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白状

知っても知っても

2024.02.25 06:22

 なにか、肩身が狭かったわけじゃない。だけど俺はたぶん、生まれてからずっと何かを窮屈に感じながら生きてきた。少し、空気が薄い。少し、喉が苦しい。交通渋滞に沈殿する二酸化炭素の層に突っ立っているような気分だ。時々風が吹いて、まっさらな空気を吸っては、また沈む。たいていが、沈んでいる。

 そんなだから人に構う余裕がない。人に構われて愛想を振りまく気も湧かない。実利を得るのでぎりぎり生きている俺に、差し出された小さな包みは痛いほどの活力があった。

「なにこれ」

「いやだ、ミキちゃん日付の感覚もないの?それともご縁が無さ過ぎて忘れちゃった?」

 土曜の深夜、俺のアパートの部屋のど真ん中でゾフィーが居丈高に立ち、言い放った。家で飲んでる最中に突然立ち上がるから何事かと思ったらこれだ。長い腕の先には、真っ赤な包装紙が電灯にてらてらと光って目を刺す。手のひらよりもやや大きく、薄く平たいそれからは微かに甘い匂いがする。

「だってお前、お前からかよ……」

「今年も誰からももらってないんでしょう。そんなに色気がなくっちゃ駄目よ。オカマは一人だって生きてくけど男は一人じゃ生きられないんだからね。だから、これを受け取って、そろそろアタシと身を固めたらどーお?」

 鼻先で仰ぐように揺れる、どうやらお菓子らしいそれに、手を伸ばす気にはなれなかった。常の体の重さがますますのしかかり、肩すら上げられずに俺は硬く唇を結んで見守った。包み、白い爪、腕。同じ高さに、細いジーパンで締めた腰。無言でいるといつまでも包みが揺れる。耐え忍ぶしかないことが世の中にはある。

 時計の針の音が聞こえるほど静かになったころ、不意にその包みが膝の上に投げられた。つむじにため息が降ってくると同時に、ゾフィーが座り直す。いいとも何とも言えない香水の匂いが巻き上がった。

「なあんて顔するんだか。もう本当にミキちゃんって遊べないわね。本当はお店で配ってたのをちょろまかしてきたの。箱買いした板チョコよ。どうせ食べないのにわざわざ用意する訳ないじゃない」

 テーブルに置いていた缶ビールが掠め取られたと思ったらものの数秒でたたきつけられる。音は軽い。机の上に狭しと並んだ空き缶は、そろそろ積み重ねて遊べるほどだ。

「紛らわしんだよ」

 包みを床に放って、ベッドを背もたれにようやく体の力が抜けた。胃から渦のように酔いが昇ってきて、三半規管を揺るがす。同じように後ろにもたれたゾフィーの重みで少し体が傾いた。

 ちらりと伺ったゾフィーの横顔は、額まで赤く血が上っている。水商売をしているくせに酒はそれほど強くない。いつもは練り物を厚く塗り、粉を何層にもはたいて顔色を隠しているそうだ。今、場が俺の家で飲み方に遠慮がないせいか。普段よりもずっと地の皮膚に近いせいか。トシが乗ってややたるんでも、一分も気を使わない俺の顔より、ずっとマシな肌だ。この方がいいに決まっているが、妙に、落ち着かない。

「良いわよ、ミキちゃんはいつまでも一人で。あんたみたいな人、奥さんが可愛そう」

 缶の淵を唇に滑らせて、やけに素っ気なくゾフィーが言う。言葉の棘がそのまま刺さる。

「余計なお世話だ。お前が何を知ってんだ」

「だってミキちゃんちっとも変わらない。あんまり変わらないんで久しぶりに会ったってすぐわかったのよ。不愛想で生意気で、高校のころのまんま。その前だって、ずっと子供んときから、ミキちゃんは」

 つ、と言葉が途切れて、俺にも思考の時間ができた。知り合ったのは中学生の時で、反抗期の真っただ中だったのだから不愛想でも仕方ない。さすがにそれよりも変わったと思いたい、が、体の中の酸素の濃度は増えた気がしていなくて、真っ向から言い返せるほどの力なんかどこからも湧かなかった。黙り込んだままのゾフィーを見ると、缶を片手で吊るように持ったまま、空いた手で甲を強く掻いている。

 落としてこぼされては敵わないと、まだ重みのある缶を取り上げてテーブルに乗せた。ゾフィーは爪を立てるのを止め、薄く息を吐いて睫毛を伏せている。

 言われるのを待っても良かった。ただ、自分の家にいて気持ちに余裕があったことと、同じように少しゆるんだ彼の表情を見たことで、いつになく手元が軽かった。すっかり慣れた気分で、違えた視神経に映っているであろう花を探ろうとした。指が、乾いた手の甲に触れたとたんに逃げられて、ゾフィーが身をよじったのが見えた。

 とっさについた後ろ手で、倒れてたまるかと力を込めた俺に、遠慮なく男の体重がのしかかる。顔がじっとりと熱い。

「おい、何してんだ」

 いつかのように指を口に突っ込まれないよう、歯を食いしばったまま聞くが、真っ赤な顔は浮かんだようにふわふわ、表情が定まらない。八の字を描いて迷う眼球は十分すぎるほどの水分で濡れていた。

「ミキちゃん、綺麗ね」

 近くで吐かれた息は、炭酸とアルコールでうっすら甘い。頬に貼りついた掌が滑って、指先が顎の骨に沿って開かれる。曖昧だったゾフィーの顔が、その輪郭をなぞるように目で追って、やわらかく滲む。

「綺麗」

 幻と自分を重ねられるのは誰だって気持ちよくない。だけど誰がこの顔を見て馬鹿に出来るものか。俺が許したい訳じゃない。否定したいと思っても、吸い込む空気がいつもより澄んでいて、肺の汚れまで取れてしまいそうなんだ。

俺は何を、考えているんだろう。彼に合わせて気が付かないうちに、飲みすぎてしまったのかもしれない。

「あはは、花束みたい。ね、良太はやっぱり花が、似合う」

 お前に生えた花だ。

 きっとお前にだって合ってる。

 唇から、声は出ないでいてくれたはずだ。やっぱり今日はどうもおかしい。人の体温が苦手なのに、酒に燃やされた自分の熱で、俺の体温もゾフィーの体温も区別がつかない。どうしようもない、どうしようもないから、今夜もそのまま過ぎていく。

 いよいよ支えられなくなった腕が崩れて、後頭部を強めに打った。響く奥歯の痛みを浮かせながら電灯に目を細めると、身体の脇でなにかパキッと割れる音がした。この日に物を寄越すのは確かにこいつくらいだ。もらったものを食べられないから。けれど前に一度だけ、人からもらった、駄菓子か何かを、あれを食べたのが最初で最後かもしれない。だよな、謙三。おい。寝てるか。阿呆。