二人さえ悲しい
携帯を捨てたのだと佐伯は言った。この時世になんと不便な奴に成り下がってしまったのか。一瞬これから起こり得る様々な不都合を思い巡らせたが、まずは理由を問うことにした。
すると佐伯はタバコに火を点けながら
「ストーカー対策」
と素っ気なく言い放った。
ストーカー。ストーカー対策。
「ババアがつきまとってんだよ」
愚鈍に頭の中をかき混ぜていた俺に苦々しげに言う。
すぐに、あぁあれかと思い当たった。
佐伯がサクラとしてバイトしている出会い系の、顧客の一人。会って飯を食うだけで良いと言われたのにやたらにヤりたがると、何度も愚痴を聞いた。
会社の方基本的にやりとりに介入しない体制をとっているし、元よりサクラに何回か会わせたら縁を切らせて、そのくせ金は法外に取るという詐欺まがいのことをしているので、強くは出られない。
佐伯は会社の弱々しい対応にも不満を言っていたが、そもそもそんな犯罪会社に入った佐伯も悪い。
さらに馬鹿なことに、不注意でババアに携帯の番号をもっていかれたらしく、直接連絡が入り続けて辟易していた。
着信拒否をしたところババアは会社を脅し佐伯を出すようにしつこかった。やむなく佐伯は会社をやめた。「死んだことにして下さい」と電話で話していた佐伯はどこかすっきりした顔をしていた。それが一週間前。
しぶといババアの災厄はそれかたも続き、自分の携帯が着拒されたので非通知、果ては公衆電話からかけてくるようになった。
それで仕方なく携帯も解約したのだ。私用も仕事用も同じ、一つの携帯しか持っていなかった。
「解約料ハンパないのな。生活費無くなったし。仕事もなくなったし」
「すぐバイト探さなきゃじゃん」
「うん…でもなんか、ちょっと疲れた」
吹けば飛ぶような弱々しさで佐伯は首を落とす。
同情してやりたいが、俺は馬鹿には優しくしない主義だ。
グレーな世界に入ったことも、その世界で甘えようとしたことも、自分で引っかけてきたゴミをうまく処理できないことも。
似たような話を何度も聞かされた。そしてほとぼりが冷めると、彼は更に濃いグレーに踏み込んでいく。
前はメールのやり取りだけだったのに、いつの間にデェトボウイになりやがった。
次はもっとアウトな詐欺か。薬か。それとも新宿で売春か。
投げやりに予想しながら苛立ちはつのる。
「ねぇ、どうしよう、マキ?」
荒廃した顔で、なのに甘ったるく笑った目で、決まって佐伯はこう言う。
その腐った表情を見ると、わだかまる苛立ちは殺意に変わる。
「知らねぇよ馬鹿やろう」
腹から震えるような声を上げて俺は佐伯を殴った。顔をかばうから顔ばかり殴った。
佐伯は呻くが止めろと言わない。
習慣になってしまったのだろうか。これが救済だと佐伯が思ってるなら、俺は本当にこいつを殺した方が良い。
「……マキ……」
ひとしきり殴ると佐伯は泣く。泣きながら微かに笑う。
俺は佐伯から逃げるようにトイレに駆け込んだ。
何もかもが憎い。
(助かるんじゃねぇよ)
ドアを背もたれに、狭いトイレの中で頭を抱えた。
救いようのないあんな馬鹿を殴って、どうしようもなく愛しさを感じている俺のことは誰も殴ってはくれない。
「マキ、マキごめん」
ほとほととドアを叩かれ、俺は必死で耳を塞いだ。
「マキ」
「うるせぇ。死んじまえ」
懇願するような佐伯の声は純粋で、たまらず自分の汚い声でかき消した。
本当に壊してしまいたいものは、ただ希釈されて頬を伝い落ちていくだけで、間違ったって日の目を見ることはないだろう。