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杉並区 07 (02/02/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 (2) 三家 (三谷、今川)

2024.02.03 05:23

旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 小名 三家 (さんや)

三谷町  (さんやちょう、小名 三家の西部) [現 今川三丁目の一部、今川四丁目、上井草二丁目の一部、上井草三丁目の一部、桃井四丁目の一部] 【2024年1月30日訪問】

今川町 (いまがわちょう、小名 三家の東部) [現 今川三丁目の一部、今川二丁目の一部]



今日は今回の東京滞在の最終日。旧井草村小名三家の史跡の一部は1月30日に訪れたが、今日はその残りを見て行く。井草川遊歩道を進見ながら、その周辺のスポットを訪れる。



旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 小名 三家

小名 三家 (後の三谷町) には、この地域の草分けとされる三戸の百姓が最初に住み着いたとされ、三軒家と呼ばれ、その後、略されて三家になったという。里唄に「三谷三軒、宿四軒」の一節がその事を伝えている。江戸時代の小名の三家は1889年 (明治22年) には小名 宿の一部を含めて井荻村大字上井草小字中通り北になっている。その後、1932年 (昭和7年) にほぼ元々の小名 三家の領域が杉並区三谷町と行政区変更がされている。1962年 (昭和37年) の地図では小名 三家に相当する地域の西が三谷町と東が今川町と表記されている。いつ今川町ができたのかはわからなかった。1963 ~ 1964年 (昭和38 ~ 39年) に現在の住居表示に変更されている。

江戸時代から明治時代にかけての集落の分布は下記の左上の地図だが、戦前まではほぼこのままで、1927年の地図では道路が碁盤目状になっており、土地整理が行われた事が分かる。民家分布が拡大したのは戦後と思われ、まずは三谷町から始まり、今川町はまだ明治時代と変わっていない。現在では公共施設を除きほぼ全土が住宅で埋め尽くされている。

この地域の史跡は旧今川町に集中している。今川氏の菩提寺だった観泉寺があったことによるだろう。旧三谷町には幾つか太田道灌所縁の地がある。



三谷町 (さんやちょう、小名 三家の西部) [現 今川三丁目の一部、今川四丁目、上井草二丁目の一部、上井草三丁目の一部、桃井四丁目の一部] 【2024年1月30日訪問】

三谷町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: なし
  • 庚申塔: 庚申塔 (75番 瀬戸原に記載)
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵菩薩: 富士向観音 (74番 瀬戸原に記載)
  • その他: なし


道灌橋跡

小名 瀬戸原の瀬戸原上橋跡から井草川遊歩道を上流の西に進んでいくとレンガ敷の道となり、道沿いに道灌橋跡の石柱が建っていた。江戸時代には石橋が架かっていたそうだが、区画整理で取り除かれてしまった。太田道灌所縁の地なのだろうか? ここを流れていた川を道灌堀と呼んでいたそうだ。


道灌橋公園、太田道灌陣所跡

道灌橋跡の北側は公園になっており、ここも道灌橋公園と名付けられている。この公園辺りは太田道灌が豊島氏の石神井城を攻める際に陣所を置いた場所と伝わっている。ここから石神井城の直ぐ南の高台の愛宕山まで進軍して最後の陣を敷いたのだろう。これがこの場所の名の所縁だった。


道灌公園 (陣幕)

太田道灌陣所跡だった道灌橋公園の南側にも太田道灌所縁の地がある。道灌橋跡から井草川を外れ、三谷小学校の西沿いの道灌坂 (下の写真) を南に進むと道灌公園がある。

ここは昔から陣幕と呼ばれていた。この公園からすぐ東の農芸高校敷地の西北部分までは高台で後に道灌山と呼ばれるようになっていた。太田道灌が石神井城攻めの際に陣幕 (本陣) を敷いた場所と伝えられている。この高台の陣から道灌坂を下り、井草川を渡った後に先程の道灌橋公園の場所でも陣を置いたのだろう。


井草川支流 1 (2024年4月7日 再訪)

井草川遊歩道に戻り、道灌橋から上流の西の少し進んだ所に南への細い路地 (写真上) がある。この路地がかつての井草川支流だった。この支流は源流とされる切通公園から、本流とは別に流れ出し、この地で本流に合流していた。この暗渠の路地は2月2日には通らなかったので4月7日に道をたどることにした。路地は南に進み (左下) 西側に方向を変え、三谷公園の南側を通っているが、路地はこの三谷公園で途切れている。この先には杉並工業高校があり、この支流はグラウンドの下を流れている。

グラウンドを西に越えた所から暗渠の路地が復活している。この路地が切通公園に続いている。


井草川支流 2 (2024年4月7日 再訪)

井草川有報道に引き返し、井草川本流を上流に向かって少し進むと、もう一つ細い路地が北側に向かって伸びている。これも井草川の支流なのだが、本流から流れ出ているのではなく、北からこの支流が本流の合流している川だった。今では暗渠となっているので、川の流れの方向が分からず、資料を調べるとそうだった。遊歩道の入り口には熊にまたがった金太郎が描かれた車止めが置かれている。この車止めは杉並区を走っているとよく見かける。この表示がある道はかつての分水路跡を暗渠にした遊歩道と思って間違いない。

遊歩道は練馬区の上石神井南町に伸びている。この辺りで遊歩道は消えている。この支流はこの北側を流れる千川上水から始まっていたと思われる。


三谷公園

井草川遊歩道に戻り、井草川本流を西へ上流に進むと三谷公園がある。

江戸時代の小名 三家の名が残っている。ここで遊歩道は途切れている。かつての井草川は源泉の切り通し公園から杉並工業高等学校の敷地内、更にこの公園を突っ切って流れていた。この公園の下流側には二つの道幅の狭い遊歩道があった。分水路の跡だそうだ。北側からは千川上水の分水路でこの井草川に流れて込み、井草川から南へは分水路として流れ出ていたそうだ。



三谷町から今川町に入る。


今川町 (いまがわちょう、小名 三家の東部) [現 今川三丁目の一部、今川二丁目の一部]

今川町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: 観泉寺
  • 神社: 今川稲荷大明神
  • 庚申塔: 庚申塔 (112番、113番、115番、116番)
  • 馬頭観音: 馬頭観音坐像、馬頭観音 (114番)
  • 地蔵菩薩: 七観音 (81番)、六地蔵 (82番)、子育地蔵尊 (90番)、江戸向地蔵 (117番)、地蔵菩薩 (80番) 他
  • その他: 日本廻國供養塔 (79番)、子育て地蔵供養塔、念仏供養塔 (91番)、日本廻國供艱塔 他


観泉寺

今川二丁目の北西には大きな仏教寺院がある。今川氏の菩提寺の本尊は釈迦如来とする曹洞宗の寶珠山本井院觀泉禪寺 (観泉寺) で1597年 (慶長2年) に中野の成願寺住職の鉄叟雄鷟を開山として上井草村八町除地 (現在の下井草二丁目付近) に創建され、当初は観音寺と称していた。この寺を菩提寺とする高家今川氏は江戸幕府に仕え、1645年 (正保2年) に今川直房 (今川義元の子の氏真の嫡孫) は、朝廷との交渉の功績によって、井草村を含む一帯を知行地として与えられ領主となった。下の図の様に広大な範囲だった。

以後、この地は幕末まで今川家一円知行の所領として続くことになる。今川氏は明治時代に断絶したが、「今川」はここの地名として残っている。直房は、その後 (時期不明) 彼の姉が剃髪し仕えていた観音寺を上井草村の現在地に移転して伽藍を建立し、寺領を寄進し、寺の名を観泉寺と改めている。1649年 (慶安2年) には幕府より観泉寺に朱印状が与えられ、10石の寺領に関する年貢・諸役を免除されている。1662年 (寛文2年)、直房は祖父今川氏真と母 (吉良義安の娘) の墓があった市谷田町の万昌院が牛込に移転するのに際し、墓をここ観泉寺に移転し、今川氏真を観泉寺の開基とし、この時から観泉寺は今川氏の菩提寺となっている。


山門

山門 は1993年 (平成5年) に再建されたもので山号が飾られている。山門前には「禁葷酒」と刻まれた石塔がある。禁葷酒 (きんくんしゅ) とはなまぐさもの (葷) と酒の持ち込みを禁ずるという意味。側面には「西國 秩父 坂東 先祖菩提同志」「सः (サク) 大悲觀世音百尊供養」とある。1784年 (天明4年) に建てられている。観泉寺は今川氏の所領支配の役宅も兼ねており、役人たちは寺に宿泊して、上井草村、下井草村、上鷺宮村、中村の検見や年貢取り立てや裁判などもこの門前で行われていたという。


本堂

山門を入ると正面に本堂が建っている。この本堂は1763年 (宝暦13年) に本堂などが焼失したが、翌1764年 (明和元年) に再建されているが、現在の本堂は1982年 (昭和57年) に再建されたもの。中央の須弥壇には本尊の釈迦如来が祀られ、左右には今川家歴代当主の位牌と歴代住職の位牌が置かれている。本堂前にある宝塔 (左中) は、1805年 (文化2年) に建立され、塔中に法華経八巻の経文を小石一個に一字ずつ書き写した「一石一字写経石」が内臓されている。


庭園

境内には池泉鑑賞式庭園が造られている。規模が大きい立派な庭園。境内には竹林もあり、綺麗に整備されている。


観音堂

観音堂は 1790年 (寛政2年) に建立されたものが現存している。観泉寺では現存する一番古い建造物になる。観泉寺元屋敷の聖観世音菩薩が安置されている。


鐘楼堂

鐘楼堂は山門と同時期の1993年 (平成5年) に再建されたもので、鐘楼は1974年 (昭和49年) に広島「平和の鐘」の作者で人間国宝香取正彦氏によって作られたもの。


今川宝珠殿

寺から出ると少し離れた所に1994年 (平成4年) に建立された葬祭場の今川宝珠殿もある。


七観音 (81番)、六地蔵 (82番)

観泉寺本堂の奥は墓地になっている。

墓地に入ったところに、ずらりと石仏が並んでいる。

向かって右の七体は今川氏の墓を移した翌年の1693年 (元禄6年) に上井草村の人々により寄進造立された七観音 (81番) で、向かって右から、如意輪観音坐像、十一面観音立像、聖観音立像、馬頭観音立像、観音立像、観音立像、千手観音立像になっている。

左の六体が死後の輪廻の六道の救済の六地蔵 (82番) で、これらも七観音と同じ日の1693年 (元禄6年) に上井草村の人々により寄進造立されている。六地蔵それぞれの名称や持ち物は地域により異なり複雑化しているそうだ。資料にも個々の地蔵の名称までは書かれていなかった。


無縁墓地、日本廻國供養塔 (79番)

七観音、六地蔵の隣には無縁墓地があり、そこには子孫が絶えてしまった墓石が集められている。この中で資料に紹介されていたものがあった。日本廻國供養塔 (79番) で1762年 (宝暦12年) に造立されたもの。


今川氏累代の墓

観泉寺は今川氏の菩提寺で、無縁墓地の後ろが今川氏歴代の領主が眠っている墓地になる。直房の祖父氏真 (義元の子) 以降十二代から二十三代までの今川氏累代のお墓が設けられており、宝筐印塔五基、板碑型二基、無縫塔十二基、その他一基の合計二十基の墓が置かれている。

観泉寺の山門の前には石柱や石仏を集め祀っている場所がある。他の場所から移設されてきた石仏、石塔を安置している。


子育て地蔵供養塔

1975年 (昭和50年) に造立された子育地蔵尊供養塔 (右上) で、この地で50年に渡り産婆として1万三千の赤ん坊を取り上げた婦人への感謝を表したもの。この場所には他に三つの供養塔が置かれている。その一つは猫の像が塔の上に置かれた猫供養塔で、ある三味線の師匠が建立したといわれている。


三谷子育地蔵堂、念仏供養塔 (91番)、子育地蔵尊 (90番)

この三谷子育地蔵堂内には石塔と地蔵尊像が安置されている。この二つとも桃井四丁目-16にあった地蔵堂から移転されたもの。向かって左は造立時期不詳 (江戸時代の造立と推測) の笠付角柱で正面に「南無阿弥陀」と刻まれた念仏供養塔 (91番) になる。側面には「志やくち道 (石神井道) 」と刻まれ道しるべも兼ねていた。右側には1737年 (元文2年) 造立の地蔵尊菩薩立像 (90番) が浮き彫りされた舟方石塔の念仏供養塔になる。桃井地元では村中地蔵と呼ばれていた。


馬頭観音坐像、日本廻國供艱塔、地蔵菩薩立像

左側の祠の中には三基の石塔が置かれている。

  • 馬頭観音坐像 (左中)  - 1899年 (明治32年) に造立された駒形石塔上部に馬頭観音坐像が浮き彫りされている。
  • 地蔵菩薩坐像日本廻國供艱塔 (中中) - 1762年 (寶曆12年十月吉日) 造立、1899年 (明治32年) に再建された石塔。
  • 地蔵菩薩立像 (78番 右中) - 1729年 (享保14年) に遅野井村講中34人により造立されている。正面には「地蔵菩薩念佛講女中」と刻まれている。地蔵尊の頭部は修復され新しくなっている。
  • 北向地蔵 - 右側の堂には堂内いっぱい吊るされた千羽鶴の中に置かれた舟型石塔に地蔵菩薩立像 (右下) が浮き彫りされている。1732年 (享保17年) に西荻北4-37の地蔵坂 (別名 御立場坂 [おたてばざか]、寺分坂 [てらぶざか]) に造立されたものをここに移設している。地元の人からは北向地蔵と呼ばれていた。

庚申塔 (112番、113番、115番、116番)、馬頭観音 (114番)

江戸向地蔵堂の前に祠が置かれて6基の石塔が置かれている。この6基とも江戸向地蔵と同じく西荻北4-37の地蔵坂に置かれていたものが移設されている。

  • 供養塔 (左上) 1896年 (明治29年) に58人の連名で造立された角柱に「至心瞻禮 地藏像一切 悪事皆消滅」と刻まれている。
  • 庚申塔 (116番 中上) - 1716年 (正徳6年) 造立の笠付角柱に月日、合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (115番 右上) -1685年 (貞享2年) 造立の駒形角柱に月日、合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。もとは荻窪中学校 の校庭の樫の樹の下にあった。昭和初期の区画整理前の寺分坂は、砂利を敷いた急坂で、この樫の木の所で曲がっていました。荷車をひいて下る時、車がつっ走って、この曲がり角がたいへん危険だったが、だれも怪我をしないので、村人達はこの庚申様のご利益だと感謝して、いつもお花が供えてあったという。
  • 馬頭観音 (114番 左下) - 1824年 (文政7年) 造立の隅丸角柱で、正面上部に三面六臂の馬頭観音坐像が浮き彫りされ、その下に「馬頭観世音菩薩」と刻まれている。側面には「東 江戸」「西 ふちう」と刻まれて道しるべも兼ねていた。近代になってからは東多摩郡井荻村、豊島郡石神井村、北多摩郡吉祥寺村の三郡の境 (東京女子大の南角) に立てられていたので「三郡境の馬頭様」と呼ばれていた。
  • 庚申塔 (113番 中下) - 1705年 (宝永2年) 造立の笠付角柱に月日、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。側面にも蓮が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (112番 右下) -1745年 (延享2年) 造立された駒形角柱に上部に月日、その下に合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。江戸時代の半ば頃、福寿庵 (現善福寺) の浄誉善入という坊主が、江戸市中を托鉢して浄財を集め、渡戸橋、地蔵前、新町の切通し、赤鳥居前、元宿、保久屋押出し、地蔵下 (原寺分橋) の七ヵ所に、石橋を架けて永久に壊れないようにと、七基の供養碑を建てて、祈願したといわれており、これは地蔵下 (原寺分橋) にあったものがここ地蔵堂に移設されていた。


観音像

山門への参道を挟んだ東には観音像が6体置かれている。向かって左から聖観世音立像 (1691年 元禄4年 舟型)、如意輪観音坐像 (1732年 享保17年 舟型)、地蔵菩薩立像 (造立時期不詳 水子地蔵)、阿弥陀如来立像 (1693年 元禄6年)、如意輪観音坐像 (記載なし)、如意輪観音坐像 (1730年 享保15年 舟型)


地蔵菩薩像 (80番) 

観泉寺の塀に沿って東に少し進んだ所に祠がおかれている。この祠についての情報は見当たらず。祠の前庭には1769年 (明和6年) に造立された隅丸角塔が置かれ、その正面上部には地蔵菩薩が浮き彫りされている。道しるべも兼ねており、左側面には「左 ほりの内」、右側面には「右 長命寺」、裏側には「ぞうしがや」とある。観泉寺の無縁墓地にあったものを移設したのだが、それ以前には八成橋に置かれていたそうだ。

2024年4月7日には観泉寺も再訪した。境内、や寺周辺に桜が咲いていた。


井草川支流 3 (2024年4月7日 再訪)

観泉寺の南側に暗渠の遊歩道となった井草川支流跡がある。この支流は井草川が中瀬町の西山橋から分岐し、あけぼの公園西側を通り、環八を西に越え、今川第一公園沿いを流れ、井荻中学校南を経由、中央大杉並高校グラウンドを横断してこの観泉寺南 (写真上) と通っていた。この支流が流れていたところが今川町の南の境界線に当たる。更に支流は西に流れ、三谷町に入った辺りで、南の六ヶ村分水路から流れ出した用水路と合流 (写真中) して西へと流れていた。(写真下)


今川稲荷大明神

観泉寺の東側、井荻中学校の西の住宅街の中の小道を奥に入った駐車場の一画に今川稲荷大明神が置かれている。この神社の情報は見つからなかったが「今川」と冠がつけられているので、今川地区の鎮守だったのだろうか?


行刑屋敷跡

江戸時代に、この地を領有していた今川氏は領内での裁判は観泉寺の山門前で行ない、そこで決定された刑をとり行った場所を行刑 (刑人) 屋敷と呼び、上井草三丁目交差点の場所北東の上井草二丁目に置かれていたと伝わるが定かでない。



小名三家を巡り終わり、引き続いて南側の八町と宿巡りを続ける。


上井草村 小名 三家 (三谷・今川) 訪問ログ


参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)