遺骨収容をする理由と硫黄島遺骨収容活動の体験談② 大西統括より
2024.02.29 00:47
【硫黄島戦史】
マリアナ諸島失陥後の硫黄島は、戦略的に大きな意味を持っていた。日本とマリアナ諸島のちょうど中間地点にある硫黄島は、未だ数千機の航空機を持っている日本軍と戦うには、空母以外の基地としての硫黄島が有効であるとした。また、マリアナから向うBー29の非常用の基地となりBー29の援護をするためのPー51戦闘機の基地にもなる。日本軍側がBー29の編隊を発見し、本土への警報を送るための対空監視所として使わせないという効果も含まれている。
昭和二十年二月十九日、米軍が硫黄島に上陸する。これは猛烈な艦砲射撃と空爆の後に開始された。十六日に〜十九日までの米軍の艦砲射撃と空爆により、日本軍守備隊、特に南。中及び摺鉢山各地区隊の地上の主火砲弾陣施設は多大な被害を受けた。三月に入ると敵中に孤立した日本軍の玉砕が相次いだ。三月七日、玉名山守備隊がバンザイ突撃を行った。十六日までに米軍は硫黄島を完全占拠したと宣言。三月十四日、日本軍は軍旗を奉焼。十五日栗林中将が合流。最後の総攻撃に備える。三月二十六日、西部落南方の米海兵隊及び陸軍航空隊の露営地を奇襲攻撃。米兵約百七十名を殺傷する戦果をあげる。引き続き元山・千鳥飛行場に突撃したが、死傷者も続出、玉砕した。これにより硫黄島の組織的攻戦闘は終了した。
硫黄島の戦闘における米軍の戦死傷者二万八千名、日本軍戦死傷者が二万千六百名に及ぶ激戦であった。