秋に待つ
自転車を漕いでいる。耳遠くにはひぐらしの声。頬にはぬるい風。目先には学生鞄の入ったかご、ライトに照らされた細い道と、右側を延々と続くススキ野原。
ペダルの軽さに、涙が出た。一つこぼれると、ぼろぼろ、ぼろぼろと際限ない。ぬるい風には冷えもせず、ただ頬を伝う感覚だけが連続している。
そのうちに膝が痛くなって、漕ぐのをやめてしまった。地面に両足をつけて、からからと回る後輪を持ち上げてスタンドをたてる。ススキ野原に向き合って、先がありすぎてないような一面を見まわした。
「ナツオ」
小さな声で呼ぶ。大きな声で呼んで、返事がなかったら恐ろしいから。
「ナツオ、帰ろうよ」
呼びかける。答えはない。
そうだ、疲れてしまったんだ。もうずいぶん長いこと漕いできたから。だから少し休まないといけないんだ。そう自分に言い聞かせて、砂道に腰を落とした。抱えたひざは確かに疲れにしびれている。視線と水平の位置に夕日が落ちかけている。もうずっと、前から。
自転車を漕いでいる。耳遠くにはひぐらしの声。頬にはぬるい風。目先には学生鞄の入ったかご、ライトに照らされた細い道と、右側を延々と続くススキ野原。
重い荷台に声をかける。
「ナツオ、やっぱりさあ、変じゃないかなあ」
背の向こうにまたがるナツオが、んん、とくぐもった返事をしながら首を回す気配がした。
「ヨシ君、迷っちゃったんじゃない」
「そんなわけないだろお、分かってるくせに。なんでいつも行ってる神社から帰るのに迷うんだよ」
そんなはずはないのだ。ナツオといつもの神社でおしゃべりをして、じゃあ日も傾いて来たからそろそろ帰ろうと自転車を漕ぎだして、ずいぶん涼しくなったなあ、夕焼けもきれいになってきたなあ、ああもうススキが穂を開いているんだなあ、と何気なく思っていた。思っているうちに、ススキ野原はどんどん延びて、道もどんどん続いて行って、帰り道から帰れなくなってしまっている。鳴き続けるひぐらしの声が耳に染み、体に染み入る。あまり染みすぎてはいけない、気がする。
「曲がり角に出ないと、ナツオの家にいけないじゃんか」
曲がり角なんて、もう数十分も見ていないような感覚だ。日が動かず、景色も変わらないので時間の過ぎ方がわからない。返事の鈍いナツオを振り返ると、
「危ないよ、ヨシ君。前を見てて」
そういうナツオの後ろ、今まで来た道は、どうしてか、真っ暗くなって見えなかった。首から肩にかけてぞっと肌が粟立ち、すぐ前に向き直ってペダルをこぐ足に一層力を込めた。
「ねえ、帰らないといけないんだよね」
ナツオが言う。当たり前だと返したが、続くナツオの言葉はつながっていなかった。
「そうじゃないよ。おれたちは違う道だから。
おれだけにしてよ。
そんなにかあ。
ヨシ君、止まって」
ぽそぽそと呟くナツオの声を聞かないようにしていたから、呼ばれているのに気が付くのが遅れてしまった。肩を叩かれて反射的にブレーキを握りこむ。自転車が完全に止まると、荷台がぐっと押されてのち、軽くなった。横を見ると、ナツオがススキ野原に向かいながら、手を振っている。
「ヨシ君、先に帰っててね。また明日」
離れていく姿に、待って、とか、行くな、とか言いたかった。どれを言えばいいのか悩んでいる間に、ナツオの高い背は不思議にススキ野原に紛れて、すぐに見えなくなってしまった。ナツオが分け入っていった揺らぎもあっという間に収まって、あとはただ、時々吹く風に、ぼんやりと白い波がたなびくばかりになってしまった。
自転車の横に座りこんでいる。耳遠くにはひぐらしの声。頬にはぬるい風。目先には抱えた膝頭、延々と続くススキ野原。涙は止まりかけている。もうずいぶん流して喉が渇いてきてしまった。
僕はその後少し待ったのである。少し待って、ナツオの「また明日」という言葉を信じるべきかもしれないと思って、勇気を振り絞って一人で自転車を漕いだのだ。それでも景色は変わらなかったから、もう、怖くて、動けなくなってしまった。
このままナツオとも別れたきり、ここで飲み食いもできず骨になって、先祖代々の墓にも入れず一人ぼっちでい続けるのだろうかということが恐ろしかった。先祖代々の墓に入れなくても、ナツオと同じ墓に入りたかった。一人ぼっちなのが嫌なのではない。ナツオと別れたままの一人が耐えられなかった。
「ナツオ、の、阿呆」
できる限りの大きな声を出したつもりだった。出欠確認の声よりも小さかった。
自転車の横に横たわっている。頬には制服の袖。耳近くに足音。勢い開いた目先には、ススキもない小さな畑を歩いてくるナツオ。
「ヨシ君、こんなところで寝ちゃ風邪ひくよ」
立ち上がった。そして走った。たった五,六歩を転がりそうになりながら、ナツオの懐に飛び込んだ。ナツオの薄い腰に腕を巻き付けながら、夕日を避けるように胸に目元をこすりつけた。
「帰れなかったじゃないか、ナツオの嘘つき」
「うん。ごめんね。先に返すように言ったんだけど、駄目だった。帰って来られてよかったね」
よしよし、と頭を撫でられる。それだけで全て良いような気がしてしまう。そんなはずはないのだ。帰って来られたけれど、僕たちはまた会えたけれど、一度離れ離れになったのだ。もう会えないかもしれなかった。だから、
「全然よくない」
「そうなの。そうなんだ」
そうなんだ、と言ったナツオの声はこっちを向いていなかった。もうどこか違う場所を見て、違うことを考えている。ひぐらしがどこかで鳴く。この声のように、ナツオの瞳はもう遠いところにいるのだろう。
「いいよ、もう。早く後ろに乗ってくれ」
ナツオから離れてハンドルを握ると、彼は素直に荷台に収まった。
ぐ、とペダルを踏み込み、少ししたらすぐに曲がり角にさしかかった。いつもの帰り道だ。
ナツオの家まで送っていき、さっさと降りていく背中を引き留めてもう一度強く抱きしめた。ナツオから枯草のにおいがして、それがひどく悲しかった。
もう大丈夫だよ、と言うナツオの言葉なんか信用できないのに、僕はうなずくことしかできなかった。消えるときも戻ってくるときもいつもと同じ顔をしているのはナツオだけなのだ。僕は泣いたり怒ったり不安になったり、ナツオの姿が見えれば笑ったりしているのに。
一人ぼっちになるのは嫌だ。そう言ってみた。ナツオはじっと僕の顔を見た。
「ヨシ君ってば」
それだけ言われた。そうさ、一人ぼっちになるのが嫌なのではない。これはただ拗ねているだけ。ああ、彼の家の前でなければ、拗ねるに任せて頬にキスでもしてやりたいのに。