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懸魚

【GWT】【K暁】梅の綻び

2024.02.25 09:12


 老いらくの恋は成就したか。

 アジトのベランダで、雨を眺めながら煙草を吹かす。立春はとうに過ぎ、先週に雨水を迎えた。目前に迫るは啓蟄。にわかには信じがたいがもう春だ。

 過ぎてみれば、今年の冬は随分の急ぎ足で去っていったものだ。待ち人でもいたのかもしれない。道路を凍結させ日本中の交通網を麻痺させ、雪を降らせてかよわい人間の免疫力を下げにかかる、そんなつまらない仕事に励むよりも、神さびたどこか遠くに会いたい人がいたのかも。

 ぼんやりと考えていたKKは思わずふっと笑いを零した。我ながら、随分と浮かれた思考だ。季節が啓蟄を待っているなら、自分を待っているのは五十路だ。そんな歳にもなって、頭は若い恋人のことを考え、心は恋情で春めいている。

 気を付ければいけない。これは二度目の恋である。かつて今生の伴侶と決めて愛を誓った人がいた。一生の一度の愛と覚悟したつもりだった。だがKKは、結果としては、良き伴侶になれなかった。今では家族ですらなくなってしまった妻と息子への愛情、そして負い目を、KKは死ぬまで抱えていくことになる。

 若者の恋とは違う。若い頃、胸のうちに抱いていたきらめく希望も、浮ついた楽観も、今は無い。数十年来のニコチンにまみれた肺に挟まれていては、そんなもの生まれようもない。

 これから老いていくだけの四十代のおやじと、何もかもこれからの二十代の若者。そんな恋愛。多難だ。関係性を保つことさえ精一杯だ。

 だが、と、また煙を吸い込んだ。

 どういった奇跡か、はたまたどんな神様が味方してくれたのか。急ぎ足の冬の神が、去りしなにちょいと二人の縁を結んでいったのか。

 ちょうど一年ほど前、今と同じ初春の時期に芽生えたKKの恋は、成就した。

 だから、長年の労苦と煙草と酒でざらついたKKの心には、いまうっすらと紅梅色の薄衣がかかっている。これを良い方向に馴染ませていけるかは、自分次第だ。いつか自分にはそぐわないと諦めて取り払ってしまうか、あるいは薄汚れた心と価値観のせいで色褪せてしまうかもわからない。

「…あー…」

 嘆息する。やっぱり、この年齢には少々疲れる恋だ。

 けれど自覚した時点で摘み取らずそのまま育てたのはKK自身であるし、当の想い人からも、良い風ばかりが吹いたものだから。

「KK、またタバコ?そろそろやめなよ」

 カラリと掃き出し窓が開き、暁人が顔を覗かせた。室内から温かい空気と、食欲をそそる匂いが漏れてくる。

「何か作ったのか?」

「もうすぐ夜だし。もらった野菜、早く消費しなくちゃなって」

 今日は一日別行動だった。この一年で暁人も随分たくましくなり、単独で仕事を担うことも増えた。相棒としては頼り甲斐があって誇らしい限りだ。師匠としては弟子の成長が早くて少々つまらない。好い間柄としては……いや、浮かれるのはよそう。

 ともかく今日の依頼主から、お礼として初物の野菜をたくさんもらったらしい。キャベツ、大根、スナップエンドウ。冬から春への過渡期らしい品目だ。

「忙しくて走り回ってたから、お腹空いちゃって」

「健康的だな」

「KK、お腹すいてる?」

「この匂いを嗅いじまったらなぁ」

 まだ冷たい春の雨から離れ、室内へ戻る。今日もアジトにはKKと暁人の二人だけだ。

 夕方から二人してがんばって報告書や調査資料をまとめていたから、テーブルの上は散らかっている。暁人が料理をよそっている間にKKは片づけをして、夕飯の準備を整える。KKは片付けも得意ではないが、ある程度整理する習慣をつけていないと、アジトに出入りしている乙女二人からリアルなため息を落とされる。

 春キャベツとスナップエンドウの炒め物を中心として、炊き立てのご飯と、冷凍ものの魚の煮付け。おまけに漬物。そしてビールを二缶。

 大の男二人の夕飯として、これほど上々のものはないだろう。

 何の蟠りもない二人の食卓というのは、幸せだ。

「あ、そういえば、まだもらいものあるんだよね」

「まだあるのか?随分気前のいい爺さんだな」

「おばあさんだったよ。野菜じゃないんだけど、あとで見せるよ」

 キャベツもスナップエンドウも、誇張でなく瑞々しく甘い。春の味だ。

 おかずと一緒に飯をかき込んで、ビールを煽る。腹の底からの充足感と共に大きく息を吐き出すと、向かいで暁人もビールを飲み、渋い声を上げていた。思わずにやついてしまう。

「オマエもおっさんくさくなったな」

「え!?嘘だろ!?」

「ほんとだほんと」

「…マジかよ…」

 ちょっと呆然としている。そんなにショックを受けなくても、若さは色褪せないし、ビールのうまさは揺るがせない。

「いいじゃねぇか。酒もいろいろ教えてやるよ」

「…いらないよ」

「拗ねやがって」

 年上として、教えてやれることがあるのは嬉しい。…うざがられていなければ。KKは機嫌良く春野菜を堪能して、暁人もちょっと肩を落としつつ、空っぽの腹を満たしにかかった。


 ○


 誰かに想いを告げられたり、恋をしたりすることを春が来たとも言うけれど、暁人の春はかなり煙草臭かった。おまけに不摂生だし柄も口も悪いし、酒も飲む。それでも確かに春だった。

 一年前、KKは暁人に春をくれた。小さな小さな春だ。それは梅の蕾の形をしていて、KKのエーテルに包まれて、暁人に小さな幸いをたくさんもたらしてくれた。

 奇妙な夏の夜にKKと出会い、魂の片割れとなり、無二の相棒となった。それから一緒に過ごしてきて、実のところ、心の奥底には春の芽があることを互いに知っていたのかもしれない。無意識のレベルではあるが、だから大した拒絶も抵抗も無く、するすると縁の糸は結ばれたのだろう。

 もしかしたら、あの夜に二人が助けた様々なものたちが縁結びをしてくれたのかもしれない。そんな空想をしてしまうくらいには、自然と、蕾が綻ぶように。

 ――ほら、すごいだろ、これ。

 暁人は笑ってKKに言った。

 紅梅だ。

 薄明るい春の曇天の下、鮮やかな梅の花が、いっぱいに咲いている。見事な梅の林だった。


 郊外に土地を持っていた依頼主から、暁人はお礼として、野菜と一緒に梅の枝をもらった。

 見事な梅だった。少々大きな土産になるが、花瓶にでも差して、全て散るまで飾ってくれと老婦人は笑っていた。来る春の証しだからと。めでたいものだからと。

 そうして暁人は、これをKKにあげようと思った。ちょうど一年前、KKがそうしてくれたように。


 ――…ああ、すげぇな、こりゃ。

 KKは繚乱する梅の花を前にして、初めは無言でいた。しばらくして感嘆して、そう言ってくれた。KKは今日はずっと都内で都市伝説の調査に走り回っていた。春の風情など感じる機会もない。アジトに戻ってきてすぐ、くたびれた顔でそんなことをぼやいていた。

 だから見せてあげたかったなと、暁人は思ったのだ。

 エーテルの適合者は、普通の人間には視えないものが視える。その能力のせいで、見なくてもいい、知らなくてもいいことばかりを目の当たりにしてしまい、苦しむ瞬間は山ほどある。

 けれど、強い感情や思念に反応するエーテルは、思いがけないものを見せる時もある。

 例えば相手への想いだとか、その日誰かが見た景色だとか、感動だとか。

 温かな風に乗り、梅の香りがする。若々しく、甘い香りだ。

 対するKKは夢の中でも煙草くさい。夢の中だからと美化されていることもない。普通の、元刑事でゴーストハンターで、人を救うことに命を燃やすおじさんだ。

 ――KK。

 暁人はそっとその手を取った。ごつごつしてかさついた手。冬の間から強引にハンドクリームを塗ってやっているので、多少肌の質は良くなった気がする。

 信頼している。二人なら大丈夫。力になれる。けれどたまには心配だ。なるべく元気でいてほしい。この先もできるなら一緒にいたい。


 ああ、好きだな。


 夢の中でも言葉にはならなかった。けれど大きく春風が吹いた。暁人の方から吹いた風は、KKの髪と服をばさばさと乱し、KKはなんともいえない顔ではにかんだ。

 手を握り返される。その温かさで、また夢の空は明るく、梅は鮮やかに輝く。

 二度とない恋だ。暁人はそう思った。

 KKはどう思っているんだろう。じっと目を見つめると、KKは降参だと言わんばかりに苦笑して、言った。


 ――できれば死ぬまで、ここに居たいよ。


 充分だ。




 暁人はゆっくりと瞼を開けた。

 KKが住む冴えない安アパートの部屋は、まだ暗く、静かな夜に沈んでいる。かちかちと時計の針の音だけが響いている。

 狭苦しい布団は、二人分の体温で温かい。寝相でうっかりはみ出てしまうとまだまだ寒いので、二人ともおとなしく布団の中に収まっているのだ。大の男二人が、まるで子供のようだと暁人は思う。

 いつの間にか、手を絡めていた。就寝前にも擦り込んであげたクリームのおかげで、KKの手はさらさらしている。まどろみながら彼の指を撫でていると、きゅっと握り返された。目線を上げると、暗闇の中でKKと目が合った。起こしてしまったようだ。

 ごめん、という前に、笑いを含んだ小さな吐息がそれを遮った。

「やっぱ、狭いな」

「…もう一組買う気になった?」

「いーや」

 まったくこの中年は、狭い布団で身を寄せて眠ることに味をしめてしまったらしい。浮かれちゃってさ。暁人は呆れた気持ちになる。だが本当は、悪い気はしない。文句は言うけれども、初めてここに泊まった冬の日から暁人は、一度だって嫌がったことはない。

 手が離されて、KKの腕が大きく暁人の背に回る。さらに抱き寄せられるので、暁人も彼の背に腕を回した。言葉はもう無く、また二人で眠りに沈んでいく。

 台所の流しには、暁人がKKにあげた梅の枝が、水に浸って休んでいる。

 薄衣のような、花の香りに満ちていた。