑧オノマトペ(擬態・擬音語) ⑨押韻(頭韻・脚韻) ⑩省略法(切れ)

(c) 構成のレトリック

 ⑪本歌取り ⑫取合せ

 十二の区分は先人の識見に従った。瑣末的にやるならば、もっと多くの技法をとりあげることは可能だろう。喩えをとっても、換喩だの提喩だの細分化できる。和歌を参考にするならば、枕詞、掛詞、縁語といった修辞を活用する手法もある。誇張表現だの、近景から遠景への視点移動だの、あれこれ修辞法と呼べなくもない。

  炬燵出て歩いてゆけば嵐山  波多野爽波

  倒・裂・破・崩・礫の街寒雀 友岡子郷

  猛ける日の猛ける心に桜満つ 今井 豊

  島唄のとほざかりゆく天の川 中岡毅雄

 本稿で、むやみにレトリック優先を推奨したかったわけではない。技法に執着して「作意」のあらわな句を詠んでしまっては本末転倒である。

 芭蕉の門人であった土芳が『三冊子』の「赤さうし」の中で、「風雅の誠を勤むる」心得として、次のような文章を記している。大正・昭和期の歌人・俳人たちが「実相観入」による「物我一如の境地」などと呼んで、尊重した教えである。

 松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞の有りしも、私意をはなれよといふ事也。この習へといふ所をおのがままにとりて、終に習はざる也。習へと云ふは、物に入りてその微の顕はれて情感ずるや、句となる所也。たとへ物あらはに云ひ出でても、そのものより自然に出づる情にあらざれば、物と我二ツになりて、その情誠にいたらず。私意のなす作意也。

 芭蕉は「私意のなす作意」すなわち先入観や自分勝手な考えにとらわれた、たくらみを戒めている。

 夏目漱石が英国留学前の三十歳ごろ熊本五高で英語教師をしていたとき、自宅に押しかけて来た教え子の寅彦から「俳句とはいったいどんなものですか」と問われて、こう答えている。

 俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。

 扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。

 物理学者の寺田寅彦が昭和七年に発表した随想『夏目漱石先生の追憶』に、右のエピソードが出てくる。先駆的な映画論や俳諧論を展開した寅彦は、映画のモンタージュ(組立て)技法と俳諧との親和性を指摘し、山口誓子らの俳人に大きな影響を与えた。近代俳句におけるレトリック論の嚆矢といえようか。

 子規の後継者、高濱虚子の言葉も紹介しておきたい。岸本尚毅著『生き方としての俳句』の中に、俳句の措辞(言葉の使い方)に関する、こんな指摘が出ている。

 虚子は選句について「措辞の上からは最も厳密に検討する」と言いました(『玉藻』昭和二十七年十一月号)。虚子は思想や材料よりも措辞を重視しました。

 この虚子の「玉藻」誌上談話は、選句に関する雑感として、岩波文庫版『俳句への道』に収録されている。対象物を的確に表現するためにどのような言葉遣い、すなわち措辞さらには修辞法を用いればよいかという点に、実作者でもある虚子がたえず腐心していた事実を示していよう。

 同じ談話の中で、彼はこうも語っている。

 より俳句らしいものを選ぶうえで、憎悪するべき思想を採らない、比較的単純な材料を採る。斬新であろうとして怪異なものを棄て、陳腐であっても一点の新し味があれば採る。

 「単純な材料」で「一点の新し味」という言い回しは、客観写生の如き指導語を発信した虚子らしい。その上での措辞、修辞法なのである。

 レトリックが、作者の意図、感動を正しく読者に伝え、共感を得るための説得術であることをいま一度意識してよいとおもう。秀句を真似ることも、己れの型を持つことも大切である。そのさい作句と鑑賞の両面で、レトリックは真に豊かな俳句を生み、育ててくれるはずである。

(了)

 (俳誌「いぶき」2021年2月発行、季刊第11号掲載)