パリ組曲㉖ 帰国 2018.11.11 09:02 彼は、エッフェル塔近くのカフェに入り、テラス席に腰を下ろした。その傍らにはスーツケース。ホテルはすでにチェックアウトした。 交差点の角にあるカフェだったが、新年のためか車通りは少なく、落ち着ける雰囲気であった。赤い椅子が印象的であり、引き寄せられるように彼はそこに足を踏み入れた。 「ボンジュー、ムシュー」 ギャルソンがそこにオーダーを取りに来る。 「アン カフェ シィルブプレ」 コーヒーを一つお願いします、という唯一覚えたフランス語の文とジェスチャーで彼は注文をした。 「食事は何か?」 ギャルソンは谷川青年の発音からしてフランス語がまったくできないと思ったのだろう、今度は英語でそう聞いてくる。 「コーヒーだけでいいです。ありがとう。」 客席は数多くあったが座っているのは数人のみで、新聞を読んでいる老人や遅めの朝食なのか、早めの昼食なのか、年配夫婦が食事にありついている。 今頃きっと、ミヒャンは空港へ着いてチェックインを済ませ、搭乗口に着いた頃だろう。 彼にはもう目の前にはいない幻をそこに描くしか術がなかった。 ギャルソンがコーヒーを運んできた。 パリではコーヒーはエスプレッソ。口に含むと苦味が広がった。その味がまるでこの6日間の出来事のようで、カップを何度も口に運ぶたびに、思い出が広がり、彼の両目からは一粒ずつ涙が溢れていった。 カフェを後にして、彼はエッフェル塔まで向かうことにした。袂の公園は冬のため木々の緑はないが、観光客や観光客を相手に物売りをする黒人たち、あるいは地元の人々なのかランニングをしている姿があった。 昼間にこうして目の前にする塔の鉄骨は武骨で荒々しく、しかし優雅に空に向かって伸びている。東京とは違い、高い建造物のないパリではエッフェル塔は一際目立ち、建設から時を経た今でもパリの象徴でありことが納得できる。 ベンチに腰を掛けていると黒人の物売りがエッフェル塔の置物を手にジャラジャラと持って近づいて来る。しかしジェスチャーで、いらないよ、とするだけで去っていく。あれも誰かがきっと買うのだろう。彼らはあれだけで生計を立てているのだろうか。谷川は猫背で去っていく黒人男性のその背中にそんな疑問を見ていた。 その先にそびえるエッフェル塔。彼はたった数日前にこの上に昇った。 それがひどく懐かしく感じるのはどうしてなのか、どうしてなんだろう、と考えるほどに、自分がここにひとり残された気になってくる。 どうしてミヒャンを一人で行かせてしまったのか。ひとりで行きます、と言ったのは彼女だった。自分だけこうして時間を持て余し、途方に暮れたようにパリを歩くだけだあと彼は知っていたはずだった。けれども、一緒に行ってはいけないという考えが彼の脳裏にぽつりと一滴落ちたことも事実であった。 世界的に有名なパリ。そしてエッフェル塔。好きなって何度も訪れる人も多いという。 谷川は同じ海外の都市に訪れたことはない。目的が観光である以上、二度目に訪れようとは思わないのが彼の性格だった。唯一、訪れた場所はカンボジアのシェムリアップ。学生の頃、ボランティアで村を訪れたのだ。またその時に観光もほとんどできなかったことも理由のひとつだった。その時の記憶を辿って旅にでかけた。 パリはどうだろうか、と彼は考えた。記憶を辿ってくることなどあるだろうか。もう一度観光に来ることはあるだろうか。 できればもっと長く、一ヶ月とかそれくらいかけて歩いてみたいと思う街だ。 彼は海外に住んでみたいという漠然とした気持ちを持ち続けてきたが、それならばパリは良いかもしれないと考えた。 毎日、どこからもこのエッフェル塔を眺められ、美術館に囲まれ、日本と同じように四季がある。 ただちょっと物価が高いな、と彼は苦笑いをエッフェル塔に向けた。住むという願望を打ち消すように、そろそろ行かなければ、と彼は立ち上がり鉄骨の塔に背を向けた。 空港行きのバスに乗るために、オペラ座駅へと地下鉄を乗り継ぐ。地上へ出ると、オペラガルニエの前でどこかの管楽器演奏チームが路上ライブを行い、ロック調の音楽を響かせている。 彼はその迫力にしばし聞き入った。楽器のケースを開けているのはチップを求めているということ。彼は、1ユーロを取り出してそこに放る。 オペラ座裏手にあるバス停へ向かうとすでに列ができていた。まもなくバスが来るのだろう。日本人もそこに数人いるようだった。最後尾に並ぶと背後に日本人の夫婦がすぐに並び話しかけられる。 「日本の方ですか?」 年配夫婦の不安そうな色が見て取れた どうしてだろう、谷川は海外で日本人に声をかけられやすい。温厚な見た目だからだろうか。 「あの、この空港行きのバスのチケットはもうお持ちですか? その券売機はカードしか使えないんですが、私たちのカードはなぜか使えなくて。」 「それなら大丈夫ですよ。バスの車内で運転手から買えます。私はそのつもりでしたので。」 谷川がそう伝えると夫婦の表情が明るくなった。 「そうですか。よかった。乗れないと飛行機にね、遅れてしまうので、ああ、良かった。」 夫婦はそう言って笑顔を見合わせた。 海外一人旅での武器は知識と判断。それを身につけるために、彼は何時間もの時間を費やして情報を詰め込む。それが同じ日本人のお役に立てることは彼にとって喜ばしいことだった。 そういえばミヒャンにもそうだった。彼女がスリや危険な目に合わずに空港へもどせただけでも彼は役割を果たせたような気がした。 バスが到着し、入り口で運転手の料金を支払う。空港バスのためどの客も大きなスーツケースを持っていたが、二両連結型のバスであり、また乗客も多くはなかったため、自由に座ることができた。 パリで乗る、最初で最後のバス。 最終日であったが、街並みを観ながらバスに揺られていると彼は観光気分になった。 50分ほどでシャルル・ド・ゴール国際空港のターミナル2Eに到着。遅延はどうやらないようだった。 離陸までの2時間を空港内の免税店などを見て過ごし、彼は成田行きエアフランス便に搭乗。その17時間後に彼は日本へ無事に帰国した。パリの旅の終わりをむかえる。 アライバルホールへ出るといつもながら、名前の書かれた紙を持って立っている方々が何人もいる。 彼は無意識にそこに、ミヒャンの姿を探してしまう。 けれど、いるはずもない。彼女はすでに国内線に乗っているはずだ。 パリでは滞在中、ほとんどが曇りか小雨であったがその日の日本の空は快晴であった。 彼はデッキへ移動し、自分の帰国と交代で離陸していく飛行機を家族連れらと共に眺めた。 小さな子どもたち、それに孫を連れたおじいちゃんやおばあちゃんたちも一緒になって声を上げ、轟音と共に離陸していく飛行機を眼に写していた。 空港の快晴の空はまるでそこが海原かのように青く光っていて、そこに飛び立った小さな航空機はまるで水槽の熱帯魚のように可愛くきらびやかに浮かんでいた。 タニガワさん。 不意にミヒャンの声が聞こえた気がした。 それは人混みの中でも、雑踏の中でもちゃんと聞くことができる、すでに脳裏に焼き付いた声となって耳の奥でもう一度響いた。 了