よるの船
ぶおお、と風がオデコを通り抜けて行って、前髪がぐしゃぐしゃになった。ガードレールの下4mのところを、赤いテールランプを引っ張って自動車が滑っていく。ずーっとずーっと、コンクリートを舐めながら滑っていく。世界がいとも簡単に逆さまになって、落ちていってしまいそう。
「ひのわ、まだなの」
「……まだだよお」
ダウンジャケットの袖とお腹のところが擦れる音がする。ついで鼻をすする音。砂利を足でなじる音。上牧の立てる音はいつもカッコ悪い。
「上牧、寒いんでしょ」
「当たり前でしょ。何時だと思ってんの?今、一日で一番寒いんだよ?」
「さっき買ったやつ飲みなよお」
「とっくに冷えたわ」
ガードレールの薄くて鋭いへりが、手に真っ赤な線を引く。切れちゃったみたいな跡をそっと頬に押し付けても、凹んだところはくっつかなくて隙間が空いてしまう。そこに冬の結晶ができるような気がして、じっと待っていたのに、不意にかさかさの手に引き剥がされてしまった。
無粋すぎるブスの顔を睨みつけてやると、あからさまに目が泳いだ。チキンのくせに俺様の手なんか握るからだ。乾燥してるくせに変に汗ばんでいて上牧の手は不快だった。
「離さんかい」
「ひのわ、今日は無理ならもういい。帰ろう」
精一杯、といった様子で、なんとか目を合わせながら上牧は言った。
ともすれば後退しそうで、おずおずとしているのに、決して手は引かない。気弱さと図々しさがないまぜになった彼の性格は、顔にも体にもよく表されている。下がった眉の下の、黒目も白目も大きい瞳が、遥か彼方の街の光を映している。地上より随分高いこの場所の冷たい空気が、彼の皮膚の柔らかな厚みを強調していた。少し、泣きたくなった。
「無理だなんて言ってない」
「でも、いつまでもここにいられないから」
「なんで」
「なんでって。そうでしょ」
戸惑う。戸惑う。上牧はいつも俺の前で、安定しない波に揺られている。なんてったってこいつはビビリで、俺はというと言ってみりゃあ王様。気圧されしちゃってゆらゆらしてんだ。それで、きっと揺られ過ぎで頭がおかしくなったんだ。修学旅行のバスでエチケット袋を有効活用していた上牧のことだから、もう三半規管がバラバラになっちゃって、それで
「ひのわが好きなんだよ。ずっと前から、たぶん、ずっと後まで」
風が止んでしまった。
急に、首の力が入らなくなって、思わず下を向いた。俺のクロックスと上牧のスニーカーかバラバラの方向を向いている。喉がつまって息がうまくできない。何の意味もないのに、掴まれていない方の手をポケットに入れてみると、買っただけの缶コーヒーの中身がたぷんと音をたてた。
俺たち二人を何百人も積み上げたより、もっと高いところで星が光ってる。たくさんたくさんあって、地球を突き抜ければ足元にだってあって、周りをぐるりと囲んでいるのに、どうしてどこにもいけないんだろう。
重たい視線を、なんとか上牧の胸の高さまで持ち上げると、分厚いダウンが呼吸に合わせて不規則に、膨らんだり戻ったりしていた。
「答えられない、でしょ」
どうしても顔を上げられない俺の頭のてっぺんに、なでるような声が降ってくる。
この声をずっと聞いていられる星が、世界があるなら、俺はそこでだけ生きていたいと思う。
握られていた手がふっと緩んで、冷たくなったと思ったら、あごを緩やかに持ち上げられた。頭半分しか背は違わないはずなのに、ものすごく見上げたような気がした。
折り重なるように山の頂上へ続いていく道が、上牧の左肩から伸びている。耳たぶと、唇と、鼻が見えたとき、視界が歪んで何も見えなくなってしまった。
しんしんとした朝の空気が足元に溜まっていって、どんどん水位を上げている。それがすっかり大気全体に広がるころにはきっと世界が一つ死ぬ。もっともっと寒くなる。
だけど風が止んだままだから、ここは布団の中みたいだ。
「ブス、缶コーヒ、飲めよ。俺が買ってやったんだから」
「そうだね、ひのわが初めて俺に金使ったんだもんね」
「無駄にしたらなあ、飛び降りてやっからな」
「やだ、怖い」
上牧は笑った。のに、俺のほほの端を雫がかすめていった。
俺たちはずっと、一緒なんだと思ってた。ぜんぶの光が落ちるときまで。