大事にしてあげても
今すぐ来てね。急いできてね。
なんて女の子みたいなメールを送ってよこしたから、何かあるのだろうと思ってはいたのだけれど、部屋を訪れてみると彼は橙色の光の差す畳の上で、立てた肘を枕にだらりと寝転がっていた。
「曜くん。来たよ」
声をかけてみるがこっちを見もしない。少しの間の後、どうも、ありがとう、と怠惰な背中のまま挨拶をされた。
ああまたか、と口の中で舌を鳴らして、ごそごそと靴を脱いだ。
踏み入ってみるが、部屋ぜんたいにまるで生活の感じがしない。でんきも空調もついていないし、窓もカーテンも開け放して、自然の時の中に放置されている。空家みたいな雰囲気は紛れもなく家主のせいだ。こうしてここにいるのに体温を発さずに転がっているこの画を、これまで何度目にしただろう。
「曜くん。麦茶出しっぱなしだ」
骨董品のように影に溶け込んだポットは、びっしょりと汗をかいてテーブルの上に佇んでいた。しかし持ち主は「ああ」と返事でもないような抜けた声を漏らすだけで、一向に構ってやらないので、仕方なく俺が冷蔵庫のおうちまで運んでやることにした。
抵抗の強い扉を開けてみると、オレンジ色の三段棚にはバターと食パンとラップにくるまれた人参しか入っていなかった。中身が詰まっていることなんか期待していなかったけど、あまりの無味無臭さにため息が出る。少しだけ重くなった手で寂れた空間を閉じる数秒、くらりとめまいがして、頭の中に良くない風景がよぎった。
振り返ると彼はいつの間にか肘枕をくずして、畳にぺったりと耳をつけていた。
ますます暗くなる空と一緒に、部屋の明かりも落ちていく。その中で真っ黒なはずの彼のシャツがぼんやりと浮いていた。
「今度は、どれくらいだったの」
ぽとぽと声をこぼしながら、近くまで寄って上から覗き込んだ彼の顔は、白くていやにすべすべしていそうだった。閉じられたまぶたの中で、水晶体がごろりと動いた。
「俺、何日ここにいればいい?」
できるだけ静かな声を出してやるのは、ひらべったい石をいくつも積み重ねたような彼のためだ。崩さないように、崩れないように。俺は彼の答え次第で、何日分の着替えを取りに家に戻るか思案の準備をする。
しばらく彼はじっと静かにしていて、俺がふと意識をそらして視線を飛ばしたとたんに大きく呼吸の音をさせた。それから、ゆったりと体を動かして仰向けになる。相変わらず目は閉じたままで、背中の下に俺のつま先を敷いた。
「何日分ご飯作れる?」
寝言みたいな不明瞭な発音で言った、彼の声は、ひどくきしんでいて、こう言っては悪いけれどきたなかった。昨晩か、その前からか、酷使された喉を痛ましく思うが、それよりももっと強くてやり場のない感情に俺はまゆを寄せた。どうせこの顔だって、彼は見てやいない。
「冷蔵庫の中身ないんだから、買いに行かないと」
「あ、っそ……」
興味もなさそうに吐き捨てて、再び黙り込んだ彼に対し、心臓からじくじくとした血が体に回る。半分黒くなった脳のもう半分が、彼を見ている分だけ澄んでいくのを感じた。
水面に浮かぶ死んだ魚に似ている姿があまりにも、あまりにもきれいで、もうじき差し込んでくるはずの月の光に溶けてしまいやしないかと不安定な気持ちになった。しかしカーテンを締めに行くことができない。彼の背中の下からつま先を抜けない。
顔も知らない女を憎んだ。彼を引き寄せて、彼に引き寄せられて、今こうして彼を深いところへ沈めている重石のような女。今まで何人も何人も、姿を思い浮かべないまま彼と恋した女を、頭の中でひどく殺した。そして、自分が女になりかわり、火のように回想を巡ったあと、水底にいられる己の立場を愛して人肌よりも冷たい夢を見た。
ただ、
ただ、俺のところへ来るのはいつも死体だ。
「着替え、とってくる」
「うん」
「買い物も、してくる」
「……うん」
するりと、案外易く足を引き抜いた。彼の体温をもらっていた分、空気の冷えを感じて、もう少ししたらタオルケットをかけてあげないと、と思う。
踵を返して玄関に向かうと、うなじを悲しい振動が震わせた。
俺はそれに構わず出ていこうとしたのに、あとから彼の鼻声が追いかけてきて
「早く帰ってきてよ」
なんて言うものだから、俺だって鼻声になりそうだった。勘弁しろよ、ばかやろう。
外に出て扉を閉めてしまえば、広がった世界に重苦しさが拡散していって、彼の部屋も、何もかも幻だったんじゃないかと思ってしまう。
だけど横目でボロい鉄扉を見ただけで、胸のあたりが縮むように痛んでしまうから、やっぱり彼はいるのだ。
どうしようもない彼が。
どうしようもない俺が。
さっきは頭の中で人を殺したのに、同じ頭で彼のことを生き返らせられる魔法使いになれないかなあと考える、バランスの悪い俺の前で、街灯がパチリとついた。
暗い空に月を探したが見つからない。
多分、彼にばっかり取られてしまったのだ。俺がほしいもの、全部。