お母さん
三弘は今日も部屋にいない。浜辺の白い塊を見に行っているから。
主の出ていった部屋に、重たい足を引きずりながら入った。布団と机と背の低い本棚があるだけの、死んだような部屋だ。裸足で歩くと、細かな塵を踏んで足の裏がざらざらする。敷かれたままの布団に、固い関節を曲げて腰を下ろす。酸っぱいにおいかすかにが立ち上ってくる。
壁際には黄ばんだ衣服と、表紙のずいぶん古い本がいくつか置き捨てられて、ただの物に成り果てていた。何年も閉め切られたまま、砂埃がこびりついた窓が月の明かりを鈍くして、時間を命の向かわないほうへ進めていく。
のろのろと視線をあげていくと、本棚にぎっしりと押し込まれた三弘の執着が睨み返してきた。瓶。瓶。瓶。大きさはバラバラで、ラベルが雑に剥ぎとられた、瓶。四段の棚のうち三段をうめるガラスの中には、すべて、白い肉塊が詰められている。
臭い。
二か月ほど前、風のない夜。漁港のない小さな浜に、クジラほどの大きさの白い塊が打ち上げられた。集落の人間が集まってあれこれと試したが、余りに大きく、重く、波に乗せるまで押し戻すことができなかった。騒ぎ自体は数日のことだったように思う。隣の集落の駐在も来なかったようだから、知らせ広めることもなかったんだろう。俺はなかなか気乗りがしなくて、皆があまり白い塊について口にしなくなったころにようやく、夜中一人で暗い林を抜けて見に行った。
俺は、浜まで降りることが、できなかった。白い塊に波がぶつかる乱れた音が胸をひどく揺さぶった。月が光を投げかけすぎるために眩しいほどだった。俺の目はなんどもその輪郭をなぞり、なぞり、次第に白い塊の個々の部位が何だかわかってしまいそうになって、頭を抱えてしゃがみこんだ。こんなことが、あっていいはずが無いんだ。こんなことが。
白い塊のそばでうろうろ動く人の影があった。かろうじて焦点を結ぶことができて、どの人間なのか見定めようと気を張った。人影が白い塊に最も近づいて、何かをして振り返った瞬間に、俺は飛ぶような大声で叫んだ。
「三弘!」
十年、家から姿を出さなかった幼馴染が、手に塊の一部を持って笑っていた。
その後ろで、巨きな白い塊は、膝を抱いた姿でじっと横たわっていた。
俺は三弘を何度も訪ねた、昼間は呼びかけても出てこないし、戸には棒をつっかえさせて侵入を拒まれた。夜、家から出てきたところを掴まえてもこちらを見はするが返さない。振り払われて、殴られて、海へ向かう三弘を追うことはできなかった。
三弘の家には、いつもだれもいない。背広を着ていた父親も、色白で細かった母親もいつの間にかいなくなっていた。三弘だけが主で、彼が出て行ってしまえば、途端に家は開け放たれる。こうして、夜のあいだ彼の部屋で存在していても追い返されることがない。受け入れられているような、錯覚すら覚える。
頻繁に三弘に突進する俺を、俺の家族がどうにか引き留めようとしているのはわかっていた。だけど止められない。三弘に会うたび、十年抜け落ちた穴が埋まっていく。たとえまともに向き合えないとしても、わずか数秒見ただけの顔や体が、すっかり知らない人間の形だとしても。俺はそれをかき集めることに必死だった。俺は、俺と三弘は、仲の良い子供だった。
「出て」
まだ夜明けまでずいぶんと遠いうち、三弘が敷居のすぐ外に立った。影の中、裾のほつれた服を着て、瞳は見えない。手には、半分白が埋まった、瓶。布団に坐してから指一本動かしていなかった体が、その不穏な白色にじわじわと解かれていく。
「取って、きたんか」
「出て」
「おめえあの塊に何してんだ」
「出て」
「なんであれが来てっから出るようになった。なあ、いつも何食ってんだ」
「出て」
「俺のこと、覚えてねえか」
「出ろ!」
殴られないように、掴んだ両手首は片手でまとめられるほど細かった。潮風と、垢のせいか、べたつきながら滑った。腐って沈んだ畳に、瓶が柔らかい音を立てて落ちた。
「三弘、俺のこと、覚えてねえのか。なあ」
ふすまに追い詰めて寄せた鼻先で、三弘の肌についたたくさんの砂粒が見えた。ひきつった皮膚がひどい呼吸をして、乾いた皺が寄った。戸棚からするのと同じ、生臭いにおいに胃がべこりと凹む。舌の奥から唾液が湧いてくる。食べたい。今の三弘を知りたい、味を、知りたい。
開いた歯が三弘の首すじに触れて、かみしめる直前、足の甲をかかとで踏みつけられて体が曲がった。ゆるんだ手を引き抜いて脇をすり抜けた三弘が、雄たけびをあげて尻を蹴りつけてきた。廊下に転がり出された俺のつま先の寸前で、人がやったのでないような速さでふすまが閉じた。
心臓がバクバクと跳ねている。噴き出す汗に滑りながら這い、真っ暗な戸に手をかけても、すでに留め具がされたのかびくともしない。息が益々荒くなって、こぶしが荒れる。
「あ、あ、あ、開けてくれ。違えんだ、すまん、違えんだよ、俺は、三弘、おめえに会いてえから、すまなかったよ、開けてくれ、開けて、頼む。三弘、顔を、三弘、三弘、三弘」
耳を押し付けながら叫ぶ向こうで、バリンとガラスの割れる音がした。澄んだ音が、俺の全身を走る黒い靄を切り捨てて、以降は一切が動くことはなかった。
その家の、虫食い穴だらけの塀の裏で、朝と昼を過ごした。
薄く開いた口と目に乾いた空気が入り込んでは、水気を奪って拡散していく。板の向こうで人の往来がいくらかあって、虫が俺を足がかりに何匹も空へ飛んでいった。庭の雑草に半分うずもれて俺はただただ待った。昨夜の激しい消失のあと、もしも三弘が二度と出てこないとしても、俺はここで一部になるつもりだった。庭の、家の、三弘が一人で、いるところの。
太陽と、見えない星がぐるりと回って、闇を引き上げてくる。痣のできた足の甲を見つめる外で、引き戸が開く軽い音がした。
首をもたげると、ぼんやりとした顔の三弘が、滑るように出てきた。
みつひろ、と、声を出して呼びかけたいのに、喉からは木枯らしのような息だけが抜けていく。俺にまったく気をやらずに塀を過ぎていく三弘のあとを、昨日と同じ動きで這って追った。
道まで体を引いて、何とか、少しでも、三弘の近くへ移動する。ずいぶん狭くおぼろげな視界では、民家も樹木もあまり区別がつかない。今夜も月がよく出ている。あれが打ち上げられてから月の霞んだ日はなかった。白線のように浮かび上がる道を、俺はほとんど四足で進んでいった。海へ。
二度と目にすることはないだろうと思っていた、恐ろしい塊が、見渡す限りを占めるほど、近くにある。
波打つ音も、風のだまっていることも、記憶のままだ。きっとあの日以来、浜は同じ夜を繰り返していた。蟹もフナ虫も鳥も息をつかない、塊の在り処としてだけ。
三弘は瓶を持っていなかった。そばに寄って動き回ることもなく、まっすぐに立って塊を見つめている。俺は少し間を空けて、隣に足をばらばらに投げ出して座っていた。もう力が入りそうにない。夢を見ているような心地だ。
「おなかがすいた」
水の弾ける音の合間に、三弘の声が放られて、沈んでいった。
「眠りたい」
「さみしい」
「何か食べたい」
「会いたい」
「会いたい」
「会いたい」
「会いたい」
白い塊の背骨や肩や足の裏に波がぶつかるたびに、三弘は言う。塊に向かって言っているのかもしれない。海に言い放って捨ててしまいたいのかもしれない。俺に聞かせているのかもしれない。三弘の声は子供のころから変わってしまっていたし、再開してから切れ切れに聞いたどのものとも違う響きで、いやに明るい浜辺で生まれては死んだ。
馬鹿になった頭に三弘の言うことが入るたび、俺は返事をしたかった。俺がいるそばで寝るといい。俺がいるのを知ってくれ。食べ物ならくれてやるし作ってお前が食べられるよう頑張るから。明日も明後日もその次もずっと死ぬまで会いに来るから。そのどれもを俺は口に出すことができなかった。動かない体からはひたすらに涙だけがこぼれていった。
「行かないで」
三弘が動く。白い塊に向かって歩いて行って、行ってしまう。
伸ばした手に、身体がついていくことなく、俺は砂の上に崩れた。
行かないで。行かないで。俺よりもそんな分からないもののとこへ帰らないで。
海がこうこうと鳴いている。水中にいるようで頭がおおきく揺れる。抗う力もあっという間に無くなり、次第に白い塊と三弘の背中との境が分からなくなってしまう。目を開けているのだか、閉じてしまったのだか、俺はゆっくりと、苦しい光の外へ落ちていった。
溶けていくような緩い感覚の先で、白い塊がぶるぶると震える振動を、肌で、感じながら。