今夜も甘い人
甘い匂いに、迎えられた。
一瞬、残業中に散々食べ散らかした菓子が口に残っていたかと思ったが、見れば納得。あえて触れずに、すっかり馴染みの助手席に乗り込んだ。反対側に乗り込んできた木曽さんも、何も言わずにシートベルトを締めてキーを回す。ただ、一連の動作の間、いつもよりうつむきがちだ。エンジンと共に世間話が起こる様子もなく、ものの一分で此方の気が保てなくなった。
「送ってくれるなんて珍しいよね。どういう風の吹き回し?」
「別にたまたま見つけただけだよ」
「ああそう、お互いお疲れ様」
真ん中で光るデジタルの時刻は23時を過ぎている。あくびをして、運ばれるまま進む大通りに目を遣った。土曜の深夜、オフィスビルの群れを抜ければこの時間でも賑やかで、おまけにやたらと二人組が目につく。荷物の他に袋をさげて、肩を寄せ合って歩くペアは、それぞれ自分たちだけの膜を張って、飲食店の照明の中をふわふわ漂っているように見える。街路灯には今日の日付とハートのマークが描かれたのぼりが掲げられ、世間様の統一感よろしく延々と連なって夜風に揺れている。
「良いよね、ああやって恋人とかと遊んでる人見るとさ」
「何が」
「平和だから。あそこには何も起きてないわけでしょ。裏は知んないけど。俺、人が笑ってるの結構好きなんだよ」
シートベルトに乗った腹の肉を、無意味に撫でながら言うと、あまり親身そうじゃない視線が流れてきた。
「お前、疲れてんのか」
あなたの笑い顔だってもっと見たいけど、とは出なかった。本当に疲れてもいるし、いくらなんでもバカみたいな物言いだし、失礼で無粋な反応もやっぱり好きだとかもっとバカなことがいくらでも出てきそうだったからだ。どう考えても街の雰囲気に圧されて気分が変わってしまっている。隣の人だってきっとそうだ。無学になりそうな喉を擦って、代わりに、自宅への行道をもう一度説明することで、うずく口の慰みにした。
「木曽さんはきっとモテただろうね」
「モテやしねえよ」
「嘘、木曽さんはデリカシーないけど顔がいいから、なんにも知らない女の子が遠くから見てさ、バレンタイン、見たことないような子が渡しに来たりしてたでしょ」
「デリカシーなくて悪かったな!」
「で、うまく受け取れなくて泣かせてた、絶対」
「うるせえな当たってるよ!」
怒号と乱暴なカーブに振り回されて、笑えば車がスピードを出す。
わかりやすい人だ。二時間くらい前、署内ですれ違った時、一課の刑事仲間ともう上がりだと話しているのを、聞いていないと思ってるんだろうか。車に乗り込んだ時に中がちっとも寒くなかったことに、僕が気が付かない訳はないでしょう。後部座席に無防備に乗せてる物が気まずくさせているのだろうけど、あれほど分かりやすくされては楽しみに待ち構える他ない。
荒い運転のおかげで、早々に自宅のマンションが見えてきた。路肩に寄せてもらって、別れの挨拶を勿体つけると、途端に車内の空気が熱くなる。目で早く降りろと言いながら、指がハンドルを握らずに爪を立てているんだから、つい優しくしたくなってしまう。
「お礼、先に言おうか?」
シートベルトを外しながら訊けば、こぎれいな顔が険しく固まる。険しいったって子供の顔だ。運転席が空くのに合わせて、自分もゆっくりとドアを開けて、冷たい空気の中に滑り出た。振り返ると、車体越しに小さな紙箱が投げてよこされる。寄せた鼻に焼き菓子の匂いがふわりと満ちた。
「ありがとう」
「似たようなもの、散々食ってるだろうけどな」
「きっとこれが一番うまいですよ」
俺がそう言って、ようやく固まりっぱなしだった木曽さんの肩から、力が抜けた。唇がやわらかく上を向いて、橙色の街灯が落とす暖かな影に神経が揺れる。ああ、参ったと舌の裏でつぶやいて、ドアに手をかけた様子の彼を呼び止めた。
「来月のどっか、休みありそうだったら教えてくれる」
「どうして」
「たまには食事でもいかが。お礼も兼ねて」
「礼なんかいらん。それにお前と食事なんて」
「むずがゆいね。分かるよ。でも、プロポーズは夜景の綺麗なレストランって定石でしょ」
馬鹿野郎の一声と、片手をひらりと最後に振って、木曽さんは帰りの箱に入ってしまった。すぐに動き出した車を、見えなくなるまで眺めるなんて殊勝な案も浮かんだけれど、却下してエントランスに向かう。シャッターの下された管理人室の窓口には、ご丁寧にハートをかたどったぬいぐるみが飾られていた。
浮かれちゃって、良いよね。唇の中で言ったつもりが、静まり返ったロビーに思ったよりも大きく響いて、足早に進んだ。手の中にある紙箱が、無性に皮膚をくすぐってくる。浮かれちゃうよね。なんたって好きな人に贈り物を貰うんだから。口実のある今日くらいは、思い切りあなたを好きで居たって良いよね。俺は、本当はもう、木曽さん、あなたにどうしようもないんだ。