どこで寝ようか
死のうと思うんだ、と連絡が入ったので、それならば俺も便乗させてもらおうと思った。
待ち合わせは二人の住まいの中間の駅にした。何度か遊ぶときに集合場所にしていたので、ひとまずたやすく会えるように、いつもと同じ西口のロータリーを選んだ。仕事の終わり、突き刺さる寒風に苛まれ、薄っぺらなマフラーに鼻を埋めていると、バイクに乗った死神が迎えに来てくれた。
「死に日和だったかな」
「もう夜だから、どうだかね。昼は曇りで、案外よかったけど」
「こんな日にも仕事だもんなあ、お互い真面目だよ」
「社会人だからね、すっかり」
とりあえず落ち着けたのは小さな居酒屋のカウンターだった。死にゆく前にうまいものをと、どちらが言ったのでもないが、きっと二人ともそう思っていた。人生の最後に食べたいものはと聞かれたとき、俺はいつも答えることができないでいた。悩んで悩んで、死に際に飯なんか食えるかとやけくそになる人間だった。こいつは、どうか。
「社会人でしかないんだよなあ」
銚子にうねる波模様を爪でなぞりながら、低い視線でつぶやいている。仕事が忙しいといつも言っていた。学業を終えて勤め出してからずっとだ。ずっと、対面だろうが電話だろうが、文字のやり取りだろうが、連絡を取れば、どうにも忙しくて、と口癖のように言った。俺もだよ、と、近頃めっきり元気がなくなった肺を伸縮させて答える。どうにも、どうにもね。体力って続かないよな。老けたかね。いやいや、忙しいよ。実際。ああ。
俺たちはよく似ていた。よく似た言葉を使い、よく似た風にはげみ、よく似た速度で疲弊した。逃げたくなったタイミングもきっと同じで、連絡が入らなければそう遠くない内に俺から持ち掛けていただろう。他の誰でもない、こいつにだ。
「よく頑張ったな、とか、思うか」
「やめてくれよ。そんなの、誰も言わないし、そんなことに意味はなかっただろ」
少しずつ、波が立ち始めた。じっと顔を見つめると、見つめ返してくる。瞳が奥から震えだして、年齢のせいだけではない皺がぎゅっと寄った瞬間に、だし巻きお待ち、とカウンターの上からお皿が差し出された。
手を伸ばして受け取る隙に、隣が目を擦っていたのには、触れないほうがきっと優しい。
二人のひじの間にだし巻き卵を置いて、すぐに箸を入れる。黄色い表面にはうっすら焼き目がついて、少しの抵抗のあと箸の先はやわらかく刺さった。開くと中心のほんの少しだけが生焼けで、暗めの照明の中でかすかに湯気がのぼった。小さく切って口に入れれば、だしの香りと塩気が舌をきゅうと絞る。うまい。何より、あたたかい。
「食いな、うまいぞ」
赤く湿った顔で、反対側からも箸が入った。やや大口で噛まれた卵は、乱暴な咀嚼の間にもしっかりと広がっただろう。二噛みしたあと急に顎の動きを鈍らせて、口元を覆っている。
「う」
美味いね、と言おうとしたのだろう。最後まで言えなくたってわかる。最後まで言葉にならなかった訳も、わかる。ぐずぐずといつまでも卵焼きをかみしめているのを、俺は見つめ続けることができなかった。二人で泣いていたら変な客じゃないか。周りには他の客だっていて、小さくラジオの音声も聞こえる。そんなただの夜に、ぱた、と滴の落ちる音がした。
その、わずかな衝撃が、身体でも頭でもないどこかに奥深く響いて、俺は倒していた腕を隣のスーツに向かって傾けた。ほとんど無意識だったが、垂直になるころに気が付いて止まる。自分の腕にだって力はないのに、何ができるものか。結局、処しようもなくだらりと下げた。指先に血が巡って、痺れながら震えた。胸のあたりに溜まった熱を放出するために必要な、したいことは、とっくにわかっているのに。
俺は臆病者だから、下げた手を少しだけ持ち上げて、手の甲で親友の腰をそっと叩いた。
「次、頼んでもいいか」
訊けば、ひねられた背中が鞄からポケットティッシュを探り当てながら、うなずいた。頭の上に並ぶたくさんのメニュー札にうろうろと視線をさまよわせれば、決めかねるけれどもどれも結構美味しいんだろうな、と思える。
「梅水晶」
「梅水晶」
ようやく唇からこぼれた声と、隣から飛んだ声が重なる。振り返った店員が、おふたつですか、などと笑うので、俺たちは二人してうつむいた。すぐに隣のやつがひとつだかふたつだか決めて伝えてくれる。
「なあ、今一番、何が食べたい」
二つの猪口に酒を注ぎながら、訊いてみた。相手は少し悩んで、カウンターに置いていた丸めたティッシュでもう一度鼻先を拭った。
「決められないね」
「だよなあ」
「でも、たぶん何食ってもうまいよ。今ならさ。ずっとこうなら良いんだ。ずうっと」
その時、きっとこいつは笑っていただろうと思う。俺は薄く黄色い酒の底をさらうようににらんで、見ていなかったけれど、たぶんそうだ。体がじくじくと潤んで、口の端だけが心のままに上を向いてくれた。
俺はもう一度腕を持ち上げて、隣の背中をがしがしと撫でた。すると俺の背中にも、そっと触れる手があって、上から下へ一度だけ降りていった。たったそれだけで、背中に詰まっていた沢山のひどく重いものが、溶けていったような気がした。やさしい、優しい夜だった。