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杉並区 06 (31/01/24) 旧杉並町 (杉並村) 旧天沼村 (3) 中谷戸

2024.02.01 14:41

旧天沼村 小名 中谷戸 (なかいど、 小字 中谷戸 / 四面道 / 小谷戸) [現 天沼三丁目、天沼二丁目の西半分、上荻一丁目の一部、清水一丁目の一部]



小名宝光坊から中谷戸に移動し、域内にある史跡等を巡る。



旧天沼村 小名 中谷戸 (なかいど、 小字  中谷戸 / 四面道 / 小谷戸) [現 天沼三丁目、天沼二丁目の西半分、上荻一丁目の一部、清水一丁目の一部]

杉並地方では桃園川が流れる台地に挟まれた狭い低湿地は「がいと」と言い、小名 中谷戸は、その広さが中位の「がいと」だったことから「中がいと」と呼ばれ、後に変化し「なかいど」になったといわれている。1889年 (明治22年) に天沼村は杉並村の大字天沼となり、その下に三つの小字 (中谷戸、四面道、小谷戸) に再編成されている。 小谷戸は「こやがいと」と読み、「がいと」の読みが変化しないでそのまま残っている。青梅街道に面した四面道の名の由来については二説ある。その一ひとつは「青梅街道と環八通りとの交差点は、昔、天沼、下井草、上荻窪、下荻窪の四ヶ村の接点で、その南西角にあった秋葉堂は四ヶ村に面していたので四面堂と呼ばれ、四面堂から四面道 の 地名が生まれた」という説と、もう一つは「秋葉堂の境内にあった常夜燈 (現在の荻窪八幡神社内) が四ヶ村を照らしていたので四面燈と呼ばれ、四面燈から四面道の地名になった」という説がある。1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に、三つの小字は再編成されて、天沼一丁目と天沼二丁目の一部になり、1963年 (昭和38年) から1965年 (昭和40年) にかけて住居変更が行われ、主に旧小名の中谷戸は主として天沼三丁目と天沼二丁目の一部に変更され、現在に至っている。

江戸時代から明治時代には民家は少ない。昭和時代に入ると鉄道沿線から民家が増えている。戦後は病院と学校の敷地以外のほぼ全域が住宅地となっている。


小名 中谷戸内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通りだが、天沼南部の地域は、都市化が早かったため、縄文遺跡や中世から近世にかけての史跡などは残っていない。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 天沼八幡神社、天沼弁天社
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし
  • 地藏菩薩: 51番


観音道 (日大二高通り)

小名 中谷戸は下井草村の小名 沓掛 (清水町) と現在の日大二高通り隣接していた。この日大二高通りは昔は様々な呼び方をされていた。文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会) では大正時代までは観音道と呼ばれたと紹介されている。この観音道は光明院への参詣道だった。別の資料では「大場通り」「天沼本通り」とも呼ばれていたとある。1927年 (昭和2年) に旧制日本大学第二中学校開校が開校した後は「日大通り」「二高通り」「日大二高」と呼ばれる様になった。


四面道、四面道口

  • 観音道 (日大二高通り) を東南に進むと青梅街道に突き当たる。ここの交差点は四面道と呼ばれている。四面道の名の由来については資料によって異なっているので諸説ある様だ。下井草、天沼、下荻窪、上荻窪の四ヶ村がこの地点で交わっていた事から
  • ここにはかつては秋葉神社が祀られ、下井草、天沼、下荻窪、上荻窪の四ヶ村に向けて、四方を照らす四面燈(しめんとう)と呼ばれた常夜燈が置かれ、「しめんとう」が「しめんと」、「しめんどう」と変化したという説。秋葉神社は環状八号線拡張の際に、荻窪八幡神社に合祀され、四面燈の常夜燈も移設されている。
  • 光明院のお堂が四方に面していたから四面堂になり、それが四面道になったという説。

四面道交差点から青梅街道を少し東南に進んだ所は青梅街道沿いに造られていた六ヶ村分水路からの分水口の四面道口 (北四面道口) があり、水を南に流していたそうだ。正解な場所は不明だが、この辺りだろう所を撮影。


天沼八幡神社

小名 中谷戸の中心地だった明治時代の小字中谷戸に中谷戸の鎮守の天沼八幡神社 (写真は大正時代のもの) があり、「鎮守さま」として地元住民に信仰されていた。

天沼八幡神社の始まりについては詳かでないが、天正年間 (1573-1591年) に天沼村宝光坊の天沼熊野神社の境外末社として創建されたと伝わっている。また、徳川家康が江戸に幕府を開いた頃 (1603年) に武勇の守護神としてこの天沼村に勧請され、幕府の裏鬼門を鎮守し、徳川家の繁栄と安泰を祈願した神社だったとも言われているので、天正年間から江戸時代初期に創建されたと考えられる。

当初は本村にある蓮華寺の所領とされ、境内末社として須賀神社 (須佐之男命)、稲荷神社 (二殿、保食神)、金山彦神社(金山彦命) が置かれていた。その後、大鳥神社 (日本武尊) と日枝神社も境内末社に追加されている。


手水舎、百度石

天沼八幡神社には石鳥居から入り、参道が拝殿に伸びている。参道に入るともう一つ赤鳥居が置かれ、両脇には石燈籠が寄進されている。石燈籠の脇には百度石の石柱がある。この百度石石柱は1933年 (昭和8年) に参道石段を改修した際に業者が寄進したもの。赤鳥居を入ってすぐ右側には2002年 (平成14年) に改修された手水舎が置かれている。


拝殿、本殿

参道を進むと奥に拝殿と本殿がある。ここには祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと、応神天皇) を祀っている。その後、1907年 (明治40年) に弁天池公園の西側にあった四面道の鎮守の水神・安産の神の杵嶋比売命を祀る市杵嶋神社 (厳嶋神社) を合祀し、杵嶋比売命を相殿としている。この市杵嶋神社では雨乞いの行事として熊手市がたち、開熊手守・福桝等を授与している。現在の社殿は、1977年 (昭和52年) に改鉄筋コンクリート造り改築されたもの。写真右下は改築前の社殿。


神楽殿

境内には社務所と2004年 (平成16年) に改築された神楽殿が置かれている。写真右下は改築前の神楽殿。


境内末社 (稲荷神社 三殿、大鳥神社、須賀神社、金山彦神社、日枝神社)

境内には末社として五殿が祀られている。この内、三殿 (写真赤鳥居の三つ) は稲荷神社 (宇加之御魂神 うかのみたまのかみ、保食神 うけもちのかみ) になる。元々は二殿だったが、残りの一殿の稲荷神社は、その後に、氏子の宅地にあったものを引き取り境内末社として祀っている。

写真下右から二番目は、1949年 (昭和24年) に台東区の大鳥神社 (日本武尊) より勧請した大鳥神社で、この大鳥神社では毎年11月の酉の日に「酉の市」をひらき、商売繁盛・家運隆昌の開運熊手守等を授与している。

写真右上は三社を一殿に合祀したもので、この内二社は以前から末社となっていた須賀神社 (須佐之男命) と金山彦神社(金山彦命) になる。その後、江戸時代には天沼村が江戸時代に赤坂の日枝神社(山王日枝神社)社領であったため、旧村から日枝神社をこの殿に境内末社として合祀している。


天沼弁天池公園

天沼八幡神社から北に小坂と呼ばれた道を進むと天沼弁天池公園がある。この辺りは小名 中谷戸の三つの小字が交わる場所で、天沼弁天池公園は小字四面道の中にある。この地は、かつては天沼八幡神社の境外所有地だった。1955年 (昭和30年) から1970年 (昭和50年) 頃までは料亭「池畔亭 (写真右のスケッチ)」が営業していた。1975年に敷地一帯が西武鉄道に売却され、西武ゴルフ研修所となっていた。2007年 (平成19年) に杉並区が敷地を購入し、天沼弁天池公園が開園している。公園の入口には西武ゴルフ研修所時代の正門が移設されてそのまま使われている。

この敷地内には自然の湧水を湛えた天沼弁天池があった。この池が地名「天沼」の名の由来となったとも言われている。この池の中央には弁財天を祀った島があり、大正時代までは雨乞いの行事も行われていた。その後は1955年頃に付近の宅地化とともに、池の湧水は涸渇した。1975年に弁財天を神社に移されている。天沼弁天池公園の現在の池は当時のものではなく、造園時に人口的に造られたもの。元々の弁天池は埋め立てられ、公園の広場 (写真左上) の場所になる。

公園内には杉並区立郷土博物館分館などが造られており、弁天池、池畔亭パネル展示をしている。


天沼弁天社

天沼弁天池の畔には古くから蓮華寺の持の小祠の天沼弁財天が鎮座していた。この天沼弁天社の小祠が弁天池公園の一画、南の道路沿いにある。1975年に天沼八幡神社に移されていたのだが、いつの時期かは書かれていないが、この元あった場所の近くに戻ってきている。その時に建てられた小祠は老朽化で改築のため、再度、一時的に天沼八幡神社の神楽殿に仮遷座していた。2022年3月に新しい祠が完成したのが現在のもの。写真右上は以前の祠。


耶蘇 (耶蘇)、天沼教会 (2024年4月5日 訪問)

弁天池公園の西は戦前迄は耶蘇と呼ばれた地域だった。明治末にこの地にキリスト教セブンスデー・アドベンチストの天沼教会が置かれていた。当時はキリスト教は耶蘇教と呼ばれていた事から、この地域を耶蘇と呼ばれるようになった。広い公園様の敷地に洋風の教会が建っていた。現在では教会と東京衛生病院が建っている。日本に於いてセブンスデー・アドベンチストは1896年 (明治29年) に初めて宣教師が来日し、東京の麻布で布教を開始している。100年以上もの歴史がある。その後、東京教会の拠点を何回か移し、1903年 (明治36年) 新宿千駄ヶ谷村に移転。1915年 (大正4年) に、この天沼に伝道本部、未世之福音社、伝道学校校舎、寄宿舎、宣教師館を建築し、千駄ヶ谷から移転、伝道本部と位置付け本部教会 (荻窪教会、1919年大正8年に天沼教会と改称) と呼ばれた。当時は信者が数十名だったが、現在では千人近くになっている。(写真左上と左中は大正期に建てられた教会、右上は戦後改築のもの) 1929年 (昭和4年) に敷地内に東京衛生病院を建設開院している。セブンスデー・アドベンチストは医療、福祉、教育の社会活動に力をいれているが、昭和初期から既に開始していた。(写真右中と左下は昭和初期、右下は戦後再建されたもの) 戦争で全ての資産が強制的に読売新聞社に売却させられたが、戦後に返還され、教会と病院共に再建、活動を再開し現在に至っている。

現在の天沼教会は1983年 (昭和58年) に改築されたもの。ここから荻窪駅に向かっては教会通りと呼び商店街になっている。教会通りは北側の弁天池に弁天の祠があったので弁天通りと呼ばれていたが、弁天が天沼八幡宮に移され無くなった事で、昭和30年代事から教会通りと呼ばれる様になったそうだ。


庚申塔 (52番、53番) [宝光坊に移設]

天沼弁天池公園の南側は明治時代には小字の小谷戸 (こやがいど) になる道を南に進んだかつて桃園川が流れていた場所には庚申塔 (52番、53番) があったのだが、北の宝光坊地域の中に移設されている。写真は移設後のもの。


桃園川

旧杉並村では江戸時代には開墾が進み、その農地への灌漑用水として江戸中期に千川上水と青梅街道沿いの六ヶ村分水の清水口の間に用水路が整備された。天沼弁天池の湧水を源にして、東へ阿佐ヶ谷、馬橋、高円寺、中野村を経由して神田川に合流していた。天沼弁天池の湧水の水量には限界があったので、その西側、天沼村への灌漑用水は千川用水より分水した六ヶ村分水 (半兵衛・相澤堀) の清水口から分水路が整備されて灌漑用水を供給し桃園川に通水され、周辺の村々を潤していた。この用水路は桃園川と呼ばれた。徳川吉宗が中野にあった犬の放し飼い場や鷹狩りの場だった地に桃の木を植え桃園となった事からこの様に呼ばれたと言われる。

1841年 (天保12年) に、善福寺川より引水する新堀水路も造られ、馬橋、高円寺、中野への灌漑用水は昭和の初めまでは十分に供給されていた。1936年 (昭和16年) の土地整理事業の竣工により、農地は宅地へと変貌し灌漑用水としての役割がなくなり、桃園川は生活排水の下水溝に変貌している。豪雨に際に遊水地の役割をしていた水田が無くなった事で、度々、桃園川の氾濫が発生し、住民生活に支障をきたしていた。この事で、1956年 (昭和36年) に本格的な河川改修工事を行い、1962年 (昭和42年) に暗渠化され完全下水道になり、その一部区間は遊歩道となっている。


地蔵菩薩像 (51番)

道を更に南に進み、墓地の入り口に地蔵菩薩が置かれている。入り口は施錠されていて中には入れなかったにだが、入り口からはよく見える。1727年 (享保12年) に中谷戸の講中26人により造立された蓮台付舟型石塔に地蔵菩薩を表す梵字の「ह カ」が刻まれ、光背を伴い、錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされ「奉供養地蔵菩薩講中二世安樂所」と刻まれている。古いものだが、保存状態は極めて良く、優しい地蔵菩薩立像だ。


天沼村 小名 中谷戸 訪問ログ



参考文献

  • すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 中巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)