2月25日 主日礼拝
2月25日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
ルカによる福音書 17章11〜19節
皮膚病を患っている10人。
イエスに助けを求める。
「祭司のところに行って体を見せなさい」
イエスの勧めに従って彼らは出かけていく。
その途中、10人は病が治っていくのを感じる。
元気を取り戻しイエスの所に帰ってきて、神を讃美する。
一人だけが。
「他の9人はどうした」
その一人に対してイエスは告げる。
「立って行きなさい。
あなたの信仰があなたを救った」
この物語は何を語っているのか。
良いことがあれば神への感謝を忘れずに、と言う礼儀に勧めか。
イエスのもとに帰ってきた者の特徴は何か。
この者は自分の病が癒された原因に神を感じた。
ここに神がいる。
少し拡大して言うならば、神はどこにでもいる。
どこにでもいるから私の病にも目を止め癒してくれた。
この者の神理解、神への信仰は私たちも理解をするところ。
そして、私たちの信仰もまたこの者と同じ。
神はどこにでも、いつでもいる。
私たちはそういう信仰を持っている。
ならば、次のような事態に私たちはどのように対処するのか。
ロシアのウクライナ侵攻は2年経っても終わる気配がない。
毎日、人の命が失われている。
それはイスラエル、ガザでも同じこと。
暴力が暴力を生み、憎しみだけが増殖されている。
神がどこにでも、いつでもいるのなら、どうしてこのようなことが起こるのか。
私たちはこのような事態についての納得のいく答えを持っていない。
だが、それでも筋は変わらない。
神はいつでも、どこにでもいる。
従って、世界で今起こっている悲惨なこと。
これまでもあった絶望的なこと。
そこにも神はいた。
だからこそ、私たちの信仰は鍛えられる。
世界は闇であっても神はいる。
ならば神とは何か。
ヨハネに言わせれば「神は愛である」
愛がいつでも、どこにでもある。
それが世界。
更にもう一つ続ける。
愛とは何か。
イエスが明確に語った「愛」
「友のために命を捨てる。
これに勝る愛はない」
究極を語ったものであるが、これを言い直すとどうなるのか。
命を捨てる。
なんのために?
友を生かすために。
ならば、こう言える。
友を何がなんでも前へと進めさせる。
どんなことをしても、すべてを捨ててでも未来を与える。
この世界には神がいる。
それはこの世界には「愛」があるということ。
愛のある世界はどういうところか。
私をどんなことをしてでも前へ、
未来へと進ませようとしているところ。
暴力の溢れる世界。
希望の見えない世界。
そうであっても信じる。
前へ行ける。
私も、あなたも、世界も前へ行ける。
ここが終わりではない。
ここから
未来へ進める。
立って行きなさい。
あなたの信仰があなたを救った。
あなたの信仰があなたを救った。