春の嵐
あまりに風の音が大きくて、電話が鳴っていることにしばらく気が付かなかった。左手のマグカップを覗き込みながら、通話ボタンを押した。発信者が誰であっても良いように、もしもし、とは全天候型の声で言う。
「もしもし、今日、空いていますか」
耳に入ってきた声を、自分の中のデータベースと照合する。AからZまで。該当者なし。
「空いていますよ」
かけ間違いですよ、の「か」の字がうまく出てこなかったので、穏便に会話を受け継いだ。よかった、とスピーカー孔から丸く震える息が届き、耳たぶの下がくすぐったくなる。
ただの午後だと言うのに、窓の外は薄暗く真っ青だった。巨大な風が突進していくたび、窓ガラスが膨れて危なげな音で軋む。春の嵐はいつも妙だ。どこかの空の底が開いて、交わらないはずの世界ものが流れ込んでくるような、張り詰めたおどろおどろしさがある。部屋の中でじっとしていても、妙に目が集中して落ち着かない。その中で、電話の向こう側はひどく静かなようだ。
「風が」
「え?」
「風が、強くありませんか。外に出るのは、危ないかも」
少しの間を置いて、ああ、と相手の感嘆詞が弾む。窓の外を見ているのだろうか。さらり、カーテンレールの滑る音がした。
「けど、約束をしていませんでしたか」
「約束」
「そう。あなたに会いたいって」
そんな話は知らない。そんなことは言われていない。そんなことを言う人間は、この世のどこにもいない。ぼう、と外気が唸りを上げて、ますますものを考える力が拡散していく。青く、青く染まった風景は、飛び込んで溶けてしまいたくなる色をしていた。
「待っていますから」
急いで。と残して、通信は切れた。電子音に脳を預けて、しばらく、五分か、十分か、そのままの姿勢で固まっていた。
不随意の運動で体が跳ね、ようやく瞬きと呼吸を思い出す。夢から覚めたような気分で見つめ直した電話の画面は、視線を受けるのを待っていたかのように、通話終了の表示から待ち受けの画面へ変わった。
長く体を任せていた椅子から立ち上がり、玄関へ向かう。脱ぎ散らかした靴の横から、バイクのキーを拾い上げた。ヘルメットを部屋の奥に置いてあることに、靴を履きながら気づいたが、そのまま玄関を出た。抵抗の強いドアに挟まりそうになりながら、外に出た途端、服も肌も何もかも青く染まってしまった。
待っていますから。知らない声が呼んでいる。どこで。どこでも良い。誰が。誰でも良い。ぼろぼろと崩れた頭でバイクにまたがり、すぐにエンジンをかけた。どこで。ここはどこだろう。誰が。自分は誰であれば良いんだろう。手首をひねればあっという間に体は運ばれていく。右から左から風が吹き付け、真っ直ぐ走ることができない。直進の域と逆走の域を遷移しながら、走行による空気抵抗か自然の風かもわからないまま、ますますアクセルを回した。無量の命が溶け込んだ嵐に巻かれながら、もはや視界さえ失って、いっしんに青の深層を目指し続けた。