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白状

ex.あなたのために

2024.02.25 06:30

 滑りのいい木の引き戸を開くと、雨の夜の端に立ってしまった。日中、降るか降らないかギリギリ保っていた空を見ておきながら、傘を置いてきたのはいけなかった。細かい雨粒がさらさらと空気を冷たくしている。酒熱を帯びた頬には気持ちよく、覚束ないでいた意識が速やかに立て直された。出るのも躊躇われるが戸を開けたままでいる訳にもいかない。お気をつけて、という大将の声を背に、名残惜しい飲み屋の空気をそっと閉じた。雨脚は弱い。意を決して革靴のつま先を濡らす。と、続いて濡れるはずの頭は全く雫を受けなかった。

「風邪を引かれては」

 耳の裏をなぞられたような感覚に身震いしながら振り向くと、飲み屋の若い店員が出て傘をさしかけてくれていた。

「そんな、わざわざ」

 ついつい遠慮しようとしたものの男は薄い笑顔を横に降る。惑う視線が彼の手に雨が降りかかるのを見て、慌てて受け取ってしまった。持ち手を離した彼の手はすっと下りて、割烹着の脇腹に触れぬようわずかに開かれた場所に収まった。彼の仕事はまだ続くのだ。

「どうもありがとう。明日必ず返しに来るよ」

「いいえ、いつでも。よかったら差し上げます。お好きになさってください」

 男の声はごく小さいのに、雨音や繁華街の賑やかさに紛れることなく、吹き込まれるように響く。思わず耳にやりそうになった手を堪えて、会釈をして帰り足を踏み出した。振り向く間際に見た彼の顔はやっぱり笑っていて、特に唇の色が浮き、梅雨の湿気よりもずっと湿っていた。信号待ちで止まった際、持ち手に何か書かれているのに気がつき指をずらした。赤いシグナルにぼうっと浮かぶは人の名前で、この傘が彼個人の持ち物だったと分かる。元から返すつもりだったが、これはなるべく直接渡さなければいけない。わずかに酒の残る意識の上澄みに反芻する割烹着姿と、眺める署名、そこに「お好きになさってください」との声が被さる。静かに、何かをしみ込ませるように。その内側をかいくぐり、違和感に似た何かが通り過ぎたが、傘に張り付いた雫を払うと同時に消え去った。どこまでが自然の行為なのか自ら分からなくなりながら、濡れないで済んだことの有難さだけを意識してひたすら駅へと歩く。乾いた首元が、暑い。