草能の後ろいつより月在りし
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Facebook相田 公弘さん投稿記事
夜空を見上げると月が見えますね。満月のときもあれば、半月のときもあれば、三日月のときもあります。
しかしそれは、私たちの肉眼に見える月の姿であって、月の本当の姿ではありません。
私たちには三日月に見えるときがあっても、本当の月は、常にまん丸な球体です。
つまり、目に見える月は欠けていても、本当の月は、じつは一度も欠けたことがないのです。
人間も同様です。
仮に今、その人の不完全な姿が現れていたとしても、その人の本質は、最初から変わることなく素晴らしいのです。
そしてあなた自身の本質も、欠けたことのない月のように、最初から素晴らしいのです。
大切なことは、肉眼に振り回されるのでなく、心の目で真実を見続けることです。野口嘉則
Facebook宇宙からの呼びかけ投稿記事
道というものは、あなたが今通っているところではなくて、あなた自身だということを覚えておいてください。
あなたの外で起こっている変化というものは、本当はあなたの意識の中で起こっている変化なのです。
なぜならば、あなた自身があなたの現実を創っているからです。
ですから、あなた自身の変化を信じて変化に逆らわず、その変化の流れに乗って自分の一番やりたいことをすることが、あなたの本当の道を歩くことにつながってきます。
それがあなた自身の肯定的な成長につながってくるのです。
その時その時の本当のあなた自身にフォーカスしている状態、それが一番大切なことになります。
ひとつの道、これでなくてはならないということはありません。
もし道がひとつなら、この世の中には一人しかいないことになります。
バシャール
Facebook阿波宇多雄さん投稿記事
拙稿の一部です。ご笑覧を。
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そして響きの海へ
『月の裏側』という著書のなかで、「日本文化は調べ(tone)の文化である」といみじくも指摘したのは、フランスの文化人類学者のレヴィ=ストロースでした。
かれは、数回来日して神武天皇の古里などを隅々まで歩き、そこで実際に、ある神霊の声を聴き、日本には西洋人の見えない世界が生きていることを発見しました。「知性の世界」にいる西洋からは見えない「調べの世界」が日本に息づいていることを発見して、ストロースは非常に驚いたのでした。「月の裏側」は、地球からは見えないけれども、表と対をなすものとしてやはり実在していたのです。
欧米を論理の文化、神学の文化とすれば、わが国はそれと対照的な調べの文化、響きの文化といってよいでしょう。私どもは、自由主義やバルト神学といった一貫性のある体系的な論理や神学によって説得されることよりも、天地(あめつち)に生り成りて鳴る「響き」の心地よさを味わって物事の良しあしを判断することを好んでいます。体感して「腑に落ちる」身体感覚を重視しているのです。
わが国は、和歌、俳句、謡曲、詩吟、カラオケといった多様な響きを発展させてきましたし、浮世絵や漫画、絵文字、アニメも調べの文化の延長上にあります。それは、日本語の倍音豊かな母音の響きがもたらす右脳と左脳の精妙なバランスによって磨き上げられてきたものと多くの脳生理学者は指摘しています。
この響き(resonance)の文化を、ひとつの思想に体系化したのは、ほかならぬ真言密教の空海でした。空海は、宇宙を構成する地、水、火、風、空の五大要素は、すべて響きを発している、「五大みな響きあり」と説きました(『声字実相義』)。
これは驚くべき発見です。思弁の得意なインド人のシャカが、「因果の無限連鎖」ととらえた実相を、日本人の空海は、身体感覚で感じとる「響きの無限連鎖」におきかえたのです。マントラと想念の響きを伝えることを通じて、身体と宇宙の因果を調えようとしたのです。真言密教は、池に波紋が広がるように宇宙の海に調和のとれた響きの波紋を伝えようとする、まさに「響きの宗教」といってよいものです。
最近の素粒子物理学では、物質は五次元ないし十一次元の膜に存在の根を持つ極微なヒモの振動体であるというヒモ理論が登場してきています。電子、原子も分子、細胞もすべてヒモの波動体であるというのです。とするなら、「五大みな響きあり」という空海の説は、そろそろ「五大みな響きなり」と修正してよいのではないでしょうか。天地を構成する地、水、火、風、空は、響きの事(こと)タマとして生り、成り、鳴っているのですから。
いうまでもなく、事タマや言タマだけでなく、形も数も想念も響きの波動体であり、意識体(タマ)であります。三角、四角、丸とそれらの組み合わせのカタチから発する響きはカタタマと呼ばれ、1から9までの数とその組み合わせが出す波動はカズタマと呼ばれています。愛や憎しみなどの想念は、瞬時に地球の裏まで飛んでいくオモイタマであることは、水の氷結結晶の国際実験からも裏付けられています。
わが国の「和」の国体物語は、このようにコトタマとカタタマ、オモイタマなど多重のタマの響き合わせを通じて、近代論理とイデオロギーによって乱された世界の波動を調えていくことを目的としています。中東における諸宗教の対立と戦乱がもたらしている地球の波動の乱れ、中共の国内圧制と民族弾圧が招いている波動のゆがみを、ヤマト心は響きあう言葉と想念と祈りを持って調え、雄々しき行動でもって整えていくことを求められています。
カオス理論によると、北京で羽ばたいた蝶の響きは、連鎖反応を起こしニューヨークで嵐をよぶことがあるそうですが、これからの日本は、コトタマをはじめ、多重のよいタマを響かせ、地球と宇宙によい波動の波紋を伝えて因果の連鎖を調え、対立と紛争に明け暮れる世界を包みこんでいくことが使命となるでしょう。それを先導するのが、宮中賢所でささげられる、地球の祭祀王たるスメラミコトの祝詞の響きであってほしいと私は願っています。
https://diamond.jp/articles/-/218001 【能楽に魅せられる外国人たち、なぜ「分かりにくさ」が好まれる?】より
歌舞伎と比べてとっつきにくいといわれる能だが、意外にも欧米などを中心に根強い人気を誇っている。能の何が、彼らを魅きつけているのだろうか
600年以上の歴史を誇る日本の伝統芸能の「能」。華々しくわかりやすい歌舞伎や落語などと比べ、能の面白さや見方はいまいちわからないという人は多いかもしれないが、実は海外では根強い人気を誇っている。なぜ能が海外でウケるのか。能楽研究者で法政大学名誉教授の西野春雄氏に聞いた。(清談社 岡田光雄)
フランス人も魅せられる
能の神秘性
しばしば能は同じ伝統芸能の歌舞伎と比較される。市川海老蔵や中村勘九郎、尾上松也など歌舞伎役者の名前は出てきても、能楽師はほとんど思い浮かばないという人もいるだろう。
能は、歌舞伎や文楽(あやつり人形劇の芝居)などと同様に、演目ごとのストーリーがあり、謡(歌唱部分)や舞、動き、囃子(楽器演奏や掛け声)を奏でながら物語を進めていく劇である。役者が顔に化粧を施す歌舞伎と違い、多くの場合、能はシテ(主役)が「面」をつけるのが特徴だ。
能は世界で最も古い劇の一つであり、「舞踊と音楽と演劇とが一体となった総合芸術」と称される。その神秘性は海外の人たちをとりこにしているようだ。
「能の海外公演が行われたのは1954年、イタリアの『ヴェニス国際演劇祭』が最初ですが、それを皮切りにフランス、ドイツ、イギリス、アメリカなどで行われてきました。今年2月、パリで開催された『ジャポニスム2018-響き合う日仏の魂-』では、初めて屋根や柱、舞台、橋掛りまで日本から持ち込み、会場のアリーナに本格的な能舞台を組み立て、能と狂言を5日連続して上演。約700人のフランスの人々は、観客席に突き出し開け放たれた簡素な白木の舞台、まるで教会にいるような神秘な世界に驚いたようです」
歴史上のフランスの偉人たちの中にも、能に魅せられた人物は多い。明治時代に来日した宣教師・音楽家で能楽研究の先駆者ノエル・ペリーは「能は生きた彫刻である」、劇詩人で外交官として駐日大使も務めたポール・クローデルは「劇、それは何事かの到来であり、能、それは何者かの到来である」、俳優のジャン=ルイ・バローは「能の静止は息づいている」という言葉を残している。
https://plaza.rakuten.co.jp/operanotameiki/3055/ 【●俳句と能】より
もう七八年前のこと、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館で能面展を観た。木造の古い建物は、次の面へと歩を移すたびに床板はミシミシと音をたてる。お客は私一人という静かな会場の、隅っこに監視員の男性が一人、退屈で所在なげに椅子に腰掛けていた。その監視員は私のたてるミシミシにきっと耳を傾けていたに違いない。
その時は現代能面作家の作品展で、橋岡一路作の「おもかげ孫次郎」も出品されていた。三井文庫の特別認可を得た本面「孫次郎」の写しである。数年前三井文庫で出品されたとき、本面と写しと二つ並べて展示されていた。三井文庫は、研究員である友人から時折入場券をいただいては出かける、小さな美術館だが国宝も展示されたりする。何より、いつも空いていて、「孫次郎」だったり、黒楽の茶碗だったり、雪舟の屏風だったりの品々と好きなだけの時間向き合っていられるのだ。
面との最初の出合いが、そんな空間での「孫次郎」であった。おそらく最初に一番私が好きな面に出逢ってしまったのであろうが、この「孫次郎」は本当にバランスの取れた面だと思う。凛とした美しさ、儚さ、こよなき優しさ、そして頼りなげな淋しさをも漂わせてもいる、あらゆる女性の美徳を具えた、特に品格の高い、面であったのが幸せであった。
又、ある年の暮のこと、国立能楽堂で、歌人馬場あき子の新作能「晶子・・みだれ髪」を観た。新劇俳優の松橋登が、背広、白足袋姿で、能舞台に現れたのには驚いた。能舞台に上がる人は誰れも白足袋を履く決まりだということを、その時初めて知った。狂言廻しのような青年の役で物語を説明する。台詞は勿論新劇調なのでよく分かった。辻村ジュサブローが能装束の制作をした。色調の少しずつ違う衣装に描かれた三様の穂芒が、与謝野鉄幹、晶子、山川登美子の情念にいまにも炎え立ちそうであった。その折、晶子役の着けた面が「孫次郎」であった。
古典に疎い私だったが、俳句会ではあらゆる分野の俳句が選句の時に回ってくる。どうにも分からないままでは、きちんと句意が掴めない。最初の頃は、何もかも分からないことだらけであった。と言うわけで、俳句をきっかけとして、少しずつお能、歌舞伎、文楽と観るようになった。色々な細い糸がだんだんと繋がってくるのも愉しい。一番分からないが故に、お能に一番惹かれていった。
高浜虚子の曾祖父高浜高年は能の盛んな松山藩の藩公の鼓の相手をしたり、特に召され地頭を勤めたりした。父信夫は旧藩時代は地謡方、廃藩後は東雲神社能の地頭であった。虚子の兄信嘉は鉄道会社の重役の地位を捨てて上京し、明治になって凋落をたどりつつあった能楽を何とか元に戻そうと、能楽振興、楽師の養成に一身を抛ち、雑誌「能楽」を創刊したり、能に一生を捧げた人であった。虚子の能好きも当然であろう。
父恋し松の落葉の能舞台 虚子 花の雨降りこめられて謡かな 虚子
薪能もつとも老いし脇師かな 虚子 天女出現す春水廊の下に満ち 虚子
春の夜の月に天女の舞を見よ 虚子 更級や姨捨山の月ぞこれ 虚子
序の舞の序の徐ろに月の舞 虚子 春霞永久に羽衣物語 虚子