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白状

色さす心 ひとりでに

2024.02.25 05:35

 香山織という名前が、カルテの積み重なりの上に現れると、よくないことと思いながら心が揺らいでしまう。けっして、心地のいい揺らぎではない。知らない森の中を、時間もわからないままさまようような、曖昧な不安だ。その名前を持つ青年が扉を開き、一メートルと離れていない距離に腰かけると、その不安はますます色濃いものになる。

「具合は、いかがですか」

 決まりきった一言目を、青年はうんざりした様子もなく、薄らと首をかしげて受け止めた。

「特に、変わりありません」

「普段の見えかたや、痛みなんかも」

 答えがわかりきっているから、最後まできちんと発声する気にもならない。香山くんもゆっくりと首を振ることだけで答えた。繰り返されてきた応酬は、もはやそれぞれの定型句となりつつある。私たちのこの会話に、一体なんの意味があるのだろう。

 青い涙が出るんです。と、言われたとき、私は対面の真面目そうな学生を真っ先に疑った。冷やかしなのか、あるいは何か嫌な遊びをしているのか。私の態度はありありと抵抗を示していたことだろう。青年は私の表情を見て一度喉を詰まらせた。そして、少し待ってください、といい、まぶたを強くつぶってしばらく。彼の制服の膝の上で、固く拳が握られていることに私が気がついたのと同時に、その手の甲にうす青色の滴が降りかかった。悲しい色を、していた。

「では、少し見ますね」

 何度もしてきたように、彼の頬に手を添えてまぶたに指をかける。手のひらに産毛が逆立つのを微かに意識しながら、突飛なことなどなにもない、つるりとした眼球を眺めた。基本的な診察、基本的な状態。ここからあの心を絞り出したような滴が生まれるとは想像しがたい、何事もない瞳だ。

 否、私の瞳こそ、何事もない。何も、見出すことができない。瞳からつながる脳もしかり。彼の病状を突き止めるために集めた資料が、書庫にうずたかく積まれ、価値のない紙片として埃をかぶって久しい。一介の医師としての能力の及ばなさを思い知る苦しさ。そして手を尽くすことすらできない患者と対面する苦しさに疲れ果て、感情を濁らせているのを、かしこい青年はおそらく感じ取っている。私が卑怯に、平坦な顔をし続けようとも。

 先生、ぼくは治らなくともいいんです。

 そう、彼は言った。私が敗北を感じ、大きな病院での受診を勧めたときだった。

 ただ、ひとりで抱えているのが嫌だったんです。自分のほかに、ぼくを責めない人に、このことを知っている人が有ってくれればいいんです。先生がぼくをみてくださっているので十分です。それに、大きな病院、人の多いところは、行きたくありません。

 彼の腕、ワイシャツの袖口のあたりの皮膚が青紫色に腫れているのに、私はその日ようやく気が付いた。診察室の空気の密度が音もたてずに増していった。定期的に通うことを約束した口が、本当に医師としての言葉を吐いたのか、今では自信がない。

 静かに黙っていた彼の唇がふと開き、息を吐いた。真っ白な前歯がのぞく。

「先生、ぼくの涙を、欲しいと言われました」

 空調の唸りと同じくらいの、環境にまぎれてしまいそうな声で、香山くんは言った。私は彼の顔から手を離し、眼球ではなく表情を除きこむ。

「誰にですか」

「画家の人に。たまたま涙を見られてしまったんです。図書館で本を読んでいて、思わず泣いたところを。絵の色付けに使いたいと言われました」

 香山くんは私から目をそらさず、言葉を連ねていった。濃くまっすぐな眉は少しも動き揺れることがない。しかし、どことなく端的な話し方は、私の応えを強く期待する、年相応の幼いつづまりがあった。

「名刺を渡されました。来週の今日、待ち合わせを言われています」

 話すほどに、香山君のほほに血が巡る。高揚が伝わってくる。しかし矛先はその画家某ではないと、視線を受けている私だけがわかってしまう。一見無表情な顔が、熱を持っていると、いつから知っていただろうか。それは私が期待を抱き始めたのと、どちらが先であっただろうか。

「行かなくていい」

 一度、二度、彼の上瞼が下りて、続きを催促する。

「断りなさい。君の状態がどうなのか、何も分かっていないんだ。興味だけで近づいてくるのは碌なもんじゃない」

 これは医師として、また年長者としての意見だ。個人的な意思で言ったのではないはずだ。だから、私の言葉を受けて、彼の口が珍しく緩むのを、思い通りだと感じてしまうのは、決してよくないことだった。

「もう、その人と会わないことにします」

「そう、それが良いでしょうね」

「先生のほかには、知られたくない」

 震える声が言って、彼がまばたきをした瞬間、水滴がころりとこぼれて落ちた。白いワイシャツの胸元がすみれ色に滲む。彼は腕を持ち上げず、ひたすらに瞳で私をとらえ続けている。ほほに引かれた二本の線を、自分の皮膚へ移すように、拭ってやった。香山くんは色づいた私の手をじっと見つめ、先生、と呟いた。呼び掛けではない、なぞるような言い方で。