歩く旅
https://japanwonderguide.com/blog-walking-trip-matsuo-basho/ 【松尾芭蕉に学ぶ「歩く旅」の魅力】より
皆さんは、「歩く旅」をしていますか?
ドライブなどもいいですが、ゆっくり歩きながら周りの景色を楽しむ旅もいいものです。
「歩く旅」の達人といえば、先人の松尾芭蕉が思い浮かびます。
江戸時代の俳諧師である松尾芭蕉の、その代表作『おくのほそ道』から、「歩く旅」を楽しむヒントを見つけていきましょう。
『おくのほそ道』は、1702年刊行の紀行文で、150日間にわたり、江戸・深川から、東北地方を周り、北陸地方の日本海沿岸部を通って岐阜の大垣を出発するまでを、発句を交えて記されたものです。
歩いた距離はおよそ2,400キロにもおよび、1日に30キロから40キロまで歩いた日もあったそう。
そんな『おくのほそ道』のゆかりの地を紹介しながら、「歩く旅」の楽しさを発見していきます。
関東地方
深川
『おくのほそ道』の出発点は、松尾芭蕉が拠点にしていた深川の地。
草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
長い旅をするにあたり、芭蕉は一人で暮らしていた家を他の人に譲ることにします。
芭蕉庵を出発するときに詠んだのが、この一句です。
この侘しい家も、いよいよ家の主が変わる時だなあ、次の家主には、女の子がいるから、ひな人形を飾ったりするのだろうか、という意味。家の柱にかけて出発しました。
現在深川を散策すると、あちこちで芭蕉ゆかりの地に出会います。
芭蕉記念館や、芭蕉稲荷神社、採荼庵跡などを巡ってみてはいかがでしょうか。
採荼庵跡には、ちょこんと座る芭蕉の姿があり、一緒に記念撮影もできますよ。
日光
あらたうと青葉若葉の日の光
新緑を通してみる陽の光の尊さと、感動が伝わってくる一句。
人気観光地である日光ですが、当時もその人気は高く、芭蕉は東照宮の美しさを讃えこの句を詠みました。東照宮宝物館にこの句を彫った石碑が立っています。
また、日光を訪れた際は、「暫時は滝に籠るや夏の初(げのはじめ)」を詠んだことでも知られる、裏見ノ滝にも、ぜひ足を伸ばしてみてください。
東北地方
白河
卯の花をかざしに関の晴着かな
東北への入り口となる白河の関は、和歌の名所として、多くの歌人が憧れた場所でありました。
能因や西行も歌を残したこの地で、芭蕉はこの地を越えた感動と、揺れていた心を新たに、旅をするんだという決意を記しています。
この句は、旅に同行した弟子である曾良が詠んだものですが、昔の人たちは、正装をして関を越えたということから、晴れ着こそはないけれど、代わりに卯の花を飾りにして関を越えよう、という意味合いで、晴れ晴れと東北の地に踏み入る、新たな旅の一歩を感じさせます。
平泉
夏草や兵どもが夢の跡
かつてこの地で栄華を誇った奥州藤原氏に思いを馳せて、詠まれた一句。
見渡す限り、夏草が茂るばかりで、栄華の跡はまるでありません。その儚さをうまく表現している一句です。
立石寺
閑さや岩にしみ入る蝉の声
この有名な一句は、山形県の立石寺で詠まれました。
芭蕉が句を詠んだ、1015段続く石段の中腹にあるセミ塚に、芭蕉の句碑があります。
山寺と呼ばれる立石寺は、豊かな自然の中にあり、参拝には往復1時間半ほどかかります。
参拝の道はすべて石段が組まれているため、登山といえど、安心して登ることができますよ。
美しい絶景を臨む開山堂と五大堂は、ぜひとも訪れたい場所です。
北陸地方
出雲崎
荒波や佐渡によこたふ天の河
佐渡は、黄金伝説で知られる佐渡金銀山が有名で、江戸時代から日本の経済を支えていましたが、実は平安時代から「金の島」であったそうです。
一方で、佐渡は島流しの地でもあり、順徳天皇や日蓮などが流刑となったことで知られています。
荒れる日本海に浮かぶ佐渡島、夜空を見上げると、広がっているのは静かな天の川の星々、という美しい光景が浮かぶ一句です。
現在、芭蕉たちが宿泊したといわれる旅籠屋があった場所の向かいに、芭蕉園という芭蕉像が立つ庭園があります。そこに句碑と、俳句ポストが設置され、年に一度選句を行い、句集をつくっているそうです。
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金沢
あかあかと日はつれなくも秋の風
芭蕉は夏の終わりの時期に、金沢に滞在していました。
この句は夏の名残りで夕日が厳しく照りつけている、しかし時折吹く風は、秋めいた涼しさが感じられる、という意味で、秋のはじまりの、少し心細い気持ちが表れています。
この句碑は金沢市内に三か所あり、そのうちのひとつは観光名所、兼六園の山崎山の麓で見つけることができます。
旅の終わり
大垣
蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ
150日間に渡る旅の終着点である大垣で、迎えてくれた人々と別れ、次の旅先である伊勢へ向かう際に詠まれた一句。旅の結びにふさわしく、悲しい別れの寂しさを、季節の移ろいに重ねています。
大垣市奥の細道むすびの地記念館では、おくのほそ道を紹介した映像を上映するシアターがあり、また、貴重な資料やジオラマなど、おくのほそ道の世界全体を深く味わえる展示がされています。
大垣は昔から「水の都」と呼ばれており、現在でも水路がたくさんあります。
今年はコロナの影響で中止となりましたが、毎年たらい舟や舟下りを開催しており、ゆっくりと川を進むひと時は格別なものです。
歩く旅の魅力
「歩く」ことで新しいアイディアが浮かび、生産性が上がると言われています。
実際、世界中の多くの文学作品を残してきた著名人たちは、「歩く」ことを実践していたといいます。松尾芭蕉は自然を愛し、「歩く」ことで感性を研ぎ澄まし、美しい作品を生み出してきました。
彼にならって、周りの景色や音に集中し、季節の移り変わりを身体と心で楽しむ「歩く旅」に出かけませんか。
https://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/hokouzen.htm 【歩行禅】
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12600207073.html 【松尾芭蕉「旅は風雅の花」】より
(静岡県 東海道 薩埵峠)
旅は風雅の花 松尾芭蕉
『韻塞』(李由・許六編)にある言葉。芭蕉の弟子・森川許六(もりかわ・きょりく)の言葉だが、芭蕉の言葉を伝えたもの、とされている。
【原文】
旅(たび)は風雅(ふうが)の花(はな)、風雅(ふうが)は過客(かかく)の魂(たましい)。西行(さいぎょう)、宗祇(そうぎ)の見残(みのこ)しは皆(みな)、俳諧(はいかい)の情(こころ)なり。
【意訳】
旅は俳句の花であり、俳句は旅する者の魂である。
和歌の西行、連歌の宗祇が詠み残した、旅のさまざまな風景は、すべて俳句の誠なのである。
私は講義などで、ちょっと冗談ぽく、
和歌は旅をしなくていいんですよ。
と言い、
でも、俳句は芭蕉以来、旅をして、その地に立って詠むものです。
と言う。
和歌は「あくがれ」て詠むものだ。
都に居て、
宮城野の萩
安積の花かつみ
などに果てしなく「あくがれ」、
松島
白河の関
象潟
など、見たことのない風景、或いは伝説などに思いを馳せ、「あくがれ」て詠むのが和歌なのである。
それはそれでいい。
しかし、俳句は違う。
芭蕉は、
東海道(とうかいどう)の一筋(ひとすじ)しらぬ人(ひと)、風雅(ふうが)におぼつかなし 『韻塞』
と言っている。
この「東海道」とは、「旅そのもの」を指していると言っていい。
つまり、
旅をしたことのない者は、俳句のなんたるかを知ることが出来ない。
と言っているのだ。
現代でも俳人は旅を愛する。
しかし、「旅」と「観光」は何が違うのか。
そこを考えないといけない。
前記の言葉をもっとかっこよく直せば、
旅をしなければ、俳句の風雅の高みを獲得する事が出来ない。
のである。
そのことをわれわれ現代俳人は考えなければならない。
このことを語ると長くなるし、今回、そのことが言いたいのではないので省く。
日本詩歌史において「旅の詩の系譜」は「俳句」によって生まれた。
もちろん、神話の世界の「ヤマトタケル」、中世には「藤中将実方」「在原業平」など、和歌の世界でも単発的には存在する。
しかし、上記の彼らは「やむにやまれず」旅に出たのである。
俳句の持つ自発性とは違う。
ただ唯一(唯二?)、旅に生きた詩人が、歌人では西行、連歌師では宗祇なのである。
「宗祇」については自発的に旅に生きたかどうか、私は疑問に思うが、芭蕉を含む蕉門一派はそう考えていた。
そして俳句は西行、宗祇が旅で詠み残したものを拾って、詠まなければいけない。
と上記の言葉は言っている。
このことについて、『芭蕉百名言』で山下一海さんがこう述べている。
俳諧以前に生きた文芸人として西行と宗祇があった。
和歌・連歌それぞれの道において独創的であった彼らにしても、俳諧の側から見れば、伝統的な様式の枠から十分には自由でなく、旅においてもなお、詠み残したものが多い。
私なりに、この言葉を解釈すれば、
西行も宗祇も素晴らしい詩人だが、和歌や連歌は「伝統」という枠に縛られているのである。
それに較べ、俳句は自由ななんでもありの文学なのである。
和歌や連歌の伝統が見落とした旅の風雅を見つけ、その自由な詩心で存分に表現すべきである。
と言っている。
括目すべき言葉だろう。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12579232978.html 【「俳句深耕」~「あいさつ」の心】より
私の趣味は「歩き旅」である。
東海道、中山道を歩き、数年前からは『おくのほそ道』を歩いている。
現在は平泉中尊寺に到達している。
松尾芭蕉のように俳句をひねりながら……などと考えてはいるが、実際に歩いてみると、それは実に過酷である。
足は重くなり、前に進めるのも一苦労。
腕には血が溜まるのか、不思議な気だるさが襲ってくる。
足の皮が剥ける。
炎天や雨の中でも数十キロを歩き、数々の名句を詠んだ芭蕉の偉大さをあらためて思う。
さて、実際にその地を歩き、わかったことがある。
それは、
日本の山河には詩歌が宿っている
山河は詩歌を得て初めて輝く
ということである。
この場合の詩歌は小説の一節でも構わない。
例えば、中山道の木曽路を歩いた時、心に何度も浮かんだのは島崎藤村『夜明け前』の冒頭、
木曽路はすべて山の中
という一節であった。
歩いても歩いても木曽路は果てしない。
こういうところに、しかも交通手段の乏しい時代に生き、暮らしていた人々の生活哀歓をしきりに考えた。
奈良は『万葉集』の舞台であり、至る所に詩歌が宿っている。
三輪山を見れば、額田王の、
三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
を思い、香具山を見れば、持統天皇の、
春過ぎて夏きたるらししろたへの衣干したり天の香具山
を思い、東に連なる「青垣山」を見れば、ヤマトタケルの、
大和は 国のまほろば
たたなづく 青垣山ごもれる
大和しうるはし
の歌を思う。
富士山や松島のような絶景でなくてもいい。
何気ない山河にも先人たちの詩歌が宿り、その詩歌によって山河は輝く。
旅とはそこに埋もれている詩歌を掘り起こしてあげることではないか、と考えるようになった。
その詩歌に触れれば、その山河の歴史、そこに生きた人々の喜びや悲しみ、心の葛藤も見えてくる。
芭蕉の『おくのほそ道』は東北、北陸の歌枕を巡る旅であった。
その地を訪ね、句を詠んだ芭蕉は山河に眠る詩歌を掘り起こし、そこに自分の句を加えて埋め直した…と考えてもいい。
そして今、われわれは『おくのほそ道』を旅し、その山河に埋もれた詩歌をまた掘り起こしているのである。
先年、亡くなられたドナルド・キーン氏は日本文学を愛し、とりわけ『おくのほそ道』を愛した。
彼は「詩歌こそ永遠である」「詩歌は自然よりも長生きをする」と述べ、それこそが「芭蕉の思想」であると言った。
「国破レテ山河ハ在リ」と吟じた杜甫は間違っていた。
山河もまた国とともに滅びる宿命を担ったものである。
それが芭蕉の言いたいことであった。
だが、山が崩れ、川の流れが改まっても、詩歌だけは変わらない。
詩歌に詠まれた歌枕は、その土地の自然よりも長生きをする。
ドナルド・キーン『日本文学史 近世1』
これは『おくのほそ道』の「壺の碑」の場面を踏まえて述べている。
芭蕉は各地の歌枕を訪ねたが、その殆どが時代の風化によって変わり果てていた。
壺の碑の碑文を見た芭蕉は、千年前の言葉がそのまま石碑に残っていることに感動し、詩歌の永遠性を見い出したのである。
作家の司馬遼太郎氏は、このキーン氏の文章を受け、こう評している。
山河も変るのである。
自然こそ不変だというのは一つの迷信で、これにつき、芭蕉が『おくのほそ道』のなかでむしろ自然こそ変化する、と書いていることを、ドナルド・キーン氏が感動的に指摘している。
「山崩、川流れて道あらたまり石は埋て土にかくれ、木は老いて若木にかはれば 時移りて代変じて其跡たしかならぬ事のみを……」 (「おくのほそ道~壺の碑」)
私はこのくだりを芭蕉の文飾ぐらいにおもって読み流していたのだが、キーン氏は芭蕉の思想である、ととらえている。まことに山河は変る。
司馬遼太郎『街道をゆく』23
私はこう解釈したい。
木曽にも大和にも東北にも、今、その当時の風景はない。
それは芭蕉の時代も同様で、平安びとが詠んだみちのくの風景は跡形も無かった。
しかし、そこで詠まれた詩歌、憧れて詠んだ詩歌を呟けば、たちどころに、その時代の風景が鮮やかに生まれて来る。
芭蕉はそれを旅の中で実体験したのである。
今、われわれも芭蕉の句を呟くことによって、当時のみちのくの風景を鮮やかに蘇らせることが出来る。
自然は変わる、自然こそ変わる。
移り変わってゆく山河や自然の中で詩歌だけが時代を越え、永遠に生きているのである。
そう考えた時、俳句とは「あいさつ」なのだ、と実感した。
われわれは俳句を習い始めると、まず「写生」を勉強しなさい、と言われる。
その重要性に於いて、もちろん異議はない。
ただ、それは表現方法を磨くということに過ぎない。
まず「俳句」は山河、あるいは出会った人々、大きな命や小さな命全てへの「あいさつ」の詩なのである。
この「あいさつ」を「呼びかけ」と考えてもいい。
折口信夫は古代詩歌の根本は「魂呼ひ(たまよばい)」であると述べたが、その「魂呼ひ」の思想が、俳句の「あいさつ」になったのだ。
正岡子規は俳句革新の中で「笑い」と「あいさつ」を切り捨てたと言われている。
子規の偉大さは十分、理解した上で、われわれは俳句の持つ「あいさつ」をもう一度、作句の根本に据える必要がある。
昔、高野山の麓、九度山の真田庵を叔父と一緒に旅したことがあり、そこに与謝蕪村の、
隠れ住んで花に真田が謡かな
という句碑があった。
当時、俳句を始めたばかりだった私は、この全く写生的要素の無い、空想的な句を、俳句とは無縁の叔父の前で鼻で笑った。
真田昌幸・幸村親子は関ヶ原の戦で敗れ、ここに強制的に蟄居させられ、十何年間ひたすら徳川家康の許しを待って暮らしていたのである。
こんな風雅を楽しむ余裕などは無かった。
私がそう言うと叔父は、
お前は俳句がわかっていない。
と反論した。
蕪村だってそんなことはわかっている。
と叔父は言った。
蕪村はこの句を捧げたんだよ。
と叔父は言った。
俳句とは無縁の叔父のほうがよほど俳句の素晴らしさを理解していた。
この句はどんな写生句より真田親子の魂を慰めているのである。
この句は真田親子への「あいさつ」である。
俳句は何より大きく、詩歌は大きい。
私がこのことを信じて疑わないのは、旅で得た実体験である。
であるから、これを終生疑うことはない。
われわれはこの大きな世界に生涯をかけて遊びたいものである。
『南風』2020年2月号~俳句深耕より