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白状

I ♡ 2500円

2024.02.25 05:32

 カーペットを新しくしたところなのにどうしてくれるのよ。

 と母親の声は、当時五歳の俺の脳天を垂直に叩き、胸に必要以上の爪痕を残して突き抜けていった。ジュースか何かをこぼしたのだったか。受け止めきれないほどの罪悪感と後ろめたさのために、発端を細かには覚えていない。一心不乱に見つめ続けたよくわからないカーペットの柄と、優しい母親から轟いた雷のごとき怒声は、ふとした時に自動再生されては背中をひやりと冷たくした。

 今、背中どころか全身が氷水をかけられたように冷たい。ように、ではない。かけられたのだ。がしゃがしゃなる爆音と光に揺れるクラブの床。這いつくばった俺はまるで船上にいる心地で重心をなくし、余計に酒がぐるぐると回った。明暗を繰り返す視界の端で、女の靴がまろびながら暴れている。怒声も聞こえるが耳がとろけてしまって言葉を脳に届けてくれない。女はずいぶん怒っている。けれどあの時の母親のほうがもっと恐ろしく、俺を悲しくさせた。この女の怒鳴り声はただの音だ。くだらない。そうとも、俺はこの女にむかついている。何を怒っていやがる。怒鳴りたいのはこっちだ。反撃の一言ぶつけてやろうとしたが、はずみに声ではなく胃に詰め込んだクラッカーが半固体の状態で飛び出てしまった。知るか畜生、お前なんか嫌いだ。嫌いだしどうでもいい。けれどその隣の、俺の前にいるはずの、格好いい男は、怒らせたくなかったなあ。

「ミィ、立てよ。出るから」

 耳元で発せられたバスドラムよりも低い音が鼓膜を打った。気づけば女はもういない。どれくらいの時間が経ったのか、秒針から指を離してしまったために分からないが、二の腕が熱くなったと思ったら硬い腕に脇を支えられて上昇した。足を出すごとに記憶がばらばら飛んでいく。大好きな香水の匂いがして泣きそうになり、頬がやたらと痒いからたぶん実際俺は泣いている。酒に酔って、暴れて、吐いて、泣きながら男に連れられて汚い空気の中を運ばれていく。押し込まれたタクシーの中でもう一度喉がやけた。車の匂いが嫌いだ。嫌いというより苦手なだけだ。だから運転手さんごめんなさい。俺の何倍も謝っている男にも謝罪しようとしたら、Tシャツの腹をまくられた直後その生地で口をふさがれた。もう開くなと。自分の唇を縫いたい。生きててごめんなさい。

「シャワー浴びれ。溺死すんなよ。あと絶対寝るなよ」

 どうやって脱がされたか分からないが、頭にお湯をかけられたとき俺はちゃんと全裸だった。肌と同じくらいの温度のシャワーがだらだらと首や肩を滴っていくうちに、やっと目の前が形を成していく。やや水垢のある壁や床をしばらく眺めて、とりあえず口をゆすいだ。正気に千鳥足で近づいていきながら、何かが頭に浮かんでは去っていく。そして数多の苦しみや後悔がじわじわと首を絞めてくる。やってしまった。窒息しそうだ。このまま溶けて排水溝に流れていけたらいいのに。両手をくぼめてためたお湯でなんども顔をすすぎながら俺はまた泣いた。途中で「ミィ!」と扉を殴られなければ延々と、水道代も考えずそうしていたかもしれない。

 タオルと新品のパンツと下着を支給されて、外身だけやたらこぎれいになって俺は床に正座した。クッションを勧められたがとても座ることができず断ると「めんどくせえ」と吐き捨てられて血も凍るかと思った。ソファに鎮座し俯瞰してくる良い男、伊住のすねの辺りを見つめながら、俺は蟹のような横滑りでクッションに乗り上げた。すると伊住は自分のクッションも引きずりおろして、揃えて床に座った。

「気持ち悪いの、大丈夫?」

 甲殻類と視線を同じくしてくれる上、聞いてくる声はとても優しい。はい、とうなだれた俺を笑いながら、叱られてるガキじゃねえんだからと肩を揺さぶってきた。振動で胃のおののきがぶり返しそうになったが、舌の付け根をこらえながら口を開いた。

「あ、の、ごめん、彼女のこと」

「うん、まあね、付き合いたてだったから」

 新しくしたところなのに、どうしてくれるの。

 記憶から飛び出した声が身の内で響き、全身の細胞がびたりと固まった。目の奥が強く痛み、押し寄せた涙がにじみ出す直前、両頬を挟まれて額に額がぶつかった。髪の毛の先から散ったしずくが冷たい。

「違うよ、付き合いたてだからそんなに情はねえよってこと。あとミィにもごめん。始めたのはお前だけど彼女の態度も悪かった」

 自分が始めたことも女に言われたことも一切がすでに流れて行ってしまったおれには、伊住の優しさに平服する以外なかった。そしてそれ以上に、間近で見る、野生動物に似た活力ある顔に心臓がテンションの上限をコンマ秒単位で押し上げていく。

「知り合って一週間の彼女と長年の付き合いのお前だからさあ、俺もどっちかっていうと彼女のほうにムカついたし。何て言われたか覚えてる?」

「覚えてないです……」

「ボロ雑巾みたいな顔だって。はははごめんムカついたけど面白かった。お前酔うと本当にボロ雑巾みたいなんだもん」

 笑ってくれているが一緒に笑ってしまっていいのか微妙だ。けれど自分の、細部にまで染みついた小汚さは自覚しているので何とも言えない。顔もそうだし髪型も決まらないし部屋もどことなく汚い。あとちょっと包茎。ああさっき服を脱がされたときにきっと見られた。死にたい。

「でもいいや、別れちゃおっと。笑い方下品だったしねあの子」

「で、でもさ、伊住」

「何」

「新しいもの、好きじゃん」

 伊住は綺麗だ。顔も綺麗だし髪もさらさらして清潔だし部屋もいつも片付いている。物を大事につかうが古いものは持たない。着替えさせてもらった新品の下着もおそらく買い置きだろう。恋人とは長続きしないが、付き合いたての一か月は熱の高騰がつづく。新鮮さを求める男だ。

 クラブで対面し、紹介した時もそれは嬉しそうにしていた。彼女も見た目がきれいで、服もだらしなくなくて、パリッとした整い方が伊住とよく似あっていた。紹介されるまで二人を目の端でちらちら見ながら劣等感をつまみに深酒していた俺は、アルコールのエンジンを逆噴射させて盛大に絡んだ。そして今に至る。

 伊住は腕を組んでうーんと歯切れよく唸り、すぐに解いた。

「まあね、でもいいよ。どうせ長く続かないから。俺の対人関係で唯一長く続いてる北見君だからさ、許してあげるよ」

 そう言って笑う顔はやっぱり綺麗で、心がちょっと欠けてる感じがして、俺はいつものようにただときめくしかなかった。原体験からくる「あたらしいもの」への尊重とプレッシャーと畏怖。伊住は生きている人間なのに、いやおうなしにその両方を抱かせる。大切に扱わなければならない、というほとんど本能的な感覚に支配された俺は、伊住に引き寄せられ、離れられなくなり、ずぶずぶに恋に落ちている。

「寝よっか、お客さん用の布団だしてあげるよ。買っただけで使ってなかったからさ」

「じゃあ、じゃあ伊住、それに寝たら?」

 膝を鳴らしながら立ち上がった男は、少しだけ目を見開いて俺を見下ろしてからにっこりと笑った。

「わかってるねえ」

 何も解決していない夜。ただダメージを受けるために暴れただけの夜。伊住のさじ加減一つで地獄に落ちていたかもしれない。けれど閻魔は美しく笑い、俺はますます這いつくばって、褒められた嬉しさに溶けきってしまうのだった。