空腹な男
畑仕事へ行くふりで、作ってもらったおにぎり抱え、村の隅へ隅へと歩んでいった。うす暗い木陰の下、藁クズの散らばる地面に向かってクワの刃を中指でコンコン三回。這いつくばって耳を澄ませば、木の棒打ち鳴らす音が四回。さすれば俺は藁の下にぽっかり空いた穴に天地大回転の真っ逆さま。弁当をつぶさないことだけ気を付けて、ようやく傾斜の落ち着くころには体のあちこちに擦り傷がひりひり痛む。口の中に入り込んだ砂をつばきと共に吐き出しながら、まだきかない目を暗闇に向けた。
「ようよう、おはよう」
やや腰を屈めないと立てない程度の高さの穴倉ぜんたいに、まあるく響くように呼びかけると、生き物の身じろぎの音が寄ってきた。瞬きを繰り返して目を凝らすと、だんだんとそれの輪郭がつかめてくる。野山の茂みのような頭が揺れながら近づいて、やあ、と挨拶をするより先に両肩をドンと突かれて尻もちをついてしまった。
「何をする」
「何遍言ったら穴をふさいで来やがるんだ。おめえが入ってきた分おれの家が崩れちまう」
激しく声を振らせてくる男、ム倉は、ぼろぼろの服の袖を振って指を差し向けた。その先には、遥か上方から白線が降りてきて、地面に丸い空白をあけていた。はらはらと藁と土埃がふってくるのを見て、おれはただただ苦笑いをした。
「お前の合図が速いのさ。ふさぐ暇もないよ」
「うまくやれねえなら、なんだってこんな時間に来るんだよ」
ときはおてんとうさまのご尊顔を拝む直前、薄明の中。あらゆる色が寝息を流すおとなしい間なのに、ム倉はがんがんと騒がしい。眠っていた小さな虫がひっくり返る音がする。地面を掘り下げた穴倉に住んでいるわりに、荒々しいものだ。俺はほんのりため息をつきながら、懐に入れていた弁当を差し出した。
「物々交換。とびきりの飯が食いたい」
むしろでくるんだそれは、家を出てきたときよりもやや形が悪くなっていたが、完全につぶれてしまったわけでもない。照度を増していく空間に、男が何か言おうとしてやめたのがよく見えた。泥に固まりかけたまなこがじっと俺の手の先を見つめて、曲がり、まよい、やがてゆっくりと俺の右手は軽くなった。
一度奥の方へ消えたム倉が、戻ってきて寄越した木の皮の盆には、三種の小山が盛られていた。粒状なのはおそらく木の実。指でつついて硬いのは干し肉。串にさしてあるやわらかいのは、まあ、その、幼いものだ。
「これもやる」
三点均等に盛られていた真ん中に、ム倉は丸薬のようなものを乗せた。掌にとってかいでみると、塩辛いような不思議な香りがする。
「なんだ、これは」
「山菜と肉を混ぜて、カラシナタネの油に漬けたものだ。持ちがいい」
「新しくつくったのか、なんだ、やけに太っ腹だな」
「物々交換だからよ」
ム倉は俺がやった弁当を広げながら、先ほどまでとは真逆の控えめさで言った。俺とム倉の間では常に等価の行き来をする。今日の弁当が何か特別だったろうか。俺はもうずいぶん、女房が持たせた包みを開いていない。
食べることに関して、他人との間に隔てがあるのは子供の時から感じていた。俺が望んで伸ばした手はぴしゃりと叩かれ、隠れて口にすればむりやりにでも吐かせられた。男として労働の一役を買う頃には真剣にかかわってくるものはずいぶん少なくなり、俺も隠れ方がずいぶんうまくなった。
女房は俺の悪食をわずかに知っているが、好き嫌いの多い人間ていどに思っているはずだ。だから毎朝弁当を持たせてくれる。俺はこれを女房への不義だと感じるべきなのかもしれないが、ム倉の出す得体のしれない食物を味わうと、罪悪感など膨れ上がる恍惚に一点の染みすら残すことができないのだ。
「お前の女房は良い女房だ」
あらかた食べつくした頃になって、ム倉はぼそりといった。指に残る米の粘りを吸いながらの、ひどく聞き取りにくい声だった。
「唐突に、なんだ」
「飯がうまい。美味い飯を、真っ当なやり方で作って、人に与える。そんな女がいることがどんなに福だかわかるか」
俺は単体になった串をもてあそびながら、ム倉の言ったことを考えようとした。説教臭いことを言われるのは好きではない。こと、食うについてはなおさらだ。閉じた唇を突き出したきりの俺に向かって、ム倉は日に当てることのできない毛むくじゃらの腕を伸ばした。開いた五指が胃の辺りをなぞる。
「生き物は、ここで生きてんだ。自分以外の誰かが面倒みてくれるのはな、福だぞ」
俺は首をぐるりと回して、腹に添えられた手に自分の手を重ねた。それを滑らせ、肘、肩と辿り、そこにも多く毛の生えたうなじにあてる。
「ム倉よ、じゃあ俺の福はお前だよ。お前の飯じゃないと食えない」
土の下の人は、少しの間を置いて顔を大きくゆがめた。浮上した感情がなんであるかは、舌鼓を打っている間は到底わかりそうもない。
さて、そろそろ土壁を登り、俺が俺の生を円満にするための一仕事をしに行かねばならない。明日も明後日も「福」を食うため、ますます明るく差し込む光を、きちんとふさぐのを忘れないようにしなければ。