食わされ上手
ちょっと驚かしてやろうか、なんて、意地悪半分口の端を捩じらせながら考えたのだ。自分もこの世の日本の空気をかき分けかき分け生きている一員であるからして、空気が明るく弾んでいれば一緒に弾まない由はない。軽薄だなと見下されるか、そもそもこんな俗っぽい行事は知らないか。先生どんな顔をするだろうと思いながら、大声を張る売り子に押されて買った箱は宵の色の紙で包まれていた。
「なるほど、とうとう、惚れたか」
「なんだ、このイベント、ご存じだったんですね」
先生のお宅についてあらかた仕事の用を済まし、不意をつこうと渡したらこれだ。目を見開いたり下顎を下げたりせず、いつもの斜めの笑いで包みを受け取られ、此方の肩がすとんと落ちる。
「そりゃ駆けずり回ってるお前ほどじゃないが、作家が世事に疎くてどうするね」
えい、ごもっとも。
二月十四日、世間一般に何でもなかったこの日が、数年前から一挙に色めき立っている。宣伝につられどこもかしこも、上気した色と匂いで湧いている。道行く女性が袋を下げ、口元を隠して笑っている。何か話題の品でもあるのかと、人だかりに混じって異端の雄になってしまった去年の失敗を、ぼくはきっと長い先まで忘れない。
胡坐の上で包みを破り、出てきた紙箱を開けた先生は、ふうんと鼻に抜ける声を出した。何の変哲もないチョコレートだ。だのに、ぼくを見上げる瞳は、人が悪そうにまがって光っている。
「なんです」
突き合わせた膝が落ち着かず、もじもじと座り直す。答えは返ってこない。先生は上向きの唇に茶色を挟んで、中でじっとりと舌を動かした。
さぞ、甘いだろう。この人の家に菓子があるのを見たことがない。甘物を好みそうな印象も、竹のように細く真っ直ぐな体には合わなさそうだ。そんな人の口に、どのような香りが広がるだろう。どんなふうに唾液に染みていくだろう。先生がだんまりだから溶け行くチョコレートのことばかり考えてしまう。少し気が変になりそうで、膝の上に乗せた手をぎゅっと握り締めた。
半分溶かして、ぐらぐら揺れていたもう半分が薄い唇の向こうに消えた。何か思い出すように目を細めた先生は、箱から次のひとかけを拾い上げて、ぼくの口の高さに差し出してくる。意図はわかるが、すぐに従えず瞳で訊きかえす。やはり、答えは返ってこない。仕方なしに一息吸って、吐いて。首を伸ばして歯で受け取るが、唇にいきおいで先生の指が触れて、身体が跳ねてしまった。急いで背筋を戻して、自分の味覚に集中しようとするも、ぼくに与えた指に付着した残りが舐め取られるのを見てしまい、うまいかどうかなんてわかりゃしなかった。
「せ、先生、勘弁してください。冬なのに、暑くてかなわない。や、良いヒーターを置いてなさるのかな」
口から出まかせ。とにかくごまかせ。掘っ建て小屋のような先生の部屋にヒーターなぞあるわけもないが、首筋に浮いた汗は拭わなければならなかった。向かいで愉快そうに笑い声が上がって、ようやく緊張が解ける。本当に人が悪いや、と喉の奥でつぶやいた。
「それじゃあ俺からも、日頃の感謝を込めてね」
すっと畳の上を滑ってきたのは、手のひらに乗るほどの小さな瓶だった。
「あらら」
拾い上げてみると、何ともかわいらしい。蝶々結びの飾り紐がついていて、中には粉をまぶした飴玉が入っている。これのほうが、オフィスにおいても溶けなくて良い。
「まさか頂けるなんて」
「光栄だろう」
「ええ、ええ。先生につきたがってる同僚どもに見せびらかしてやります」
「そうしろ。俺の関わる編集の中で、お前が一番腕がいい。俺の仕事への愛の多くは、つまり行き着くところがお前なわけだ」
小瓶を置いたぼくの前で、先生はもう一つチョコレートを口に放り込んだ。冬の空気によく似あう、涼しい顔の憎いこと。ぼくは、歯の根や舌の裏に残る粘度の高い甘さを、急いで集めて飲み込んだ。
「先生に”してやったり”なんて、もう二度と思いません」
深々と下げた頭の上を、空風のような笑いが吹き抜けていった。熱い顔をどう上げたものか、知恵を探して巡りに巡る。畳の目でも数えるかと伸ばした視線のさき、先生の裸の足指にまで気を揺らされる。世事に浮かれちゃいけないや。