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白状

●●番の愛の歌

2024.02.25 05:17

 子供のころから、嫌なことがあると「これはうそなのかもしれない」と思い込む癖がある。

 まるきり、映画を見ているような気分だ。「うそなのかもしれない」と言葉をはっきりと頭に浮かべ、あの独特の鈍さと妙な客観的視点が、全身をじっとり包み込む。温度を感じる神経が緩やかに死ぬ。高性能なカメラを通して見る世界で、時が過ぎればなかったことになるのだからと、いったん自分を安全なところに仕舞いこもうとする。

 悪癖であることは自覚していた。子供時代はとうに終わり、経済的な自立をして自らの人生におけるすべての責任を自分で負う年齢になった今、「うそなのかもしれない」などという寝言にすがってはいけない。

 右手のスパナの真っ直ぐな持ち手。エレベーターの狭い箱の中で呻く小此木は笑っているのだが、俺も一緒に笑っていいのだろうか。外では雨音もぞろぞろと連続的で、ガラスの向こう、遥か下方の町灯りは賑やかだ。血の匂いが鼻腔の天井をいたずらに撫でる。小此木は笑って、俺の足に手を這わす。

「戸袋さん、あんたもっと素直だったら愛してあげたのに」

 俺は、そうかあ、とひざを折り曲げた。図体の巨きい小此木はうずくまっていても、しゃがんだ俺と頭の位置がさして変わらないのが不思議だ。比べて自分は、生まれてこの方標準以上の身長を持ったことがないので、当然かもしれない。機械整備の仕事に何かと有利な彼の骨格を羨み、言葉にしたことは少なくない。

 覗き込むと小此木の平らな頬を赤い線が伝っていった。

「血が出てるな」

「ああ、あんまり痛くないよ」

「そうかあ、じゃあ、殺すまでやっていいか?」

 俺の言葉をきっかけに、血を流しながら男は一層笑う。こんなに笑っているのは初めて見た。記憶の中に散乱している小此木の顔はほとんどが憮然としている。見上げるのも少々苦労なので、大概俺の視線は喉仏のあたりで止まっていたが、それでも何度も何度も何度も見つめれば自然と顔の画像は溜まるものだ。

 彼が、エレベーター機内の天井を調べているのを見るのが好きだ。真上を向くことで晒される顎の裏側と、器具を手渡すときにおもむろに下を振り向く仕草が好きだ。

 二人一組で行う点検整備の仕事は幸福な時間だった。今のような、夜のオフィスビル、雨の中では、まるで二人で光らなくなった星空を直しているようで。

「どうして殴ってから好きだなんて言うんだよ」

「だって」

「だって、何」

 彼の話し方にはやや威圧感がある。体躯のせいかと思っていたがわずかに自分のほうが目線の高い今も、押さえつけられるような感覚があるので精神性の問題のようだ。

 だから彼が悪いとは言えないが、この感覚が俺の口に綿のようなものを詰め込んでいたことは確かだ。薄い窒息。意識の半歩遠ざかる音は、うそだと思いたい時によく似ている。

「小此木くん、これが現実だと思うか」

「つまらない話をするなよ」

 風がビルに向かって吹き付けて、透明なガラスの壁面に、無数の粒模様ができた。視界が二つに分かれそうになった俺は、持っていた工具を遠心力に任せて小此木のこめかみに打ち付けた。

「愛してくれ」

 そう、二つに分かれているのだ。好きな男を殺そうとする腕と、生死などどうでもよく愛を紡ぎたい唇。体のパーツのほとんどが左右に分かれているように、心、といったものも、いとも簡単に分かれるのだ。いまだに目はカメラのレンズのまま、俺は別室でスクリーンを眺めている心地だ。少し逃げている。もうすぐ小此木が手に、入るのに。

 しかし間接的な感覚に、少しずつ自信がなくなってきていることもまた、自覚していた。それは時々目に入る、彼方を走る小さな車のランプだとか、暗い中空に点滅するビルの屋上灯だとかが、しんしんと細胞を冷却していっているからだ。他者の存在は、ここよりも広い、ただの世界を思い出させる。

「戸袋さん、俺は夢を見ないよ」

 反対側に開いた新しい傷口を抑えて、小此木は完全に床に身を横たえた。両手で両方のこめかみを抑えている姿はなんだか、好きな音楽を聴いているようにも見える。地上で点滅する電飾が、彼の作業着の皺に沈殿する影を細かく散らした。

「だから戸袋さんと同じ場所にはいられない。楽しいね。痛みも戸袋さんにはやれないよ。あんたの愛も俺は知らない」

「そうかあ、悲しいな」

「知らない、知らない」

 ひっくり返るような笑い声が小さな空間に反響した。

 このビルのエレベーターは綺麗で新しくて好きだけれど、天井設備がないので俺の好きな小此木の姿が見られないのが気に入らないと、思っていた。

 塩ビの床に、暗くて色がよく見えないが液体が擦りつけられている。今日は点検に来ただけなので、清掃用具を揃えてきていないのが難儀だ。雑巾でなんとかなるだろうか。

 小此木が笑っていてくれてよかった。泣かれでもしたら本当に悪夢だった。覚めるために俺はなんでもしただろう。だってこの男も俺も現実のものではないのだから。

「笑ってないで、そこ、どいてくれ、さっさと終わらせよう」

 あらかた作業は済んでいるので、俺は扉の外に置いてある工具箱に戻った。いまだに聞こえる笑い声はまだ小此木の喉から生まれているのか、それともとっくに残響になっているのだろうか。おびただしい量の雨の音で判別がつかない。雑巾を掴み上げて振り返ると、長い影が逆光になってゆらりと立っていた。

 立ち枯れた木のような影の形に、彼は俺の人生においてなんの役にも立たないな、と思ったが、次に鼓膜がなんとも甘く爛れたので、俺は彼に対しての赤々とした好意が再び胃のあたりから湧いてくるのを抑えられなかった。

「愛してあげようか」

「うん、うん」

「そうだね、戸袋さん、殺すまでやっていい?」

 振り上げられた彼の利き手には鋭くとがった検査器の先端が握られていた。

 五感が一つに絞られていくので、次に小此木を知覚するのがいつか分からない。しかしこうまでもただ愛を吐いていてよいのならば。

 今度こそ俺は目を閉じた。いつまでも造りものの中にいて許されそうな安心感が胸に広がり、一度、小此木の名前を大声で呼んだ。

 この夜は、実に素敵だ。