常世踊れば実も結ぶ
会社の同僚、数年後輩である田崎という男が、数日休暇をとっているという。
別の同僚が事務手続きでどうしても連絡を取りたいと、その連絡先を俺のところまで尋ねに来た。なんと田崎の連絡先を知っているのが、部署さえ異なる俺と雇い主である社長だけらしい。人間関係の希薄な会社である。昨今の社会のありようを憂う。同じ事務方の奴どもはどうしているのだと問えば、内勤だし普段は休まず会社に来るしで個人の番号が必要になったことがないという。
むしろ梅落部長はなぜ知っているんですかと不思議そうな顔をされ、俺もはてな、と首を傾げた。携帯電話のアドレス帳に登録されてはいるものの、一度もかけた試しがない。一体いつ登録したのかもわからない。その日の午後いっぱい、終業後帰宅してまで考えて、風呂から上がったところでアッと思い出した。
あれは、憑き物を落とすのに、協力した時だった。
数年前、会社の宴会でたまたま田崎の隣席になった。田崎は常から物静かな男だが、酒の席になると殊更静けさは顕著で、周囲の話題に適当にうなずくということもなく、一人黙々と舐めるように口に猪口を引っ付けていた。
俺もそれまで諸手続き以外の会話を持ったことがなかったので、同僚を知る良い機会とあかるく考えていた。しかし普通の話をあれこれふっても田崎の返事が一秒を超えることがなかったため、持っていた扇子で顔を下から扇いだり、場当たりで作った怪談を聞かせるなどしながら田崎に酒を勧めに勧め、時計の短針が二つも進んだ頃には、気付けばさめざめと泣かれていた。
おまけに田崎を煽るのに夢中になりすぎて、他同僚諸君が帰るのも適当に手を振ってやったらしく、見まわしても既に会社関係の人間は一人もいなくなっており、閉店間際の冷めた空気に置かれて田崎の餅を練るような泣き言を聞いていた。
枕の周りをまわるんです。毎晩毎晩、木の板やどっかから持ってきたブリキの看板をぶっ叩いて、踊ったり歌ったり、もう眠れないのがつらいんです。電気を消したら静かな暗闇の中で朝まで寝たい。それだけなのに。
田崎の談の表れか、彼の真っ赤になった顔の中で目の下は、なるほど黒くくすんで落ちくぼんでいた。その目元をぐしぐしと擦った手から放られそうになった猪口をはっしと受け止め、自身もざぶざぶに酔っていた俺は、突然勃発した使命感に胸を膨らませた。ようしじゃあお祓いに行こうと言って無我の会計をし、田崎を抱きかかえてタクシーに投げ入れた。
ここらで一番大きな神社をお願いします。これを三回は言った。深夜である。神社である。酔っ払い二人の丑の刻参りは不審であっただろうものの、今思ってもタクシー運転手には柔軟であってほしいと思う。
それから向かった神社の名称は思い出せないが、とにかくやたらに暗い、別に大きくもない神社だったことは覚えがある。出来上がった田崎は賽銭箱の前で土下座をし、ポケットから丁寧に折りたたんだ千円札と丁寧に折りたたんだレシートを共に投げたので、俺はレシートをはっしと受け止め田崎の上着に戻した。田崎のもはや泥をこねくり回すような泣き言を閉じた神殿は静かに聞き流していた。俺は合いの手として柏手を打った。
それから、どうしたか。
耳の前あたりを揉んで考えると、さらに切れ切れの音声が蘇ってくる。
すみません。俺はもう大丈夫です。でも梅落部長に行ったかもしれない。何かあったら、連絡してください。俺の携帯電話を手に持つ田崎の細い姿が像を結んできた。それきりだ。それきり田崎と話していない。
なるほど、いわくつきで手に入れた連絡先だったのか。しかし俺は今日まで何不自由なく寝起きしているので、田崎が慮ったような事態にはならなかったということだろう。なるほど、なるほど。
俺は服も着ないまま携帯をとって、田崎に電話をかけた。
ダイアル音が途切れ、陰鬱な応答をした田崎に当時のことを持ちかける。梅落課長はお変わりないですね、とひどく嫌厭したように言われた。構わず思い出せた限りをとうとうと聞かせ、記憶違いがないか確かめると、そうです、覚えておいでの通りです、僕はすっかり困っているのに、わざわざ話してくださいまして、と、どうやら田崎のもの静かさは他人嫌いからくるようだと察せられるような口ぶりであった。
貴重な体験を確実のものとしたので俺は満足した。
それでは休暇明けにと電話を切ろうかという時に、うわあ、と耳に田崎の声が炸裂した。
どうした、物盗りか。
違います、違いますけど、ああ、もう時間だったのか、こうなる前に寝たかったのに、ぞろぞろぞろぞろ、もう嫌だ。
何やら電話の向こうが騒がしい。騒がしいというより、何かが多い。擦る音である。畳を擦るような、音が、ざ、ざ、ざ、ざざ、ざざ、ざざざ、ざざざ。
足音だ。
嫌だ、すみません、もう切りますと震える田崎を、いや待てと腹から声を出して引き留めた。次いで田崎の住所を聞いた。当然のように断られた。
しかし俺はもう再び勃起した使命感、正義の心の塊となっている、田崎が嫌だというものが不明の足音に俺も加えられてしまったが、なに、これも何らか縁である。此度も上手くのせて見せ、守るべき社の後輩を救っては、一つ思い出を増やしてみよう。