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杉並区 03 (08/12/23) 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 (2) 八成

2023.12.09 06:24

杉並区 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 小名 八成 (はちなり、小字 久保、小字 八成)



杉並区の史跡巡りのの2日目、資料チェックに3日間使い、大雑把ではあるが今日訪問する八成の概要や史跡情報は頭に入れて出発。



小名 八成 (はちなり、小字 久保、小字 八成)

下井草村の北に位置するのが小名 八成 (明治時代は大字 八成) にあたる。江戸時代から明治にかけての八成は現在の井草一丁目とニ丁目に相当する。この地名の由来は、当時の観泉寺住職が、千川上水の橋に、ダルマ雑集論という経典経文から八成橋 (はっせいばし) と名付けたが、土地の人は「ハチナリ橋」と読み、地名も「ハチナリ」になったと伝わっている。また、八成の「八」は開くという意味で、八成は新しく開かれた土地という意味で名付けたともいう。

資料では下図の様に江戸時代からの行政区の変遷が記されている。江戸時代の小名 八成は1889年 (明治22年) に大字 八成となり、その下に小字の久保と八成が存在していた。1963年 (昭和38年) から1969年 (昭和44年) にかけて行われた住居表示変更で現在の行政区となっている。小字の久保は正保町と名称が変更され、小字の八成はそのまま八成町となっている。それぞれは現在の井草一丁目と二丁目になっている。

江戸時代の小名 八成には所沢道の街道が走っており、明治時代の民家分布図ではこの街道沿いに集落が伸びている。1925年 (大正14年) から1935年 (昭和10年) にかけて井荻村土地区画整理事業がなされ、その間に1927年 (昭和2年) には西武池袋線に井荻駅と下井草駅が開業している。戦前までは大きな民家分布の拡大はそれ程大きくない。拡大するのは戦後で、西武池袋線のある南部から住宅地が拡大していき、昔の農地は急速に消えていき、現在は地域全土が住宅街になっている。

史跡は江戸時代に街道だった所沢道沿いに集中している。この八成には仏教寺院が存在しないことは少し気になった。前回巡った練馬区ではほとんどの江戸時代の村には寺があったのとは異なっている。この背景は何があるのだろう。



八成町 (旧小字 八成) [現 井草二丁目]

1889年 (明治22年) に下井草村が他の四つの村と合併し井荻村になった際に、八成は二つの行政区に分かれている。その一つが八成本村があった小字 八成で、その後、八成町となっている。現在の井草2丁目に該当し、杉並区の最北にあり、練馬区に隣接している。

八成町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 稲荷大明神、猿田彦神社
  • 庚申塔: 72番、68番
  • 馬頭観音: 未登録、68番、70番
  • 地蔵尊: 69番
  • その他: 供養塔 (73番)、道標、弘法大師像 (71番)


稲荷大明神

練馬区から杉並区に入った所の畑の片隅に祠があり、稲荷大明神を祀っている。資料にはこの神社は出てこないので、ここに住んでいた家の屋敷神のように思える。


カトリック下井草教会

道を西に進むと教会の塔が見えてきた。カトリック下井草教会になる。戦後、1948年にカトリックサレジオ会が、1949年に高円寺教会から新たな教会を独立させ、この下井草に東京教区の18番目の小教区として下井草教会が設立されている。当時は帝都育英学院の付属聖堂を使用していたが、手狭になり、1956年に新聖堂が建設された。創立当初72名だった信者は2021年末には2,308人に増えている。このサレジオ会では過去に神父がスチワーデス殺人事件の容疑者とされた (迷宮入) 事件や、幼児性虐待、麻薬取引による資金調達などの噂など芳しくない事象があった。真偽の程は定かではない。


猿田彦神社、庚申塔 (72番)、供養塔 (73番)、馬頭観音 (未登録)、道標

カトリック教会の西に下井草駅に向かう道路が通っている。この道は、旧早稲田通りにあたり、中世には数多くあった鎌倉古道の一つで、江戸時代には所沢道と呼ばれた道になる。昭和初期までは、この辺りの地元住民は所沢道を遍路道とか石神道と呼んでいた。練馬区の長命寺 (東高野山) に参詣する道で、江戸時代から明治時代まではお遍路さんが通ったそうだ。この道沿いに祠が置かれていた。その敷地に入った所には、「猿田彦神社」とある。祠の中には、猿を描いた絵馬が掲げられているが、神社の体裁ではなく、庚申塔と供養塔が置かれている。この猿田彦神社に関しては、ここに置かれている案内板にも触れられておらず、インターネットでも情報は見つからなかった。「申 (さる)」という事から、庚申信仰と猿田彦信仰が融合しているケースもあるので、猿田彦神社とも呼ばれたのかも知れない。杉並区には幾つかの猿田彦神社があり、後日、幾つかの猿田彦神社を見ることになった。

祠内には八成地域の人々によって悪夜退散、村内安全等を祈願して1741年 (寛保元年) 造立の庚申塔 (72番) と1793年 (寛政5年) 造立の念仏供養塔 (73番) が置かれている。向かって右の駒形庚申塔には月日とニ鶏、邪鬼を踏みつけた六臂の青面金剛立像とその下に三猿が浮き彫りされ、「右 たなか道」「左志やくじ道」と道しるべを兼ねている。「志やくじ道」とあるので、この道は石神道と呼ばれていた事がわかる。角柱の念仏供養塔には「स (サ) 天下大平」、「ह्रीः (キリーク) 念佛供養塔現當為二世安樂」、「सः (サク) 国土安全」と刻まれ、これも「右 新高野へのミち」「左 中野へのミち」と刻まれ、近隣の田中村、石神井村、中野村などへの道標の役も果たしていた。元々はこの所沢道沿いにあったのを、後にこの祠に安置したのだろう。八成は中野~阿佐谷~石神井~保谷~所沢を結ぶ所沢道の道筋にあたり、この場所はかつての所沢道と府内十七番札所東高野山長命寺 (新高野) への巡礼道の交差点で、往来の人も多く、近くには茶屋もあったという。祠の横には角柱文字型馬頭観音の石塔 (右上、下右から二つ目) が置かれている。資料には掲載されていないのだが、側面には皇紀2600年と刻まれているので、1940年 (昭和15年) の皇紀2600年記念で造立されたもの。祠の前の道には造立年不詳の道標を刻んだ石塔 (右下) が置かれている。文字は摩耗して全ては判読不能だが、□命寺道 (長命寺道だろう) と読める。


右長命寺道 道しるべ (2024年4月7日 訪問)

地蔵堂の前の道の長命寺道の北側、練馬区との境になっている千川通り (旧千川上水) に交わった所に、江戸時代には「右長命寺道」と刻まれた道標が建てられていた。この場所は高野台の長命寺方面と江古田、落合方面との岐路を示している。ここには、かつて千川上水が流れており、三兵橋が架かっていました。その傍らに東を向いて立てられていた。現在は少し東側に移設されている。その様子が戦前に撮られた写真 (写真左下) で垣間見ることができる。


地蔵堂、馬頭観音像 (68番)、地蔵尊 (69番)、馬頭観音 (70番)、弘法大師像 (71番)

所沢道 (遍路道、長命寺道) を下井草駅にむかって進むと道沿いに地蔵堂が置かれて幾つかの三つの石像と角柱が一つ安置されている。それぞれには魔除けの赤の前掛けがつけられている。右手前は1776年 (安永5年) に造立された舟形塔に馬頭観音立像 (68番) が浮き彫りされ、「これより左江戸道」と道しるべを兼ねている。真ん中は蓮台の上に光背を伴った丸彫の地蔵尊 (69番) で、元々は1717年 (享保2年) に八成講中により造立され、1876年 (明治9年) に再建したものになる。馬頭観音像 (68番) との間にあるのも地蔵尊で造立年代は不詳だが、以前の写真では頭部が欠損しているので、頭部は新しく作りつないだのだろう。地蔵尊 (69番) の左側には隅丸角柱があり、赤の前掛けをめくると馬頭観音 (70番) と刻まれ、「右石神井」と道しるべにもなっている。これは1625年 (寛永2年) に造立されたもの。

地蔵堂の隣には角柱が二つ置かれている。弘法大師 (71番) と刻まれ、側面は道しるべになっている。摩耗してよく読めないのだが、一つには「右しゃくじい道」、もう一つには「左福蔵院」とある。ここからは東の中野区鷺宮の福蔵院への道を示しているのだろう。


稲荷山 (とうかやま) (2024年4月7日 訪問)

長命寺道の西、小名八成の北東には戦前まで稲荷山 (とうかやま) と呼ばれる所があった。ここには稲荷があった (現在では見当たらない) とも狐が多かった事から、こう呼ばれたとも、太田道灌がこの地に来た事から道灌山とも呼ばれていたのが訛ったという説がある。大正時代に山は削られて樹木が伐採され畑となり、現在では山も畑の面影は消え失せて住宅街となっている。


狢畑 (むじなばた)、大墓  (2024年4月7日 訪問)

稲荷山のすぐ南側は戦前まで狢畑 (むじなばた) と呼ばれていた。稲荷山と同じく、かつては樹木で覆われて、狸の棲家になっていたのだろう。その隣は大墓と呼ばれた共同墓地がある。現在でも残っている。


正保町 (しょうほちょう 旧小字 久保) [現 井草一丁目]

かつてのは小名の八成 (大字 八成) が二つに分離した際に小字 久保となっている。窪地だったことからこの様に呼ばれていたそうだ。その後、1889年 (明治22年) に正保町と町名変更がされている。現在の井草1丁目に相当する。

正保町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 井草観音堂
  • 神社: 正保稲荷神社
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵尊: 66番
  • その他: 如意輪観音 (67番)


正保稲荷神社

所沢道を進み、下井草駅の北、所沢道から少し東に入った所に神社がある。初午に甘酒を参拝者へふるまったので甘酒稲荷と呼ばれていたが、昭和7年に正保町となった際に正保稲荷と名付けられている。ここはかつての小字 正保で更に遡ると久保と呼ばれた。この久保村の鎮守にあたるのだろう。祠は井草稲荷講中の人々によって建造されたという。1721年 (享保6年) に再建された事が棟札によって分かる。再建というので、この年以前から祀られていたのだろう。祠の前に置かれた狐像の側に、小さな狐像が無造作に置かれている。多分、先代の狐像だろう。


井草観音堂、地蔵菩薩 (66番)、如意輪観音 (67番)

下井草駅のすぐ北に井草観音堂がある。井草観音堂は、江戸初期にこの地の農民によって建立されたといわれ、「久保の観音様」とも呼ばれている。正保町と呼ばれる前は小字の久保で、この辺りは今川氏の所領だった。現在のお堂は、1981年 (昭和56年) に改築されたもの。

堂の中には、ともに1667年 (寛文7年) 造立の舟形石塔に浮き彫りされた如意輪観音座像 (67番 井草観音) と舟形石塔に浮き彫りされた地蔵菩薩立像 (66番) が納められている。区内現存の石塔の中ではかなり古い年代の石造物になる。観音像には御詠歌と女性の名前が刻まれており、女性の供養塔と思われる。地蔵菩薩像は下井草村字久保と小字向井草の十六軒の農家が講中を作って造立したといわれており、地元では「子育て地蔵」と呼ばれ、観音様とともに幼児の虫封じ・歯痛・夜泣きにご利益があるとされている。日露戦争のあった1904 ~ 1905年 (明治37 ~ 38年) 頃、 付近一帯に疫病が大流行し、村中で「観音様」と「お地蔵様」の供養をしたところ、次第に病気が治って一層信仰が盛んになった伝わっている。昭和初期までは念仏講も行われ、双盤と呼ばれる大きな鉦をたたいて講中の家々を供養してまわった後、この観音堂で「百万遍のお数珠」とよばれる大きな数珠を廻しながら念仏供養をすることが習わしあったといわれている。


正保公園

井草観音堂の北、井草一丁目交差点近くに正保公園がある。正保の名が残っている。


寝た屋敷 (ねたやしき) (2024年4月7日 訪問)

正保公園の南側は大正期までは寝た屋敷 (ねたやしき) と呼ばれており、江戸時代後期に屋敷があり、当主が寝たきりの病人で絶家してしまった。その後、屋敷跡は畑となり、この地域では寝た屋敷と呼ぶようになったという。現在では畑は消え失せて住宅地となっている。


さくら公園 (2024年4月7日 訪問)

寝た屋敷跡のすぐ西側にさくら公園がある。小さな公園だが、その名のごとく、公園内には公園を覆うかの様に桜が咲いていた。


狐山 (きつねやま) / 下久保山 (したくぼやま) (2024年4月7日 訪問)

寝た屋敷跡の東には明治時代まで狐山と呼ばれ、大正時代には下久保山と呼ばれた場所だった。狐が多く棲息していた事から、つけられた名だそうだ。ここも今では、かつての面影はなく、住宅地と変わってしまった。



下井草村 小名八成 訪問ログ



これで、江戸時代の小名の八成巡りは終了し、次は小名の沓掛に移動する。



参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪(1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪(1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)