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偉人『広岡浅子』

2024.03.08 00:00

おてんばな少女時代を送った偉人といえば数名浮かんだのであるが、強い決意とずば抜けた行動力を持ち、嫁ぎ先の窮地を救い激動の明治大正時代を生きた女性実業家 広岡浅子を取り上げる。おそらく彼女の名前が広く全国的に渡ったのは某ドラマであろうが、大同生命の創始者でもあり、日本女子大学の設立にも尽力した人物といえば女傑をイメージして然であろう。今回は彼女の豪快で逞しく強い彼女の中に隠されている幼児期に獲得しなければならなかったものを探し出してみようではないか。

挑戦し続けた女性実業家の広岡浅子は、ペリー来航の4年前1849年京都の出水三井家の令嬢として誕生する。この時代は女性が自由に生きることができず不自由さが定めとされていた時代である。このことを表すエピソードが彼女が2歳の時に決定されているのだ。2歳といえば赤ちゃんから脱却し言葉も操りながら自我が芽生えていく中でも親は我が子を可愛がる時期であるが、浅子の場合には2歳にしてもう嫁ぎ先が決められていた。浅子が幼くして嫁ぐことが決められた先は当時日本の経済の中心であった大阪で一、二を争う豪商の加島屋であ理、いわゆる家と家との結びつきを考えて決められたことは明らかである。

幼少期の浅子は良妻賢母のための裁縫、生花、お茶、琴などの毎日の稽古を受けさせられるもその合間を縫って家の丁稚と相撲を取り丁稚をねげ飛ばすことは日常茶飯事、家の庭の大きな木に登り、竹馬で体を動かして遊ぶ方が好きで周りが見ていてもハラハラドキドキなおてんばな娘であった。

彼女が育った時代は幕府が揺らぎ始め新しい時代を予感させる激動期で父三井高益は、情報の入手が早く激動を乗り切るためには金銭ではなく、人物投資が必要として子供達に最高の教育を受けさせた。その教育は兄弟が受け彼女の姉や浅子はその教育を受けることができなかった。その理由は女は家庭を守るための習い事だけしておけば良いという考えと女に学問をさせると鼻持ちならない女性になるとして不要と考えていたからである。しかし浅子は弟らの捨てていた漢学の本を拾い隠れて読み耽っているところを見つかり、劣化の如く父に叱責され13歳で読書禁止令を出されたのである。それでも彼女の学問に対する貪欲さは収まらず算術にも興味を示し虎視眈々と学ぶ機会を伺っていた。

自分自身の人生を親でありながらも自分以外に決められることに反発し、嫁ぐ際にもその反発態度を示していたため父にこう言われたのである。「もし出戻りするのであるのならば尼にして一生寺に閉じ込めるぞ」とかなり厳しい口調で言われあまりの強硬な父の態度に浅子は震え上がったそうである。しかしその父のその言葉がなければ浅子は自分の意思で学問を学ぶこともなかったであろうし、多くの事業を成し得なかったであろうし、日本の女子教育は何百年も遅れていたであろう。何より男尊女卑の考え方を根底からひっくり返す彼女の反骨精神は培変われなかったと言えるだろう。

さて嫁ぎ先での浅子は生まれた三井家の厳しさとは真逆の環境に身を置くことができた。嫁ぎ先の広岡家でやっと望んでいた学びの機会を得て自由に学ぶことができた。夫真五郎は家業を父や番頭に任せ歌や三味線を習い歩く言葉は悪いが老舗のボンボンで頼りなかったのが功を奏し、彼女がしたいということをさせてくれた。

しかし彼女の凄さはここからである。時代の激変と広岡家の家業が傾いていく様に不安を抱き自ら家業の状態を知りたいと何度も懇願し帳簿に目を通す機会を得た。寝ずに片っ端から帳簿を目にすると100以上の大名に900万両(現代の価値で4500億円)を貸し付けている証文があルガ、その貸付金を回収することができず現金がないことに気付く。また新政府軍と幕府が大阪の商人に軍資金を要求し、これでは家が没落するいうことで20歳で付き人を一人だけ同行させ江戸の大名のところへ貸付金の返済を要求するため一大決心で乗り込んだのである。女性の地位が低い時代そして幕府存続だ、新政府樹立だと危険をはらんでいる緊迫した時に刀を手にした武家に商人身分がそれも女性が真っ向きって乗り込むなど商家の男性でも恐れ慄いてできないことだが、浅子の肝の座り方は尋常ではなく自分自身が相手と対峙しなければ何事も進まないとしたのである。しかし彼女には対峙する武士のどこを突けば翔さんがあるということを理解していたようだ。というのも浅子は漢学、儒学、算術、武士道など寝る間を惜しんで学んでおり、その独学で学んだことを糧に減額返済を迫り貸金の一部返済に成功したのである。当時は証文がただの紙切れとなり全国各地の両替商が次々と潰れた中で、浅子は取り戻した一部の貸付金を元手に新たな企業に乗り込むことになったのである。その後の広岡浅子の活躍はまた別の時に記すことにし、今回はなぜ彼女がこんなにも逞しく自分の道を信じて生き抜くことができたのかを幼少期から紐解いて考えてみよう。

浅子の生まれた三井家の系譜を見てみると実は浅子の母の名前は無い。なぜなら浅子は父三井高益の正妻の子供ではないからだ。いわゆるお妾さんの子供で母は浅子を産んだ後に三井家から出され縁を切られているからである。少し見方を変えて欲しいのだが、もし夫が他の女性に生せた子供を引き取って同じ屋根の下で暮らすとしたらどのような思いや行動をするだろうか。我が子と分け隔てなく育てることが可能であろうか、はたまた生さぬ中の複雑な関係で辛く当たるか無関心になるか、はたまたある程度体裁を繕って生活をするだろうか。大人にとっても難しいことであるが、実は子供にとっては人生を大きく左右する環境なのだ。浅子は家に仕える奉公人(乳母)に育てられたであろうが、人格形成に最も重要で真っ先に関わらなければならぬ母親と接することも、その母の愛情を注がれることも無く育ったのである。感の鋭い人ならお分かりだろうが、彼女が逞しく強く一代で大きな事業を展開できたのは誰かに頼るという選択肢が元々持っておらず、自分自身だけを信じて決断してきたからである。彼女が炭鉱事業を行った時に荒くれ者の炭鉱夫達の中にピストル2丁を懐に入れて何かあったら自害することも決め現場に乗り込んだのは有名な話であるが、そこには誰かを介して物事の状況判断をすること良しとせず、自分自身の目で見て話を聞いて現場の雰囲気を肌で感じてという現場主義を貫くことを徹底していた。そのような気質は親に甘える環境に無く三井家の令嬢として厳しく育てられ、幼い頃から自分自身で何もかも選択を決断してきたからではないだろうか。

晩年彼女は乳がんを患い日本で初の胃が手術をした帝大の外科医の執刀で命を取り留めたのである。その後彼女はこれまでの人生は自分自身の頑張りで全てを成し遂げていたが、病は自分自身がどう頑張ってもどうにもならないことに気付く。そしてある講演会で手術時の麻酔で人生初めての心地よさを感じたと話している。誰かにやわらかく温かく包まれているような感覚と人生で初めて自分自身の命を誰かに委ねる思いをしたというのだ。それまでの彼女は常に仕事の失敗をしてはならぬ、仕事の段取りが狂ってならぬ、抜かりがあってはならぬ、社員のため人々のため女性のために自分自身を奮い立たせて強い信念と気迫でやり抜き生きてきた。その強さがどこから来るのかといえばやはり私は母親に甘えた経験がないことだと考える。事実広岡浅子は晩年人生の中で一度も甘えた事などなかった話している。六十を過ぎて初めて甘えるということが自らの人生には欠けていたのだと気付いたという。

また結婚後自分自身の弱みを見せ甘えることができる夫にさえもできなかった。夫が頼りなかったということもあるだろうが、実は自分自身の出生に似た経験をしていることが大きく関わっているだろう。実は結婚時に浅子の世話係としてついてきた女中小藤が夫信五郎のお妾になり4人の子供を産んでいる。この騒動で夫に甘えることもできない環境が生まれてしまったがために生涯甘えることができなかったのかもしれない。がしかし彼女のすごいところはその女中の子供と我が子を分け隔てなく育てたところにもある。その事実からも彼女は常に冷静に物事を判断する理性の人であった。そのことが良いことなのかどうかは広岡浅子のみが実感し判断できるものであるが、一人の女性として甘えるという感情がどういうものなのかに気付けたことが彼女の大病の意味だったのではないだろうか。

それではまとめに入ろう。広岡浅子は感情よりも理性が大きく上回る心持ちの人物だった言えるが、やはり感情も理性もバランスを取って生きることが人間らしいのかもしれぬ。多くの人々のために生きる人物であるならば理性が必然と大きく働くのでは無いかと考えるが、一人の人間として愛されたことや誰かに甘えたという記憶が根底にあれば、より多くの人々との関わりを持ち協力し合い事を成し遂げることができるのではないだろうか。世のお母様方には我が子が甘えてくるタイミングにこそたっぷりと温かく包んで欲しいものだ。