16:墓参り
七月の後半、さすがにスーツはぐっしょり汗をかいた。ひたいや首すじを何度もハンカチで拭き、明智はうしろを歩く彼を振り返る。
「ごめん、……付き合わせて。暑いよね」
おなじくスーツを着た彼は水の入った木桶を持ち直しながら、いや、と首を振った。
「一緒に来たかったから」
「……そう。……ありがと」
青空がときどき曇る空の下、よく掃除された立派な石畳を革靴で歩いて二人で墓地をゆく。青山からほど近い、由緒ある寺の霊園だ。墓参りの荷物が多いので今日は彼の運転するレンタカーで一緒に来た。
東京のお盆は七月の半ばで、そこから一週間ほど経っているから人影はもうほとんどなかった。さぞ立派だったろう花束があちこちの水差しでカラカラにしおれている。
メモ書きのノートを片手に目的の家の墓に着くと、明智は張りついた茶髪を耳にかけて顔を上げた。
奥村家之墓。
その区画はこのあたりでもいっとう広くて豪壮な造りで、ピカピカの御影石はまるで鏡みたいに二人を映した。訪れた客も多いのか所狭しと花が飾られ、中にはまだ新しいものもある。
墓石に向かって一礼して、二人は上着を脱いだ。ワイシャツの裾をめくって枯れた花を片づけ、空になった竹筒を洗って持参した仏花をそこに飾る。
墓石全体に水をかけて細かな汚れを清めると、線香をあげて手を合わせた。蝉たちがジリジリと読経している。
目をつむった明智はかつての奥村社長に思いを馳せ、それから、その娘の春の顔を思い浮かべた。
社長の急逝による代替わりのわりに、春はなんとか内部をまとめて新しい奥村フーズを創ることに成功していた。ニュースで見かける株価は以前と同じような水準に戻ってブラック企業のネガティブなイメージはすっかり払拭されたようだ。
(……それでも、)
明智は目蓋を開け、石に刻まれた故人の名前をまっすぐ見る。
それでも、明智が春の父を殺したことには変わりがない。
「もういいんだよ、私は気にしてないから」
たまたまルブランで会った春はそう言って笑っていた。でもそれは彼女が強くてやさしいからだ。もし復讐に殺されても、明智は文句を言えない立場だろう。それにたとえ春が本心から明智を許しても、明智には自分を許す気がなかった。
「……そろそろ行こうか、誰かに会っても困るし」
「ああ」
濡れた上着を脇に抱え、来た道をもどりながら明智はノートに貼られていた付箋をぺらりと剥がした。最後の一枚だったそれをゴミ袋につっこみ、ふう、と息を吐く。
「ここで最後だ、……お盆の前に終わってよかった」
「あと、お母さんのところだろ」
「うん」
ただ、一連の事件で明智が手にかけた人々の墓参はここが最後だった。七月に入ってから明智は時間をみつけてすべての関係者のところに花を手向けに行っている。
去年まではひとりでやっていたが、今年は彼が行きたいと言うのでなるべく一緒にそうしていた。一番近いところは電車で数駅、遠い墓は四国だ。日に日に気温が上がっていく中なんとかすべてをめぐり終えた。
駐車場で軽に乗り、明智はほっと汗を拭く。ぬるくなったペットボトルの緑茶を最後まで飲み干して、日差しで火照ったほっぺたに手の甲をあてた。おなじような顔つきでシャツの襟をあおっていた彼はゆっくりと車を出し、ややあって冷房が効き始める。
「猛暑で東北の鍾乳洞まで溶けてるんだって」
「え? ……へぇ、そうなんだ」
「テレビでやってた。コンビニのアイスクリームも売り切れって」
「……あぁ、そういえば、昨日寄ったら少なめだったかも。そんなこと言われたら食べたくなってきたな」
「途中で買おうか」
「まぁ、停めやすいコンビニあったらかな」
相づちを打ちながらなんで急にそんな話をするのだろうと思って、答えはすぐ浮かんで明智は内心納得した。
どうしても暗い顔の明智に気を遣っているのだ。いつもは明智の顔色なんて無視するマイペースのくせに、こういうときばっかり気が利いてまったく嫌になる。エアコンの独特の排気臭を浴びながら明智は苦笑した。自分も行くと彼が言ったときは迷ったけれど、二人で来てよかったなと思った。
てきとうなファミレスで昼を食べてデザートのアイスで涼み、凍りそうな冷房ですっかり体が冷え切ったところで店を出る。真上を過ぎた太陽が途端に照りつけたが、体に涼しさが残っていたから先ほどの墓地よりはいくぶんマシに感じられた。
二十三区を離れて四、五十分ほど西へゆき、建物の丈が低くなってきたあたりに車は停車する。よくある町中の墓地は午前中の霊園とくらべれば雑然としていていたが、都心よりは緑が多いのでどこか明智はほっとした。
「えっと……ここを右に曲がって……あった、これだ」
たどり着いたのは他のどこより小さく質素な一畳ほどの区画だ。土の上に膝くらいの高さの不格好な石が突き刺さっただけのそこは、墓というよりみすぼらしい地蔵かなにかのように見えた。
「母さんは、……親族の墓には入れなかったから、まとまったお金が入ったときに、僕がここに埋葬したんだ」
「……今度、人に頼んで舗装してもらおう。貯金ならいくらかあるから」
「君が出すいわれは、」
いや、と彼は首を振った。自分がそうしたいのだという。きっぱり言いきるので明智もそれ以上は続けなかった。警察の下働きとはいえさすがに自分も無賃労働ではないので、二人分合わせれば一応の見た目の墓にはできるだろう。
二人は言葉もなくその場にしゃがみ、荒れ果てた土から雑草を引き抜いた。猛暑はうなじを容赦なく燃やし、出掛けに日焼け止めは塗ってあったがそれでも痛みを感じて明智は濡らしたハンカチをそこにのせた。
ワイシャツ一枚でも滝のように汗が湧き出て、ときどき目の端にもしみてツンとした。むっとする青草の匂いと土ぼこりに何度かむせながら、ゴミ袋にせっせと雑草を投げ込んでゆく。
真っ昼間を泳いだみたいにすぐ全身汗だくになって、下を向いているのに辺りのコンクリートの照り返しで顔中熱かった。
しばらくして墓石のまわりを整え終え、二人はようやく花をそなえて線香を置く。しろい煙が青空にゆらゆらと高く伸びて、白檀の香りが辺りを包みこんだ。二人は墓前に並び立ち、汗みずくで手を合わせる。
黙祷は例年より、すこし長くなった。
ここに誰かを連れるのは彼が初めてだ。友とも恋人ともつかぬ男をなんと言って母親に紹介すればいいのか明智にはわからなかった。
迷った末にただ名前と、親しい相手ということだけ胸中で母に告げる。もちろん返事はないけれど、なんだか墓石はキラリと光ったように見えた。
(……父さんは裁判がすすんでいて、僕はあいかわらずだけど、まあ、元気でやってるかな。こいつがうるさくて困ってるよ、夏だから海とか、お祭りとか行きたいんだって。……子どもみたいだよね。断ると拗ねてうるさいんだ)
誰に届くでもない話をしばらくして、明智はハアッと顔を上げた。となりの彼が小首をかしげる。
「もういいのか?」
「うん、満足した。……ありがとう」
「いや、……行こうか」
二人はなるべく木の下を歩いて、水場で汚れた手や顔を洗った。頭のてっぺんからバシャバシャかぶるといい気持ちだ。お互い犬みたいにぶるっと頭を振って笑い、くたびれた体で車に乗った。
「……明智、このあとって予定ある?」
運転席でシートを締めながら彼がきいた。明智はきょとんとする。
「? いや、特に決めてないけど」
「そうか。ちょっと、付き合ってもらってもいい?」
明智はすんなりうなずいた。
「いいよ、今日は車も出してもらってるし。君の好きなとこで」
「わかった」
「……ねえ、バカなの? スーツに革靴なんだけど?」
「そうだな」
車はときどき休憩をはさんで関東の海岸線をドライブして、日が暮れたころ、彼はてきとうなコンビニに立ち寄って、それから海辺に停車した。
あちこち走ったがどうやら標識を見ると幕張の近くのようだ。べたつく潮風に髪をかきながらついて行くと、あろうことか彼はこの格好でビーチへ行こうとするので明智はうんざりした声を上げた。しかし彼は気にしたふうもない。砂の粒子に沈みながら一歩一歩、仄暗い海に向かって歩いていく。
とっぷり日が落ちて観光客はもうなかったが、かわりに散歩をする姿や部活動の生徒、ダンスをする者や、配信かなにかのカメラを持ち歩く人影があった。いずれもぽつぽつとしていて、すこし離れるとすべての物音は打ち寄せる波の音にまぎれてゆく。
靴の中にはじわじわと砂が侵食して、なぜこんなところに連れて来られたのだろうと思っていた明智は、あ、と声を上げる。
「きれいだな」
「……うん」
明智は彼の言葉にうなずき、二人は遠くにキラキラときらめく光の筋をみた。ーー花火だ。子連れが手持ち花火をしているらしい。ふしぎと心やすらぐ場所だ。彼もなんとなくそう思って足が向いたのかもしれない。
とはいえハッキリどこに行くあてもなかったのか彼は気まぐれにその場に座って、かたわらに転がっていた、すこし大きな流木を手で払った。座れということらしい。とがった木のなるべく平らな面に腰かけて明智が座ると、彼は手にしていたコンビニの包みを持ち上げた。
「ビールでよかった?」
「いいけど……お前は?」
「コーヒー買った。……はい」
運転手は明智に金色の缶をわたし、自分はペットボトルの蓋を開けた。明智も受けとってカショ、と音を立てる。なにも言わずに理解されているのは悔しかったが、たしかに飲みたい気分だった。
ぐび、ぐび、と、すこしあおり、独特の苦みにふうっと息を吐く。普段はカクテルが好きだがさすがにこの暑さと疲れで発泡酒がしみた。喉が渇いていたから一気に半分ほど飲み干し、そうしてようやくひと心地つく。
ワイシャツの襟をゆるめた明智がちびちびやっていると、しかし彼はなにを話すわけでもなく、黙って遠い海をみつめている。
近くには球場があって、ときどきドン、ドォンと太鼓みたいな音がきこえて向こうの夜空がうっすら明るくなった。花火だ。
「今度やろうか」
顔を上げた彼が言った。明智もうなずく。あいかわらず視界の端では子どもたちの手持ち花火がちらちらと赤や緑に光っていて、白い煙が暗闇の中で明るかった。
「きれいだね」
「花火は、やったことある?」
「うん。親戚の子のおまけで、何回か」
「前に怪盗団のみんなでやったときはひどかった、……竜司と双葉が」
明智はくすくす笑った。目に浮かぶようだ。
しばらく他愛もない話をして、明智はふう、と肩の力を抜く。
「今日は……ちょっと、疲れたな」
「うん。……そうだよな」
彼はしずかにうなずいた。淡々とした相づちがどこか心地いい。明智はまたひとくち缶をあおって、そうして自嘲気味に言う。
「……卑怯だよね。自分の母親が死んだときは普通の人みたいに悲しかったのに、他人の親は平気で殺すんだ」
彼はちら、と暗闇の中で明智をみた。
「平気じゃないだろ」
「いや、」
「泣いてる」
「……え?」
明智は自分でもおどろいて、頬のあたりに触れてみた。ーー彼の言うとおりだ。
明智ははっとして、毅然と顔を上げた。
「泣くような資格ないよ。少年法が許しても、遺族に許されるつもりはないから」
彼はどう返すべきか、考えるような顔をした。明智は首を振る。
「だって、僕は後悔してないんだ。どんなに間違っていてもあのときの僕にはそれだけが正義だった。これから先も、きっと後悔しないと思う」
「……明智、」
「ただ、なにか自分にできるかたちで償っていきたいと思ってる。……あのとき死なずに生き残った命だから」
「……うん」
過不足なく、それは素直な気持ちだった。口にして彼に伝えるのは初めてで、言ったあとで明智はいささかすわりの悪い、気まずい気分になる。
薄闇の中で彼の横顔をうかがうと、視線に気づいた彼はなにも言わず、ただ腰を浮かせて、両手で明智を抱きしめた。
ガラスの壊れものにそうするみたいにやさしく腕に抱かれ、明智はふと、遠い記憶にまぎれたなつかしい香水の匂いを思い出す。
水商売の母はいつも、薔薇みたいな、やわらかな香りがしていた。そうしてそのやわらかな腕で幼い明智を抱き締めるのだ。
「…………明智?」
とまどう彼の声に明智ははっとして、自分がまた泣いていることに気がついた。自責の涙は堪えられたのに今度はすこしも抑えられず、あの頃の母の思い出にボロボロと大粒があふれては落ちる。彼の親指はあわてて明智の頬をぬぐった。
「大丈夫か?」
「うん……うん」
明智がよるべなくすがると彼はまた抱き締めてくれて、明智はそのとき初めて、ああ、と気がついた。
(ああ、そうか、ーーぼくは、)
自分は、望まれて生まれた子どもだったのだ。
もしそうでなかったら自分が傷つくから、明智は今まで自分に向かって必死に言い聞かせていた。自分は誰にも望まれず生まれた存在なのだと何度もすりこませて、期待を裏切られる前に自分から諦めていた。
でも、ちがった。
幼い頃の母の思い出はそれほど多くない。けれど体があのときの感触を覚えていた。母はやさしく息子を抱いた。彼が今明智にそうしているように、世界中のすべての悲しみから守るような手つきで、ただただあたたかな幸せだけがありますようにと、切に祈るよう震えて明智を抱いた。憎んでいたならあんなふうに、大切な子犬を抱きしめるようなやり方で明智に触れたりはしなかっただろう。
(ああ、ーーああ、)
愛って今までわからなかったけれど、多分、こういうことなのだろう。明智がつらいとき、悲しいとき、彼は必ず寄り添ってくれる。風邪を引けばすっ飛んで来てくれた。寂しい思いをさせたときはその後で二倍も三倍も甘やかして、そうして今もここにいる。それだけでいい。ただそれだけのことが、こんなにもあたたかだ。
明智がどれだけキライだとつっぱねても彼はしつこくて、わがままを言えば笑って、それでもやさしくて、マイペースでバカなことばかり言って、明智が話したくなければ黙ってそばにいてくれた。彼は一度も明智を諦めなかった。明智が何回自分を諦めても、彼が諦めてはくれなかった。明智が生きていてよかったとそう言ってくれた。彼はずっと、明智のとなりにいてくれた。
自分はたしかに母に望まれ生まれてきた。そうして今は、……生きてほしいと彼に望まれている。
明智ははらはら泣いて、彼は困ったように、けれどやさしく明智の髪をすいた。こんなに幸福な涙があることを明智は知らなかった。淡い闇がおだやかに二人を包みこみ、波の音は明智の泣き声をそっと消した。