かきくけこ
2024.02.25 07:53
垣根の小さな穴からあの人を見るのが僕のささやかな秘め事だ。風の強い日も熱く太陽の照る時も、ほんの二・三分だけ僕は小道に佇む。背丈よりも高い生垣によって、僕の存在はあの人には知れない。人の通りをおそれながら、いつか望遠レンズのように飛び出そうなほど目を凝らす。
近所の話を立ち聞きするに、あの人はまだ三十前。白髪交じりの旦那に比べて随分わかい。庭に箒をかけたり、雫を飛ばしながら洗濯物を干す格好には、妻女らしさよりも他の雰囲気が多くあった。それは、僕の覚えた何よりも、潤んで、垂れ滴るような、水気だった。
九月の終わり、台風の気配に空がぐっと重くなった日。学校の帰りにやはり僕は生垣の前に立った。あの人は朝干した衣服の様子を手で確かめていた。何度も縁側とを往復して片付けを進め、やがて最後の一枚の着流しを竿から下ろした。もう終わりだろうと、いつの間にか詰めていた息をほっと吐く。
けれども僕は帰れなかった。着流しを胸に抱いたあの人が、あの人が。こちらの方を向いたまま、自分の着物の裾を、少しずつ広げていく。足首が見え、曲線が脛へと伸びて、丸い形の、膝小僧が。白い柔らかさが、僕の胸を圧し、見えるほどに空気を奪っていく。
煌々(こうこう)と明るくなったと肩で感じてすぐに、大岩を転がすような音が降ってきた。意識を引いていた強い力を断ち切られ、ハッと空を見る。黒い雲が渦を巻いていた。もう、嵐が来る。そう思う間に生垣の向こうでガラス戸が閉まる音がした。嵐が来る。中を抜かれた頭には、轟音は鈍く、遠かった。