「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 あり得ない設定でも「絶対にない」とは言えないドラマの舞台
「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 あり得ない設定でも「絶対にない」とは言えないドラマの舞台
毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「光る君へ」について、なんとなく好きなことを書いている。一応私は今のとこと「歴史小説家」ということになっていて、歴史とその創作物に関しては、それなりに「専門家」であるはずなのだが、このブログを見る限り、私が小説家であるというようなところは全く見えないということになっているので、毎週水曜日は「小説家」として、好き勝手なことを書かせていただいている。
とはいえ、私が書いている歴史小説のほとんどは幕末、あとは戦国時代の、男性が猛々しい時代であり、間違いなく平安時代ような「みやびの時代」というのは、私の射程範囲ではないので、専門家っぽい話は全くできない状態なのであるが、しかし、「史実」といわれるものと、実際の「小説」との間にある「齟齬」のようなものは、私の中にも常に存在しているので、その辺の観点でものを見ることができないではない。
実際に、歴史小説家で有名な吉川英治先生の「宮本武蔵」について、冒頭「地の巻」を見てみよう。
――どうなるものか、この天地の大きな動きが。
もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになッてしまえ。
武蔵(たけぞう)は、そう思った。
<抜粋・青空文庫より>
さて、これは有名な関ケ原の合戦の場面なのであり、宮本武蔵は、どうしてだかわからないがその戦場で死体に紛れて横になっているというような場面から始まるのである。しかし、「史実」ということでいえば、まあ、宮本武蔵が関ケ原の合戦に参戦していたかどうかもよくわからないし、また、その当時「たけぞう」と呼んでいたかどうかもわからない状態である。そもそも「思った」というのは、どこのどの資料に書いてあるのであろうか。
小説とはこのようなものである。当然にドラマも同じではないか。
「光る君へ」地味、身分が低い“ゲス雨夜の品定め”まひろ立ち聞きショック「最悪」ネット同情も
女優の吉高由里子(35)が主演を務めるNHK大河ドラマ「光る君へ」(日曜後8・00)は18日、第7話が放送された。話題のシーンを振り返る。
<※以下、ネタバレ有>
「ふたりっ子」「セカンドバージン」「大恋愛~僕を忘れる君と」などを生んだ“ラブストーリーの名手”大石静氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ63作目。千年の時を超えるベストセラー「源氏物語」を紡いだ女流作家・紫式部の波乱の生涯を描く。大石氏は2006年「功名が辻」以来2回目の大河脚本。吉高は08年「篤姫」以来2回目の大河出演、初主演となる。
第7話は「おかしきことこそ」。藤原道長(柄本佑)への想いを断ち切れないまひろ(吉高由里子)は、没頭できる何かを模索し始める。散楽の台本作りを思い立ち、直秀(毎熊克哉)に直談判。まひろの演目は辻で披露され、次第に評判を呼び、大盛況。しかし、噂を聞きつけた藤原家の武者たちが辻に駆けつけ、大騒動になる。一方、道長や藤原公任(町田啓太)らはポロに似た球技「打毬(だきゅう)」に参加。招待されたまひろは、源倫子(黒木華)たちと見物に向かうが…という展開。
試合が終わると、突然の雨。倫子の愛猫「小麻呂」が逃げ出し、まひろが追い掛ける。行き着いた建物は、道長たちの控所。公任や藤原斉信(金田哲)は着替えながら、好き勝手に“品定め”を始めた。
公任「そう言えば、漢詩の会の時の出しゃばりな女が来ていたな。斉信のお気に入りの…」
斉信「ああ、ききょう(ファーストサマーウイカ)だけ呼ぶのはマズいから、漢詩の会にいたもう1人も呼んでおいた」
公任「ああ、(藤原)為時(岸谷五朗)の娘か。あれは地味でつまらんな」
道長「斉信は土御門殿の姫に文を送り続けていたんじゃなかったっけ」
斉信「今日見たら、もったりしてて好みではなかったわ」「ききょうがいいよ。今はききょうに首ったけだ」
公任「だけど女ってのは本来、為時の娘みたいに邪魔にならないのがいいんだぞ。あれは身分が低いから駄目だけど」
斉信「まあ、ききょうも遊び相手としてしか、考えてないけどな」
公任「俺たちにとって大事なのは、恋とか、愛とかじゃないんだ。いいところの姫の婿に入って、女子(おなご)をつくって入内させて、家の繁栄を守り、次の代につなぐ。女こそ家柄が大事だ。そうでなければ意味がない。そうだろ、道長」
道長「ん?」
斉信「関白と右大臣の息子なら引く手あまたというところか。ま、いずれにせよ、家柄がいい女は嫡妻にして、あとは好いた女子のところに通えばいいんだよな」
立ち聞きしたまひろはショック。雨の中を駆け、屋敷に戻った。
「ちはやぶる 神の斎垣(いがき)も越えぬべし 恋しき人の みまく欲しさに(越えてはならない神社の垣根を踏み越えてしまうほど、恋しいおまえに逢いたい)」。まひろは道長の文を燃やした。涙がこみ上げた。
まひろにとっては聞くに堪えない公任と斉信の発言。SNS上には「最悪な雨夜の品定め」「F4(藤原行成/渡辺大知除く)のゲス会話は雨夜の品定めオマージュなんやろな」「(身分のことは)まひろも分かってはいるものの、実際のあの会話を聞いたらショックだよね」「部室トークというか、修学旅行の宿トークというか」「それにしても打毬、すべてが眩しすぎた。その後の部室トークとの温度差が…」などの声が上がった。
次回は第8話「招かれざる者」(2月25日)が放送される。
[ 2024年2月18日 20:45 ] スポニチアネックス
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2024/02/18/kiji/20211215s00041000350000c.html
さて今回の「大河ドラマ」も「創作」であると思う部分は少なくない。しかし、「記録に残っていない」ということは、「その内容がなかった」ということではなく「記録に残す必要がなかった」ということに過ぎない。まだ紙や炭が貴重品であり、文字を書ける人が日本の人口からすれば少なかった時代、いや、そもそも当時の「日本」とはどこからどこまでであったかわからないというような状況の中において、記録に残っているのかどうかという事だけを問題にしていても何の意味もないし、そのようなことは全く関係ないということになる。
ようするに「物語」というのは、後に「記録に残っている状態」に対して、その必要充分な人物の人物像やキャラクターを確立し、そのキャラクターであれば、「このように動くであろう」というようなことを想定して、当時存在しなかった、絶対にありえないということを排除して、そのおのが足りを「紡ぐ」ということを言うのである。まあ、歴史小説においては、この「紡ぐ」という言い方は非常に優れていて、実際に存在した「史実」と言われている記録に残っている内容と、そこから導きだしたキャラクターの正確や行動パターンをうまく組み合わせて「紡ぐ」ように一つの面を作ってゆくということになる。この内容を「史実」とは異なるとか言っているのであるが、作者からすれば、当然に「紡ぐ」内容であって、そこに導く出された内容は他の人の者とは全く異なる内容になるのである。
さて、今回は「直秀」(毎熊克哉さん)という人物が、史実には完全に出てこない人物でありながら、その存在感が大きな内容になっている。実際に史実であれば、藤原のあのようなメンバーが全員で打球をやるとは思えない。どちらかと言えば、他の人がやっているのを見ているというようなことであろう。そこに庶民の直秀が入るというのもなかなかあり得なさそうだが、しかし、あってもおかしくはない。そもそも打球の記録はないのだから、何を書いてもよいということになる。
そのうえで、その時に雨が降り、そして猫が逃げ出し、その猫を追いかけてまひろ(吉高由里子さん)が「本音」を聴くという状態。本来ならば従者がいるはずであろうし、その人々が観戦中も猫を世話する。いや、そもそも猫を外に連れ出すであろうかということも考えなければならない。そもそもその直秀の腕の傷を見て、道長(柄本佑さん)は盗賊が直秀であると気づき、そして心無い返事をしてしまう。超お猫を追いかけてきたまひろが盗み聞きをするような形になってしまうのだが、園道長の返事や心の事は、盗み聞きしているまひろには、そのことがわからず…というすれ違いの恋愛を演じている。
まあ、その会話の内容も「平安の貴族は女性こそ家柄が大事」というようなもので、「政略結婚そのもの」というようなこと、もっと言えば、女性が出世の道具であるというような感じだ。
「すれ違い」をうまく使い、また「偶然」をうまくつかった脚本はなかなか興味深い。しっかりと「紡いだ」物語が動いていることを感じる。現代劇であレば「自分に置き換えて」と思ってしまうが、平安時代の身分さなどがあって、それを感じさせない、しかし、「雅」でありながらスピード感のある物語はなかなか面白い。