安正寺由緒書きの現代語訳
2023年9月2日に行われた安城市の文化財調査で見つかった『安正寺の由緒書き』を現代語訳していただき、先日安正寺へ届きました。
そこには、簡単に言うと、
・安正寺が長円寺という名前のお寺であったこと。
・中興開基である圓蔵の父(正因)が他力本願の教えに感動し、25歳の2月28日に野寺の本證寺の弟子となり、34歳で廃寺していた長円寺(安正寺の前の名前)を復活させたこと。
・正因が53歳の4月6日に亡くなり、圓蔵が長円寺を継いだこと。
・当時三河の治安が悪く、弟の正西を藤井の長円寺へ残し、静岡の西側へご本尊を安置するために移動し、そこでも仏法を広め、長円寺を開いたこと。
が書かれていることがわかりました。
んん?
25歳の2月28日!!??
今日、この今の私ではありませんか!
4月6日??
今私が一生懸命になって企画準備をしている安正寺初イベント『参ってら』の開催日ではありませんか!
と、何か不思議な縁を感じました。
また、正因さんが私と同い年の今、どんな思いで仏道を歩む決意をしたのか。私はそれを感じられているのか。
今日一日中、考えさせられるものでした。
ただ今までの私は昔のことを歴史の物語だと感じて見てしまっていましたが、この毛筆の字で見ることで、実際に過去に生きている人の日常を伝えてくれているお手紙に感じました。
また、この文章は、せっかくですので、下記に公開します。
なお、ご多忙な中、この現代語訳をしていただいた山本裕子様。
本当にありがとうございました。
安正寺を継いでいく私にとって、とても考えさせられるお手紙でした。
4月6日のイベントの日が、より大切なものになり、正因さんの想いを引き継ぐ、より良いイベントにできるよう引き続き頑張っていきます。
釈尼恵信(19代目住職の孫)
【由緒書の現代語訳】
藤井山安正寺の由来
そもそも、当寺の中興開基は正西といい、その俗姓は、もったいなくも宇多天皇(平安時代前期の天皇。在位八八七~八九七)から九代下った子孫で、近江源氏の嫡流である佐
々木四郎高綱」の一族である松下嘉兵衛源綱憲の跡継ぎの子、つまり松下圓平網親と名乗った人物(正西の父正因)に由来する。
父正因の生涯を遡ってみると、圓平(正因の通称)は幼い頃、遠江浜松の御城あたりの頭
陀村籏屋敷という所に主家を離れて居住していた。常々、浪人の身を深く嘆き、まだ年端もいかない頃であったが、昼夜武芸に励み心神を鍛えていた。
一度、馬に乗ってみる事を思い立ち、二十一歳の時、三河国までやって来て、ここかしことめぐっている内に、はからずも野寺本証寺に至った。この地に宿縁があったのであろう。ここに何日も留まって、多くの法話を聴聞する内に、ついに本證寺の門徒になった。
「三界無安猶如火宅」の教えを固く信じ、穢れた現世をいとい、つくづく思ふ事は、誠にこの世は頼み少ない有様であるし、自分には何の功績もないので、たとえ今の世で武功をあげても、そのような栄耀栄華ははかないものであろうと。そういう思いに至ると、心中の雲はたちまちに晴れ、真如の月が明るく輝いた。それよりは自ら発起して、五年の間、不思義な因縁によって他力ということの深広であることを学び、誠に大悲の御本願はすべて我が身のための誓いであったことを悟った。その大きな歓びの中で、昼夜朝暮の御恩こそ最も深いものであることを悟り、御仏前で感動の涙を流し、懺悔した。そしてついに二十五歳の春二月二十八日、本證寺の如来の前で、太刀と穢れた衣を捨て、本證寺の弟子となり、松下圓平を改めて、法号を給り、釈正因と号したのだ。
常々本證寺に在し、毎日毎夜、仏祖の供養を営みながら、「根機相ノ本願」を喜んだ。
たまたま三河国碧海郡藤井の郷に藤井山長圓寺という精舎(寺)が有ったが大破して長く無
住となっていた。誠に梟(ふくろう)が境内の松や槙に宿っている有様で、御本尊と檀家は
共に本寺の預りとなっていたのだが、「汝(正因よ)、再び長圓寺を取り建て、永く導師となりなさい」と師から命じられ、すなわちかの地に至り、一字の坊舎を建立した。
つまり三十四歳の時に入院し、御法を教えることになったのだ。杉森何某(なにがし)の息女を坊守として迎え、二人の男子を設けた。兄を圓蔵といい、弟を正西と名付けた。
その後、圓蔵十八歳、正西十歳の夏、父の正因法師が行年五十三歳の時、元亀二辛未年(一五七一)四月六日、往生を遂げた。
藤井山に移ってから三十三年の日々であった。
後任は兄の圓蔵法師であったが、その頃の三河は平和ではなく、境界争いや所領を奪い合う族が多かった。このため、御本尊を安置し、身の安全を図るめにどうしたらよいかと思案する中、幼い年に聞いた父正因法師の物語をよくよく思い出してみると、祖父の生国
は遠江国頭陀村屋敷とかいう所である。
祖父の松下嘉兵衛尉網憲は、父正因の幼年の頃まで彼の地に主君を失ったまま居住していたが、その親類縁者の内には、主君を得て禄を喰む者も数家は有ったと聞いている。
しかし、幼年の頃だったので、詳しいことは覚えていないし、そのことを記した遺書も無い。
そうではあるが、三河と遠江の間は、山川を隔てるとはいえ、遠くではない。早速、遠江に立ち返り、頭陀村の親類縁者を訪ね、援助を頼んでみようと、舎弟の正西を藤井に残し、御本尊を守りたずさえ、二十一歳の春、三州藤井を出立した。
山にあっては木樵(きこり)老人に、里にあっては畑を耕している農夫に、道端で会う人毎に頭陀村旗屋敷への道を尋ねたけれども、はっきりと教えてくれる人はなかった。
昨日までは棟門が高くそびえていた住居も、今日は荒れ果ててその跡だにも残らないという有様だったのだ。
ああ、それにつけても誠に有り難いのは「大悲の御本願」であって、称名を絶えることなく唱えながら行き過ぎると、程なく天龍川の岸に着いた。
踏み損じたために足は残雪に濡れてしまったが、かまわず渡し船に飛び乗り、安々と向こう岸に上陸できた。それぞれが思い思いの場所へと行き別れ、行き過ぎる中に、身軽ないでたちの士(さむらい)がひとりいたが、この人は三州岡崎御城から高天神の城(今川氏の支城)へ向かう御使者だった。
この士と道連れになって、四方の山の風景を楽しみ、左右の民家を眺めながら旅した。 ふと、もしや我が故郷の頭陀村屋敷かと思う所を通ったが、それを問う人もなく、高天神城辺に至り、下土方村御所に旅寝した。
情の深い郷であったので、ここに草庵を結んだ。すると、この事を伝え聞き、御本尊の跡を慕って訪ねてくる人々があり、それは「杉森」「赤堀」「渡辺」の者たちで、師弟ともに安心してここに住んだ。
専ら阿弥陀如来の本願は、最下層の者を救う事であることを説いた。このため、出家の僧も谷人も門徒となり、大勢が群集して、佛法を弘めるという本意はここに成就した。
また、佛法を聴聞して御門葉となる人も少なくなかった。
そんな折、翌年の天正二年(一五七四)、武田の軍勢が押し寄せて高天神城を囲み、日夜合戦して止むことがなかった(武田勝頼と徳川家康の合戦)。
この難を避けるため、また同郡の東大谷観音平という所に草庵を移した。
高天神の城主小笠原興八郎が敗走の後、天正
四年(一五七六)丙子春、屋美隼人之助照重の息女が十八歳で圓蔵法師に嫁ぎ、坊守として、女子一人が誕生し、血脈が相続された。隼人介(助)照重は、娘が十二歳の時に既に病死しており、その後、母子もろ共に叔父の遅美源五郎方で養育されていたが、成長の後、坊守となったのだ。
母をも草庵に迎えとったが、天正十二年(一五八四)甲申正月八日、往生なさった。
すなわち、夫の照重の菩提所である天台宗葉玉院大光坊へ葬送し、帰梅窓清薫大姉と諡(おくりな)した。
天正元年(一五七三)癸西春に、園蔵法師が遠江国に来てから、あちこちに草庵を結び、居住すること五十年の長きに亘ったが、元和九年(一六二三)癸亥二月二十五日、享年七十歳で東大谷観音平の小院においてその本懐を遂げられた。
これが遠州の長円寺の開基である。
しかるに、この長円寺には三州家から武州浄顕寺の僧が入院して二代目を相続した。
しかしながら、観音平はもとは寂しい無人の郷里であったところを、佛法繁昌の霊場となったのは、誠に開基の圓蔵法師の心力の顕れである。
我が師は、その偉大な事を悟り、その由緒伝来を記した一軸を遺した。
謹んであらましを述べた一紙である。後世、はからずも開基円蔵法師の偉大さを忘れて誹謗するような事があってはならない。穴賢々々。
この伝来の一軸は、年を経て文字も紙も古くなり、破れてしまったため、別に写しを作った。その別由伝の一巻は深い箱の中に納めてある。幸運にもこれを読む人は、墨や筆跡が新しいからといって、疑ってはならない。
本証寺拾代経法輪院空誓上人
開基
弟子 尺正目
円蔵
二代目遠江国下土市村へ移り、又
同国東大谷東観音平北院開基
三代目東観音平ョリ横須賀二移転シ藤井山ヲ
改めて庭松山長円寺ト号ス。