ブレックファスト・ダンス・アンド・バーベキュー
(1)
その人の話を僕が初めて聞いたのは、きゅっと肌を刺してくる寒さがほんの少し弛んで、晴れた日の陽だまりが暖かく感じられるようになってきた頃だった。桜はまだ咲いていなかった。
「来週から康史さんの家に、お孫さんが住むんだって」と、カウンターの端の席で容子さんが言った。彼女の手元にある、ジョーさんが淹れたばかりのコーヒーからは白い湯気がふわふわと立っていた。
「お孫さんって、康史さん、昔ちょっとだけ一緒に住んでたよな? うちにも来てくれたことあるぜ。制服着てたから、高校生くらいだったかな」
容子さんしかお客さんがいない店内で、ジョーさんはカウンターの中に置いてある彼専用の木製椅子に気楽そうにどっかり座って、思い出すようにそう言った。僕はあんまり意味もなくコーヒーカップをのろのろと磨きながら、二人の会話に耳を傾けていた。
「そうそう。ちょうど十年か、それくらい前じゃないかな。娘さんが亡くなったとき、お孫さんがひとりになっちゃったから引き取って一緒に住んでたのよ。その子が大学を出るくらいまではいたと思うわ」
康史さんのことは知っていた。三十年も前にジョーさんがこの喫茶店を開いた頃からの常連だったそうで、僕が高校生になってアルバイトを始めた初日に挨拶した。以来、僕がシフトに入るとほとんど毎回どこかのタイミングで彼は店に来ていた。歳の割にしゃんとしていて元気なおじいちゃんだったのに、たしか去年のちょうど今頃の時期、突然ジョーさんから「大変だよ、楓。康史さん亡くなったって」と聞かされた。心筋梗塞だったか、よくわからないけれどそういう系の何かで倒れてそのままポックリ逝ってしまったらしい。友達の多い人で、その日も茶飲み仲間と会う約束をしていたのだけれど、いつまで経っても康史さんが現れないのを不審に思った仲間が家を訪ねたときには手遅れだったそうだ。僕もジョーさんに連れられてお通夜に行ったけれど、集まった康史さんの家族や友人たちは「ほんとに面白いジジイだったよねえ」と笑っていて、人がひとり亡くなったとは思えないほど明るい雰囲気だったのをよく覚えている。
「てことは、あの子が康史さんちを相続したってこと? 独身だって聞いてたけど、まさか一人で住むの?」
「そのまさかなのよ。東京で若い女の子が一戸建に一人暮らしでしょ。なんだか危ない感じがするんだけどね、ほら、強盗とか空き巣とかストーカーとかさ。知らない仲じゃないから、あたしも気にかけてあげようと思って」
「そうしてあげなよ。今度うちにも連れてきてよ」
「あ、そうそう。ここのこと教えてあげたら、彼女もきっと作業場にちょうどいいんじゃないかしら」
容子さんの言葉にジョーさんが「ああ、そうだねえ」とのんびり頷いた。僕はサギョウバ? と思って首を傾げ、つい口を挟んだ。
「その人、喫茶店で作業するような仕事をしてるんですか?」
「作家なのよ。小説を書いてるの。雪村海季っていうペンネームでね」
僕はその人の本を読んだことがなかったけれど、いつか本屋でその名前を見たことがあると思った。ユキムラカイリ、という音にそれぞれどの漢字を当てるのか、そのとき僕の頭の中にすぐ浮かんできたから。
そんな会話があった後しばらくして桜が咲き、あるとき容子さんと一緒に僕の見知らぬ女性が連れ立って「ゆずり葉」にやって来た。その女性を見てすぐに僕は、あのとき容子さんとジョーさんが話してた人かな、と直感した。飾り気の無い人だった。どちらかと言うと男っぽいはっきりした顔立ちで、黒い髪を後ろでまとめて大きめのヘアクリップで留めていた。緑の無地のニットに細いジーパンを履いて、靴は踵のないブーツだった。
「いらっしゃい、あっ。イオリちゃんだろ? すっかり大人になったなぁ」
ジョーさんが嬉しそうな声を上げ、イオリちゃんと呼ばれたその人は口角を上げるだけでクールに笑うと、「ご無沙汰してます。祖父が生前お世話になりました」と言って頭を下げた。その綺麗なお辞儀を見たとき、僕はその人を康史さんのお通夜で見たことを不意に思い出した。
ふたりはカウンター席に並んで座り、コーヒーひとつずつとミックスサンドとピーナッツバターサンドを注文した。ジョーさんがコーヒーを淹れる間、僕は食パンを切ってサンドウィッチの準備をする。ジョーさんは注文を受けてから一杯ずつハンドドリップでコーヒーを淹れる。僕も彼に教わって練習していて、最初の頃よりずっと上手くなったと思うけれど、ジョーさん曰く「まだ客には出せない」とのことで、一度も僕のコーヒーでお金を取らせては貰えていない。
「イオリちゃん、どうよ、高円寺は。康史さんち、古いんじゃないの。困ってること無いか?」
コーヒーの粉に先の細いケトルから丁寧にお湯を注ぎ、視線は手元に落としたままジョーさんが尋ねた。
「お陰様で割と順調です。古いは古いですけど、昔住んでた家なので。祖父が亡くなってしばらく放って置かれてたから、ちょっと汚れてはいましたけど。でも容子さんも掃除を手伝ってくださって」
「前はどこに住んでたんだっけ」
「小岩のほうです。でも仕事柄、住む場所は割と自由が利くから」
「ああ、そっか、そうだよなあ。どうなの、仕事。調子良いの」
「お陰様で、なんとか。去年までは会社勤めもしてたんですけど、退職して」
今はこれいっぽんで、と小さく肩をすくめて、彼女は両手でパソコンのキーボードを打つような手振りをした。そうかぁ、すごいなぁと間伸びした調子で頷くジョーさんを横目に、僕は少し躊躇ってしまって吃りそうになりながら「あのっ」と声を上げた。
「僕、その……あなたの本、読みました。っていうか、ちょっと前にジョーさんと容子さんが話してるの聞いて、あ、それまでは読んだことなかったんですけど、作家の人って聞いて、気になっちゃって」
言い訳のようにしどろもどろと付け加えてしまってから、しまった、後半は余計だったかな、と後悔した。でもあたかも前からファンだったかのように言うのも違うと思うし、どう言うのが良かったんだろう。イオリさんはちょっとびっくりしたように目をぱっちりと開けて瞬きをして、僕を見つめた。
「それでわざわざ読んでくれたんですか。それはまた……ありがとうございます。ちなみに、あの……どれを?」
「えっと、『海の藻屑と消えたい』を」
僕が答えると、イオリさんは小さく吹き出して眉尻を下げた。
「よりによって特に暗いやつを。なんだか逆に申し訳ないです」
「暗いんだよねぇ、イオリちゃんの本。俺も康史さんが生きてた頃さ、孫の本が孫の本がって言うから一冊読んだんだけどね、何だっけあの……山椒の木、みたいな」
「ああ、『山椒の木と暮らした』」
「そう、それ。若い女の子なのに随分暗い本を書くんだなぁって俺びっくりしちゃって。いや、すごく面白いんだけどさ」
「恐縮です。暗い女なので」
「そうかなぁ? あたしはそうは思わないけど」
イオリさんが苦笑いして言うと、容子さんが口を挟んだ。
「暗いって感じじゃないわよ。確かに愛嬌があるタイプではないけど、賢いし礼儀もあるし、無口ってわけでもないじゃない」
そうだよねぇ、と相槌を打つジョーさんの正面で、イオリさんが困ったように曖昧に笑っているのを見た。ジョーさんがハイお待ち、とコーヒーを先にイオリさんの前に置いて、彼女はそれを隣の容子さんに譲ろうとしたけれど、容子さんは「久しぶりにこの店に来たんでしょ」と断った。イオリさんはジョーさんの深煎りのコーヒーを一口飲むと、思わずポッと出たような飾らない調子で「おいしい」と呟いた。
雪村海季の『海の藻屑と消えたい』は、小さな離島の町に住む二人の青年が共謀して殺人を犯してしまうというサスペンスだった。内面の孤独を抱えていた二人は生まれて初めて他人と解り合えたと感じて深い心の繋がりを得るけれど、それがだんだん取り返しのつかない事態を招いてしまう。ジョーさんと容子さんがしきりに喋るものだから感想をうまく伝え損ねてしまったけど、僕はその小説を読んだとき、たとえば雪村海季が射った矢が僕の胸に突き刺さったような、有り体に言えば心に濃く残って、あわよくばこれを書いた人のことをもう少し知りたいような気がしたのだ。
始業式で校長先生やら学年主任やら生活指導主任やらの長い話を散々聞いて教室に戻ったあとも担任はなかなか来ず、僕は文庫本のページをめくっていた。クラスメイトたちは好き勝手に立ち歩いたり後ろのほうでたむろしたり、ざわざわしている。まだ新しい教室の新しい席は決まっていないから、黒板には出席番号順の仮の座席表が貼ってあって、岡辺の「お」の僕は廊下側の後ろの席に着いた。
「オカヤン、何読んでんの」
すぐ横に立った気配に頭の上から声を掛けられて、ぱっと見上げた。机の端に片手を置いて、身体を折り曲げるように屈みながら覗き込んでくる。黄色の英字でロゴが入った、緑色のパーカーが目に鮮やかだった。そっか、この人も私大文系組なのか、と彼の顔を久しぶりに見て僕は思った。
「これ読み方、さんしょう、で合ってる?」
「そうだよ。文国でやったじゃん、鴎外の山椒太夫」
「そうだっけ。覚えてない。これはどういう本?」
「んー、ミステリー? サスペンス? みたいな」
「ふぅん。怖いの?」
「怖……くは、ないかな。せっとん、怖いの苦手?」
尋ねると、せっとんは目を逸らして複雑そうな、不満気な顔で渋々と「あんま得意では、ないかも」とぼやいた。
「そういえば、夢十夜も怖いって言ってたもんね」
「うん、怖ぇよ、あれ。だって俺、オカヤンに本返したあと夢に見たもん。数Bの倉田がさ、体育館の隅で木彫りの仏像彫ってる夢。センセー何してるんですかって俺が話しかけても全然反応しなくて、すげー顔でずーっとがりがり彫ってんの。めちゃくちゃ怖かった」
僕は倉田先生がクシャクシャに乱れた髪と鬼のような形相で、木の塊に鑿を突き立てているところを想像して笑ってしまって、「何で倉田先生?」とツッコミを入れた。
「ていうか、そこなの? 他にも怖そうなところあると思うけど」
「他も怖いとこあったよ。でも俺的に、なんかあの仏像の話が一番ゾッとしたんだよな」
そっかぁ、怖いと思うポイントは人それぞれだよね。と相槌を打ちながら僕は心の中で、いつも堂々と、または飄々としているせっとんが怖がりなのは意外な感じがした。去年の春にインターハイ前の男子バスケ東京都予選があったとき、暇だったらおいでよと彼に言われて二回戦の試合を観に行ったことを思い出した。スタメンで出ていたせっとんは相手チームのやたら大きくてムキムキの人とマッチアップしても軽々と抜いたりしていて、野生の鹿みたいに楽しそうにコートを走り回っていた。僕からしたらああいう状況のほうがよっぽど怖くないのかな、なんて思ってしまう。
「オカヤンさ、今日カラオケ行かね?」
「え。僕?」
「そう言ってるじゃん。てっちゃんとノグチと、あとバスケ部の川嶋もいるんだけど」
「なんで僕?」
「なんとなく、オカヤンいてほしーなって思って。やだ?」
「や、ではないけど……僕、今日バイトなんだよね」
「あ、そなんだ。了解。じゃあまた今度行こうね」
あっさりとそう言ってちょっと笑った彼は、不意に教室の前側の方から女子に高い声で「瀬戸ォ〜」と呼ばれて「はぁーいよ」とのんびり返事をしたけれど、去り際にもう一度こちらを向いて小さく手を振った。
(2)
段ボールを片っ端から開封して、仕事用のパソコンは勿論、洋服から鍋から皿からクイックルワイパーに化粧道具まで小物もすべて相応しい場所に配置して、潰した箱を業者に回収して貰っても尚、じいちゃんの家は私ひとりで住むには広くて空間が余った。かと言って誰か他人を住まわせようという気もさらさら無く、まあそのうち慣れるだろうと思いながら缶ビールを開けて思いきり呷った。
箱を一個片付けては休んで、二個片付けてはまた休み、寝て起きて仕事をして酒を飲んで寝て、翌日になってまた一個片付けて、という調子でだらだらと荷解きをしていたものだから、取り敢えずの完成形に至るまでに時間がかかりすぎてしまった。段ボールと共に寝起きするのにはもううんざりしていたので、やっと家から消えてくれて清々した。
去年じいちゃんが亡くなって、葬儀やら諸々の手続きやらが何とか済んで落ち着いた頃、新卒から勤めていた会社を辞めた。入社二年目の年にエンタメ小説の新人賞を受賞して以来、フルタイム会社員と作家の二足の草鞋でやっていたけれど、控えめに言っても時間と体力が常に枯渇して苦しかったので、文筆の仕事だけで食べていけそうな程度に軌道に乗ったら会社は辞めようと元より考えていた。
週に五日、日に九時間だか十時間の賃労働を辞めて、そのぶん書くことに費やせるならさぞかし捻り出せる文字数も増えるだろうと楽観的に思っていたのだが、そう単純な話でもなかった。毎朝出勤する必要もなく、ただ原稿の締切だけが決まっていてそこまでのスケジュールはすべて自由というのは、以前の生活と違いすぎた。家事と執筆で日々を繰り返すリズムを掴むのに数ヶ月かかって、ようやく物事のこなし方がわかってきたのはつい最近の話だった。
外はもう薄暗かった。開いた窓から流れ込んで来る空気は生温く、何処からか焼いた魚と何かの花とが混ざったような奇妙な匂いが漂っていた。ふと、そういえばあの銭湯はどうなっているだろうと、透き通るように晴れた水色の空の下にくっきりと座す鮮やかな峰のことを思い出した。
壁に富士山の絵が描かれている銭湯が東京に今どれくらい残っているのか判らないが、十年前じいちゃんに連れられて初めて訪れたその純和風の建物は、以前の姿のまま佇んでいた。番台に料金を払って、女湯の脱衣所に入る。ロビーを横目で見たときから感じたけれど、記憶よりも少し客層が若返ったような雰囲気に見えた。浴場は清潔で明るく、富士山もきちんとそこにあった。
熱めの湯に浸かると、肩まわりの筋肉がじわりと緩んで意図せず唇から長い息が漏れた。
じいちゃんとふたりで暮らしていた頃、彼はときどき私に「織、小杉湯行くかぁ」と言って夕方に連れ出した。別に無論のこと家にも風呂はあるし、わざわざ外に行く必要は無いのだが、広い風呂が好きだったのだと思う。一方の私は、公衆浴場があまり得意ではなく、帰りにじいちゃんとコンビニに寄って夏はアイスキャンデー、冬は肉饅かおでんを買って貰うことのほうがまだ楽しみだった。裸身を人前に晒して居心地が良いと思えなかったし、他人の裸が目に入ってしまうのも無性に落ち着かない気分になった。暖簾をくぐって外に出れば再び衣服を着なくてはならない空間に戻るのに、浴場に足を踏み入れると唐突に、裸であることがごく自然の約束になる。脱衣所というのも妙な空間じゃないだろうか。服を着込んだままの人と、下着姿の人と、すっぽんぽんの人が混在しているのだから。
それでも私の場合は二十歳を過ぎて幾年か経つと、公衆浴場に対する苦手意識はいつの間にか無くなった。風呂場で他人に裸を見られることも、他人の裸を見ることもどうでもよくなった。小岩に住んでいた五年の間にも気分転換のつもりで近所の銭湯に行くことがあったけれど、小岩の銭湯は老人と年配ばかりだった。
肌の上でほかほかとまだ湯気が立つような感じを覚えたままロビーを覗くと、片隅に立って壁に掛かった絵を眺めている男の子に見覚えがあると思った。あれ、どこで見たんだっけ。と数秒考えて、ジョーさんの喫茶店にいたアルバイトの子だと思い出した。
「楓くん。だっけ」
彼は数歩の距離を置いたまま声を掛けた私にパッと振り返り、まん丸の目でこちらを見た。
「いおり、さん。こんばんは」
「こんばんは。一人?」
「はい。うちの給湯器、壊れちゃって。うちからだと三丁目のお風呂屋さんのほうが近いから家族はそっちに行ったんですけど、僕はこっちに来ようかと。ここのバイトの大学生とか常連さんで、ゆずり葉にもよく来てくれる人が何人かいて」
「そうなんだ。若い人多いもんね」
彼ももう入浴を終えて帰るところだと言うので、なんとなく連れ立って外に出た。春の夜の匂いがした。騒々しい商店街からは数ブロック外れて住宅街の道を歩く間、楓くんに「いおりさん、って、どういう字を書くんですか」と尋ねられた。
「布を織る、のオリ。一文字で織」
「織る……だけなんですね」
「正しい読み方ではないんだけどね。出席簿初めて見た先生とかには、一発では読んでもらえなかったな。楓、はシンプルに楓?」
「はい。一番わかりやすい楓です。秋生まれなのと、お父さんがスラムダンク好きで」
「ああ、なるほど」
「ペンネーム、全然違いますよね。どうやって付けたんですか?」
無邪気な調子で訊かれて、少しだけ答えに迷った。それで、なるべくあっさりと聞こえるように、この少年に変な気を遣わせないようにと意識して声を出した。
「死んだ母の名前から取ってるの。みゆきって名前だったの。海に雪、で海雪。あとの二文字はまあ、なんとなく語感と字面で」
「あっ、そう……なんですか」
「気にしなくていいよ。亡くなったのはだいぶ前の話だし」
ちらと視線を投げた横顔が案の定しょんぼりとしていたので軽く笑って見せてやると、楓くんは少しだけほっとしたように見えた。
高架橋の下を通り過ぎたあと、ふと「アイス食べたくない?」と傍らに尋ねた。
「あ、でもこれから夕飯か」
「えっ。いや、食べたいです。大丈夫です、アイス食べても夕飯食べられます」
「よし、コンビニ行こう」
歩いていた道から逸れてパル商店街のコンビニに入る。プラスチックのカゴに、ついでとばかり酎ハイとハイボールの缶を適当に取って放り込んだ。アイスのワゴンの前で「好きなの選びな」と言うと少年は嬉しそうに口元を緩ませてワゴンを覗き込んだので、素直な子だなと思った。自分用に小豆のアイスバーをひとつ取った。楓くんは随分真剣な眼差しで隅から隅まで眺めまわし、ウーンとひとつ唸ったと思うと、間を置いてからチョコレートでコーティングされたアイスバーを取り、「お願いしますっ」と言ってそっとカゴに入れた。
固い小豆バーを前歯で齧りながら歩いた。飲み屋街の喧騒からは再びゆっくりと逃げた。未成年の子どもをそういったエリアから早めに遠ざけようという意識も働いてのことだったけれど、そもそも彼のほうが私よりも長く高円寺に住んでいるのだから余計な心配かと思い当たる。
「楓くんは、うちのじいちゃんとは会ったことある?」
「はい。僕がシフトのときはほぼ毎回来てくれてましたし、すごく可愛がってもらいました。だから、亡くなったって聞いたときはびっくりしました。僕、お通夜に行ったんですけど、覚えてないですよね」
「え、そうだったの? ごめん、あのときは私もバタバタしてたし、いろんな人が来てたから……ジョーさんと一緒にいたのかな。わざわざありがとう。今度良かったら、お線香上げにおいで」
「はい。あっ、でも……良いのかな、女の人の家に上がったりして」
慌てたような調子で、あくまでも素朴に口にした彼の言葉につい笑いが込み上げた。
「いや、どうかな。むしろ十は歳下の未成年を家に上げたら、私のほうが不味いかもしれない」
「やっぱり……? あの、僕、そんなつもりじゃ」
「そんなつもりって、どんなつもりよ。大丈夫、冗談だから。なんだったらジョーさんとか容子さんと一緒に来てくれても良いよ。そうだね、今度そのあたりの皆さんで鍋でもしようか。それなら安心でしょう、君も」
そんなことを思いつきで口に出しながら、じいちゃんから相続した無駄に大きな家の使い道のことを考えると、それはなかなか悪くないアイデアだと思った。楓くんは目を輝かせて頷いていた。小さな十字路で「じゃあ僕、こっちなので」と会釈した彼をおやすみと見送って、帰路についた。アイスバーの棒を雑にビニール袋に放り込んで、代わりにハイボールのロング缶を取り出しプルタブを引いた。帰ったらグリルで鯵を焼こうと思った。
(3)
善福寺川の上を渡す大きな橋の上を勢いよく自転車で走り抜けるとき、温かい風がぶわっとお気に入りのカーディガンを膨らませた。その下は半袖のTシャツ一枚だった。ここ最近で気温はみるみる上がっていて、梅雨入りもまだなのに頻繁に雨は降るし、おかげでムシムシと汗ばむ。雨が降るとカッパを着てリュックにもカバーを掛けて、滑らないようにとヒヤヒヤしながら自転車を漕がなきゃいけないから、ちょっと嫌だ。今日は晴れているので少しは気分が良い。
悠々と、ひゅうひゅうと風を切りながら、頭の中では今日の世界史の試験範囲のことを考えている。東インド会社設立。七年戦争はイギリスが圧勝。スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争。パリ条約締結。ひとつひとつ年号を思い浮かべるけれど、リュックの中の山川用語集を見直さなければあやふやのそれが正しいかどうか確認できない。学校の近くまで来ると、僕と同じくチャリ通の人たちがシャーッと軽やかな音を立てて門へ滑り込んでいく。
やばいって俺、まじで全然やってない。保体はもう捨てでしょ、十五分で全部書いてあとは寝る。世界史と英表が同じ日って誰決めたの? 単語全部忘れるって。えっ、ねえ、仮定法過去って出る? 出るだろ普通に。
教室に入ると皆、教科書やら単語集やらノートやらを机にぶちまけながら前後左右と相談し合ったり問題を出し合ってみたり大騒ぎしていた。中にはがっちりイヤホンをして教材に集中している人もいる。教室の後ろ側を通って窓際の自分の席に向かう。
真ん中の列、後ろから二番目の席で、ひとつ後ろの横田の机に頬杖を突いて単語集を眺めていたせっとんと目が合った。せっとんはニッと笑って口を「オ・ハ・ヨ」と動かし、手を振ってきた。横田も振り返って伸びをしながら「オカヤン、はよ〜」と声をかけてくる。オハヨウと返して通り過ぎる。
保健体育はまあ、事前に配られているプリントの穴埋めを丸暗記すれば八割か九割は取れる。世界史もひたすら暗記だけど、正直言って歴史は一番好きな科目だからそんなに気が重くない。英語も嫌いじゃない。単語とイディオムをちゃんと覚えてれば、英語表現はそこそこいけるはず。いちばん問題の数学は良くも悪くも昨日で終わってて、とにかく一学期の中間テストは今日でおしまい。
自転車置き場にせっとんがいて、僕を見ると「よっ」と弾むような声を上げた。初夏にしてはちょっと強すぎる陽射しが僕たちの自転車をきらきら光らせながら平等にいじめている。せっとんが手を掛けている綺麗な青色の自転車は、僕のママチャリと同じでカゴが付いているのに、僕のと違ってタイヤががっしりと大きくて、マウンテンバイクみたいでかっこいい。
「オカヤン今日もバイト?」
「そうだけど、夕方から」
「あ、そなんだ。マック行かない?」
「いいよ。マックってどこが近いの」
「高井戸の、すぐそこ。あんま行かない?」
「うーん、いつも自転車で反対側に帰っちゃうから」
「オカヤン家どこだっけ」
「高円寺」
「あーそっかぁ」
「せっとんは?」
「俺浜田山」
「てゆうか、部活行かないの? 今日で中間終わりだからあるのかと思った」
「俺もう引退したよ。この前の予選敗退でおしまい」
「え。そうなの」
「受験勉強しなきゃだしなぁ。てかさ、そのあたりの話、オカヤンとしたいわけよ。情報交換」
それで僕は先導する彼の後をついて、のどかな昼下がりの住宅街を走った。大通り沿いに出て、マクドナルドにはあっという間に到着した。てりやきバーガーのセットを買って、先にテーブルについて待っていたら自分のトレーを持ってきたせっとんは「オカヤンそれしか食わねーの?」と目を丸くした。テーブルに置いたトレーにはビッグマックとえびフィレオ、ポテトとMサイズのドリンクにナゲットの箱も乗っていた。せっとんは「ナゲット半分食べなよ」と言いながら箱を開けて、バーベキューソースの蓋を全部剥がした。
「俺、オカヤンは国公立か難関私大のクラスに行くのかと思ってた」
「え。なんで」
「頭良いから」
事も無げにサラリと言って、せっとんはビッグマックに勢いよくかぶりついた。あんまりにも当たり前みたいに言われたので僕はちょっと答えに窮してしまった。
「そんなに頭良くないよ。理数ができないから国公立はきつい。評定もあんま良くないし。一月の模試の、数2の点数聞いたら笑うよ絶対」
「何点?」
「八点」
「はち?」
「そう」
口の中のものをすぐさま全部呑み込んでから、せっとんはカラッとした声でアハハッと開けっぴろげに笑った。
「ほら笑った」
「あは、ははっ、ごめん。オカヤンも出来ない科目とかあんだね」
「あるよ、何だと思ってたの、僕のこと」
「そっかぁ。そうだよなぁ。オカヤンって第一志望どこなの。教えて、誰にも言わねーから」
えっと。
それだけ口にして、僕はちょっと黙ってしまって、オレンジジュースをストローでちゅうっと吸った。せっとんはモグモグとハンバーガーを咀嚼しながら僕を見つめて、ぱちんとひとつ瞬きをした。急かされるかなぁと思ったけど、意外に彼は黙っていた。
「まだちゃんと決めてなくて。マーチのどこかかなって思ってるんだけど」
「そなの? いっぱいあるよ、マーチの学部ぜんぶ合わせたら」
「そうだよねぇ」
「立教にする? 俺とおんなじ」
「せっとん立教なの」
「んーまあ暫定な。いけそうだったら指定校も狙うかも」
「そっか、凄いね」
「ね、聞いてい? オカヤンの評定あんま良くないってさあ」
やっぱ、去年のが効いちゃってんの。
せっとんの声は語尾のほうが少し尻すぼみになって、何だか遠慮するような、気まずいような感じに彼の目が泳ぐのを僕は見ていた。そんなに気を遣わなくてもいいんだけどな、せっとんは優しいよな、と呑気に考える。
「正直それが一番デカいかなぁ。数学とか体育とか、元から全然良くないやつはどっちにしろ変わんない感じなんだけど」
「なんかモヤモヤするな。オカヤンが悪いわけじゃないし、めちゃくちゃ頑張ってたのに。それが無かったら絶対もっと良かったのに」
ぼそぼそと沈んでしまった声を聞きながら、僕は胸の奥でかたちの無いなにかが柔らかく揺れるのを感じた。僕自身がしょうがないと片付けて仕舞ってしまった箱にそっと触れて、僕が悪いわけじゃないと、頑張ってたと言ってくれる彼に、言い表せないような不思議な気持ちが浮かんだ。ぱっかり開いたナゲットの箱から一個つまんで、バーベキューソースに浸して口に入れた。
去年の二学期と三学期、成績がどの科目も軒並み大幅に下がった。大もとの原因は、午前中の授業にまともに出られない日が続いたせいだった。
最初におかしいなと思い始めたのは、そういえば今くらいの、春から夏に向かっていく頃だったような気がする。元からたくさん寝るタイプではあったけど、それにしたって限度があるよというくらい朝起きられなくなって、なんとかベッドから出てもすぐに気持ち悪くなったり頭がぐわんぐわんした。学校に行かなきゃいけないのに、玄関でうずくまったまま家から出られなかったりもした。そんなことがあんまり続くから、お母さんがこれはおかしいと青くなってインターネットで色々調べ始めた。一体これは何科に行けばいいんだと家族で悩んだ挙句、中野区の神経内科というところにお母さんに連れられて行ったのがちょうど夏休みの頃だった。
「ねー、オカヤンさ、オカヤンが学校来ないとき、俺LINEしてもいい」
去年の秋くらいだっただろうか。せっとんがそう言った。せっとんは一年生のときからクラスが一緒で、普通にときどき喋るクラスメイトという感じだったけれど、一対一でLINEしたり、学校の外で会ったりしたことはなかった。地味で帰宅部でおまけに運動も苦手(スラムダンクから名前が取られてるのに情けない)な僕と、バスケ部でかっこよくて背が高くて友達が多くて女子とも仲が良いせっとんじゃ世界、と言ったら言い過ぎだけど、区分けが違う感じがした。
おはよー
おはよう。
おきてる?
さっき起きたけど気持ち悪くてまだ家出れてない。
そっかー
ごめんね、ありがとう。
なんで謝るの?しょうがないじゃん
昼はくる?
行くつもりではある。
売店のパン新しいの出たの知ってる?
いちごのつぶつぶのクリームのやつ
がちうまいよ
知らなかった。美味しそう
すぐ売り切れちゃうから買っといてあげようか?
おかやんのぶん
「なんかあんまり情報交換って感じにならなかったね」
マックの駐輪スペースで、がちゃんと自転車のストッパーを蹴って言うと、せっとんも自転車を引っ張りながら僕を見た。
「確かに。でもオカヤンと喋れて楽しかったよ」
「そう?」
「うん。なあ、さっき言ってた本、来週絶対持って来てね。なんだっけ」
「夏への扉」
「そう、それ」
「わかった、もう今日帰ったらリュックに入れとく」
「よろしく。道わかる?」
「だいじょうぶ」
「ん、おっけ。バイトがんばってね。また来週」
「うん、また学校で」
そうして僕が自転車を漕ぎ出して、通りに出ようとしたとき急に背中に「あっ、ねえ!」と声が張られて、反射的に急ブレーキで振り返った。
「立教のさ、学部見といてよ。俺、一緒の大学にオカヤンいたら楽しいと思う。絶対」
「……うん、わかった。ホームページ見とく」
そう返すと、せっとんは笑って、自転車のハンドルに片手を掛けたまま肩を丸めて、もう片方の手をゆるゆると振った。僕はちょっとだけ手を振ってからまたペダルを踏んだ。
(4)
すげえ、庭あんじゃん、バーベキューできるね。
開けたばかりのチャミスルの瓶を片手にカーテンを捲りながら、千秋はそう言った。
「近所迷惑でしょ」
「まあ、それもそうか。いやでも、炭は使わないでホットプレートとかにして、あと一応両隣にひとこと言っておけばアリなんじゃない?」
ああ、のような、うん、のような自分の耳にさえ曖昧に聞こえる声で雑に返事をしながら、確かに左隣は容子さんの家だからホットプレート程度なら駄目とは言われないだろうし、右隣も幼い子どもが二人いる感じの良い家族で、お互い様の近所付き合いで暮らしているから、千秋の言う通りきちんと断っておけばトラブルにはならないだろうな、等と考えていた。
「ね、煙草吸ってもいい?」
「お好きに」
私の簡素な許可に間髪入れず、千秋は流れるように箱から一本取り出し先程のライターで火を点けた。彼女の煙草は吐き出された直後、いつも微かに甘い香りがする。私は吸わないので銘柄はよく知らない。自分が喫煙なぞ始めようものなら、坂を転がり落ちるようにニコチン依存になるのが目に見えている。その手の身体に悪い嗜好品は酒で充分だ。
三和土に上がるなり、家宅捜索のごとく無遠慮にぐるぐる家の中を歩き回った千秋は、奥の和室に仏壇を見つけると座布団の上にそっと膝を突いて正座した。そして「お線香もらうね」と宣言し、ワンピースのポケットから取り出した銀のジッポライターで蠟燭に火を点け、線香の先を燃やして香炉に立てると、チィンと鈴を鳴らして静かに手を合わせた。
「最後にもう一回会っておきたかったなぁ、織のじいちゃん」
顔を上げた千秋は、快活な笑顔の遺影を見て独り言のようにぽつんと言った。襖の開いた隣の居間からその背中を見ていた私の頭の中に、いつかのじいちゃんの「織、あの面白ぇ子、またウチ来ねぇのか」という嗄れた声が不意に響いた。おんなじ東京に住んでたのにね、と思いながら、「じいちゃんもあんたに会いたかったと思うよ」と返した。
晩秋の、東京ではじきに冬が来ようかと言う頃でも日本最南端の県は初夏のように暖かかった。事前に決めておいたグループごとに自由に散策しましょうという修学旅行三日目、はぐれた体でわざと国際通りからずっと外れた路地に入り、レトロで静かな喫茶店を見つけてアイスコーヒーを啜っていると千秋がひとりで入って来た。彼女は私を見つけて一瞬びっくりした顔をしたが、にんまり微笑むとツカツカと寄ってきて私の正面に座り、「何してんの、こんなとこで」と楽しそうに言った。
「片山さんこそ何してんの。ひとり? 高部さんとかの班じゃなかった?」
「そうだけど抜けてきた。あいつら、つまんないし」
そう吐き捨ててから、ぐるんと首を回して「すいませぇん、アイスコーヒーください」とよく通る声で叫んだと思うとまたこちらを向いて笑った。
「ここ来て正解だった。あたし、曽根さんと喋ってみたかったんだよね」
「……なんで私?」
「あのつまんねー墓場みてぇなクラスで一番面白そうだと思ったから」
千秋のその評価は明らかに買い被りだった。自分で言うのも難だが私は喋らせてもさして面白くはないし、捻くれ具合も凡人の域を出ないし、地味でつまらない人間だと思う。大人になって生臭い犯罪の小説ばかり書いているのは、私にとってはそれが自分の実生活と無縁の虚構だからこそ出来ることなのだ。でも方向性は違えど、あの教室の中でぽっかり浮かんだ逸れ物という意味では、私と千秋は同類だったのかもしれない。彼女とまともに喋ったのは、そのときが初めてだった。お母さんが癌で死んでから、まだ四ヶ月だった。
那覇の喫茶店で制服を着ていた頃は流石に煙草を吸ってはいなかったが、唇の隙間から細く煙を吐き出して気怠げに宙を見る今の千秋の横顔に、記憶の中のあの尖った少女の顔が重なるようだった。
「ヤニなんか辞めたら。俳優は喉が商売道具でしょ」
「ご心配なく。あたし喉は引くほど強靭なんだ」
「あっそう」
マスカットのチャミスルをぐいっと呷った千秋が唐突にヒヒヒと気味悪く笑い出したので「何」と訝しく訊いた。
「この前まで撮ってた監督にも煙草辞めろって言われたの思い出した。女の煙草はみっともないとかって。ウザかったなぁ、あのジジイ」
「はあ、悪いね、ヤなこと思い出させちゃった?」
「んーん、そうゆうんじゃなくてただキモかったな〜っていう愚痴と悪口。なんかさ、ああいうキモいジジイにも別け隔てなく擦り寄ればあたしももっと役貰えるのかなとも思うんだけどさ、キモいものはキモいからさ」
「まあ良いんじゃない、自分の心に正直にやんなよ」
「それはそう。あたしそういう風にしか生きてないから、ずーっと」
千秋がチャミスル一瓶、私がアサヒを一缶空けてから、暮れかかった夕陽を尻目にぶらぶらと歩いて高架下の焼鳥屋に行った。夜になっても薄ら湿った空気はじっとりと暑くて、生ビールと冷やしトマトがひどく旨かった。
「ねえ、あたし、あんたが書いた小説が原作の映画に出るのが夢なんだぁ」
隣で千秋がホッピーのソト二本とナカ六杯を飲み干す間、私はずっと鍛高譚を飲んでいたが、この店の水割りはひょっとして相当濃いかもしれないと気付いたのは二杯目をほとんど飲み干した頃だった。
千秋は改札の向こうで、やたらめったら陽気な調子で大袈裟に手を振り、「次は庭でバーベキューねぇ」と北口から南口まで届くほどの大声で叫んだ。
うちの庭でバーベキューもどき、をやるんだけど来る? と訊くとバイト中の楓くんは「えっ行きたいです」と迷わず即答した。次の日に「友達とか呼んでもいいですか?」というLINEが来たので、「2人くらいまでならいいよ」と返すと「大丈夫です。ひとりです。」と返ってきた。
楓くんより少し背の高い、髪の毛をアッシュっぽい茶に染めた都会的でお洒落な感じの男の子だった。楓くんが「友達の、せっとんです」と紹介して、私と一緒に玄関で迎えた千秋が「せっとん? 面白いあだ名だね。名字から付いたの?」とか言う間、その彼が呆けたようにぽかんと口を開けているので何かと思えば、その視線は真っ直ぐ千秋を見ていた。
「犬塚千秋……さん、すよね?」
「えっ? なんで知ってんの。単館系とか好きな子?」
千秋はぎょっとしたように首を前に突き出し、私と楓くんは呆気に取られて千秋と彼を交互に見た。
「去年の遠山監督の、『夢のまた夢』に出てましたよね? 主人公の友達役」
「うん、そう」
「俺、瀬戸雅也っていうんですけど、瀬戸祥雅の息子です。あの、撮影監督やってた」
真夏の夕方の玄関に一瞬沈黙が落ちたあと、千秋は近所中に響きそうなほどの汚いダミ声で「えぇっ!?」と絶叫した。なにそれ初めて聞いたよ、と友人を見上げた楓くんに瀬戸雅也くんは俺も今初めて言った、とあっさり頷いていた。
家の外壁に、芝刈り機用の屋外コンセントがあることが幸いした。物置にあった折り畳み椅子とテーブルの埃を拭いて小さな庭に置き、千秋とスーパーに行って大量に買い込んできた肉や野菜をホットプレートで焼いた。少年たちは焼いたり追加で食材を切ったりするのを軽やかに引き受けてくれ、特に瀬戸くんに関しては働いたぶん掃除機のごとくもりもりと食べた。食べながら彼は、父の影響で邦画が好きなのだということや、将来は何かしら映画に関わる仕事がしたいのだということを話した。
「自分で撮る気はないの? なんならカメラマンどころか、監督とか」
「うーん、どうすかねぇ。憧れはしますけど、自分で作るって考えたら何撮ればいいのかわかんなくて」
「撮るなら呼んでよ。あたし出てあげるよ」
「まじっすか」
「クソ図々しい俳優だなぁ」
私が横から口を挟むと、瀬戸くんはアッハッハと豪快かつ爽やかに笑った。その会話をもくもくと肉を咀嚼しながら聞いていた楓くんが、こくんと喉を上下させてから「織さんって、ジョーさんとか容子さんの前ではわりと猫かぶってますよね」とピュアな目で言うので、「そりゃそうだよ」と思わず笑いが出た。
ひととおりシメの焼きそばまでいただいたあと、あまり遅くまで庭で騒いではいられないということで家の中に撤収した。楓くんが、熊本に住んでいる父方のお祖父さんが送ってきてくれたのだと、大きな西瓜を一玉抱えて来たので四等分に切った。
自宅からアコースティックギターを背負って来ていた千秋が、ギターケースからそれを取り出して爪でラフに鳴らし出すと、瀬戸くんは目を輝かせて「すげー、かっけぇ」と漏らした。
「せっとん歌える?」弦に目を落としたまま千秋が投げかける。
「えぇー、何歌ったらいいんすか」
「逆に何が良い? その世代って何が好きなの。スピッツとかわかる?」
「あんま詳しくないすけど、チェリーと楓は知ってます。……あそっか、楓じゃん」
瀬戸くんが凄いことに気付いたというように嬉しげに隣の楓くんに顔を向けた。楓くんは最近よく見るびっくりした猫のような顔をした。千秋は「よし、それやろう」とコードを弾き始めた。
少し照れ臭そうに主旋律を歌い出した瀬戸くんに、千秋が即興でハモりを被せる。千秋が上手いのは知っていたが瀬戸くんも上手で、喋るよりも数段ソフトな歌声をしていた。
そんな調子で数曲遊んだあと、ふと唐突に、何も宣言しないまま弾き出した千秋のイントロにひどく懐かしさを覚えた。流暢な英語を歌う千秋に曲を知らないらしい若者たちはきょとんとした顔をしたけれど、ゆっくりと肩を小さく横に揺らして聴き入り、お馴染みの終わりの合図でジャカジャン、と鳴るとパチパチと可愛い拍手をした。
「なんの曲ですか」
「英語めっちゃうまいっすね」
「ジョニ・ミッチェル」
「どんなこと言ってる歌だったんですか? 歌詞聞こうと頑張ってたんですけど、あんまり意味取れなかった」
体育座りの楓くんが尋ねると、千秋は考えるように宙を見た。
「なんかねぇ、結構わかりにくい詞なんだよね。ポエミーっていうか」
何度も曖昧に首を捻ってから、再びサビの部分だけを今度はアカペラの滑らかな声で口ずさんだ。
人生を両側から見てきたはずなのに、
思い浮かぶのはまぼろしだけ。
私は今も人生のことがなんにもわからない。
(5)
あなたは昔からよく寝る子だったと、お母さんがときどき言う。僕もそれはなんとなく自覚がある。風邪を引いたり何かしら具合が悪かったりすると、とにかくひたすら渾々と寝て治す。夜は寝ないと次の日は絶対にまともに活動できないから、テスト前だろうとなんだろうと徹夜なんてもってのほか。二時間とか三時間寝ればなんとかなるというわけでもなく、最低でも六、七時間は寝ないとお話にならない。
朝に起きられなくなった最初の頃、担任の先生にすすめられて何度か学校のカウンセリングルームに行った。そのときにカウンセラーの人にそういう話をしたら、「岡辺くんはもしかすると、脳が情報を処理するのに掛かる負荷が人より大きいのかもしれないね」と言った。
パソコンやスマホって、ときどきシステムのアップデートをしたりメンテナンスしたりするでしょう。脳もそれと似てて、起きてるときに使ったぶん、眠ってる間に機能を休ませたり、得た情報を整理したりして、また起きたら使えるように準備するのね。負荷が大きければ大きいほど、準備に時間が掛かるのよ。普通に学校に行って勉強して、部活動したり友達と遊んだり、そういう普通の生活をしてるだけでも、人によって脳に掛かる負荷の大きさって違うの。
穏やかな声でゆっくりとそう話すカウンセラーの言葉をじっと聞いてから、「それって僕の脳みそのスペックが低いってことなんですかね」と少し落胆して言うとカウンセラーはちょっと笑って続けた。
「違う違う、そういうことじゃないのよ。そういう人の脳の負荷が特別高いのは、他の人が処理しないで切り捨てる情報まで処理しちゃうからなの。でもそれって凄いことなんだよ。たくさんの人が気づかないことに気づいたり、見えてない世界が見えたりするの」
結局そのあと僕は神経科で起立性調節障害と診断されて、カウンセラーさんが述べた理論はそのときの僕の困りごとに対する直接の答えとしては正しくなかったわけだけれど、今でもあのときの彼女の話はよく覚えている。病気がおおむね治った今もロングスリーパーには変わりないので、たとえば土曜日をまるまる一日寝過ごしてしまってしょんぼりする夕暮れ刻も、今日は定期メンテに時間が掛かったんだなぁと納得することにしていたり。
秋なんてあってないようなものだった。長引いた夏が、紙芝居を一枚めくるように突然冬に切り替わったみたいだった。受験は諸々の推薦入試が始まりつつあったけれど、僕は最初から一般で頑張るつもりだったのでまだ少し時間があった。せっとんは指定校推薦も考えていたけど、うちの高校に来たのが行きたい学部の枠じゃなかったから一般に賭けることにしたと、夏の終わりにあっけらかんとして言った。
今日は何の科目を勉強して、何をどこまで終わらせなきゃいけないかを毎日四六時中考えていた。ゆずり葉でのアルバイトはしばらくお休みすることにしたけれど、仕事をしない代わりに店が混まなそうな時間帯を狙って隅っこの席で勉強させてもらうことがあった。ジャズが好きで自前のレコードをいつも掛けているジョーさんは、「勉強の効率アップにはどれがいちばん良いかねぇ」と言って張り切ってDJをしてくれる。気持ちはありがたいけれど僕には正直あんまり違いがわからなくて、強いて言うなら歌詞は無いほうが集中できるような気がするかな、というくらいだった。
二年前の英語の過去問を解き終わって、やっと顔を上げて溜息を吐いた。やけに静かだなと気づいてふと見回すと、カウンター席の真ん中あたりに織さんが座っていて、ジョーさんは見当たらなかった。
「あれ、ジョーさんは?」
僕が問いかけると織さんはこちらを向いて、「今気づいたの?」と笑った。
「卵切らしちゃったって、さっき買い出しに行ったよ。ドアに張り紙して」
「そうなんだ、珍しい」
「ずいぶん集中してたんだね」
「英語解くときは必死なんです。時間測ってやるんですけど、いつも足りないから」
「ああ、長文読解っていくらでも時間掛けられちゃうもんね」
「織さんも受験大変でしたか?」
「うーん、そうだねぇ。大変だったと思うけど、もうあんまり覚えてないな」
僕は壁にぴったりくっついた小さなテーブル席を立って、カウンターの端っこ、織さんの座る椅子からひとつ空けたところに腰を下ろした。織さんは僕を見て「休憩?」と小さく尋ねた。
「千秋さん元気ですか?」
「元気だよ。今、下北で舞台やってる」
「高校の同級生なんですよね。ずっと仲良いの?」
「まあ仲良いかな。一時期会ってなかったりとかもしたけど。腐れ縁だね」
「あの、たとえば、なんですけど」
そこまで口に出して、僕はその先を続けるのを躊躇した。僕が口ごもったのに気づいた織さんが、ふっと真面目な顔になって静かな瞳で見つめてくる視線を感じた。
「織さんは、たとえば千秋さんに、これってほんとに友達に向けるものなのかな、みたいな。そういう気持ちになることって、今まであったり、とか」
しないですかね、と言った声のしっぽは途切れそうになって床に落ちた。ああやっぱりこんなこと言わなければよかったかなと後悔する。やっぱ今のなしで、と言おうとしたとき、織さんの「あるよ」という声が鳴った。
おそるおそる目を合わせた僕に、織さんはもう一度繰り返して「あるよ」と言った。自分が訊いたくせに僕はそれ以上何を言えばいいのかよくわからなくなって、ぐるぐる困った末に「あのう、僕、今まで女の子を好きになったことなくて」と口をついて出た。
「女の子をっていうか、そもそも誰かを好きっていうのがイマイチわかんないんですけど。クラスの人は彼女できたとか彼女欲しいとか、みんな言ってて。なんか僕、もう十八なのにそういうの全然ついていけなくて」
「うん」
「でも、その……ある人に対してだけ、ちょっと違うんです。何が違うのかっていうと、うまく言えないんですけど。でもその人は女の人じゃないから。これってなんだろうなって」
織さんはもう一度「うん」と相槌を打った。それから僕が黙り込むと、声には出さず「あ、終わり?」という目をして、それからちょっと考えるように首をひねってコーヒーを一口飲んだ。
「それがなんなのかは、私は楓くんじゃないからわかんないんだけど」
「そ、そうですよね」
「相手が女の人じゃないからっていうのは、気にしなくていいよ。別に大丈夫。気にしないっていうのも、難しいかもしれないけど。でも本当に、大丈夫だよってことだけ覚えておいて」
「はあ」
「ただ、簡単に結論を出そうとしないで。これってなんだろうって思う気持ちがあるなら、それを小説やドラマや映画でよく見る枠に押し込もうとしなくていい。その気持ちをちゃんとじっくり見て、自分の言葉で定義して。私の言ってることわかる?」
織さんは淡々とした声で、ゆっくりと喋った。僕はそれらを頭の中でリピートボタンを押すようにもう一度反芻して、少し自信無く「たぶん」と応えた。
「『海の藻屑と消えたい』は、そうやって織さんの言葉で定義して書いたんですか?」
「うーん、そうとも言えるし、そうでもないとも言えるかな。あれはフィクションだからね。私には彼らの行動の動機を、理解はできるけど共感はできないから。大学で犯罪心理学を専攻したんだけど、そのときの知識の枠に当てはめながら犯罪の小説を書くこともあるし、登場人物はあくまで他人だって思いながら私は書いてる。でも、心理描写をするときの言葉の選びかたは、私が過去に経験した心の動きから拾ってくることもある」
そういえば彼女の大学での話を聞いたのは初めてだなと思い当たった。
「あの、聞いてもいいですか」
「うん?」
「犯罪心理学を選んだ理由、とかって」
織さんはもう一度首を捻って少し間を置いてから、あっさりとした口調で「なんとなく興味あったから」と簡潔に述べた。そんなもんですかぁ、と僕が肩の力を緩めて言うと、そんなもんだったよ、と笑いを帯びた声が返ってきた。
予備校での冬季講習が終わって、高円寺駅に戻って来るともう十時を回っていた。空気はしんと冷たくて、それでも駅前は夜の黒色の中で浮かぶカラフルな光とざわめきに溢れていた。いつもこれくらいの時間になると眠くなってしまうのに、今日はなんとなくまだ帰る気がしなくてわざわざ家と反対側の北口広場に行って、石でできた植え込みの縁に腰を下ろした。
意味もなくぼうっとしていると、ちょうど僕の座っているところの正面あたりに、ずいぶん旧式に見える重たそうなラジカセを片手に提げた人が歩いてきた。綺麗な紫色のジャージの上下を着たその人は男性か女性かよくわからなかったが、髪がとても長くて真っ直ぐで、しかもカラスの羽のように真っ黒だった。
その人はラジカセを地面に置くとしゃがみ込んでボタンを押し、そこそこ大きな音量で音楽が流れ出した。流れるその曲のタイトルを僕は知らなかった。どこかで聞いたことがあるような気がしたし、綺麗な音楽だと思った。長い髪の人は音楽に合わせて大きな声で歌いながら、勝手に身体が動いてしまうとでもいうみたいにその場で飛び跳ねて踊り始めた。広場にいる人や、横断歩道を渡る人たちの幾らかが歌い踊るその人を見た。それは上手なような気もするし、そんなに上手ではないような気もした。僕は不思議とその紫色と、撓むように激しく揺れる髪から目が離せなくなって、呆けたように動き回る身体を見つめていた。
曲が一度終わって次の曲に切り替わってもその人はまだ踊り続けた。しかし二曲目の途中で、駅のほうからお巡りさんが二人連れ立って歩いて来た。そのうちの一人が声を張り上げて歌う紫ジャージの人に負けじとばかり大声で「ちょっとちょっと、お兄さん」とか何とか言いながら近付いていく。最初の数秒は無視していたその人もあまり近くに寄られると邪魔に思ったのか「はい、なんですか!?」とハッキリした発音で返事をした。
「ここでパフォーマンスとかするのにね、許可が要るんですけど、お兄さん届け出ってされてないですよね?」
「特にしてないですね」
「届けを出さないとね、ここで歌ったり踊ったりしちゃダメなんですよ。ちょっと、ちょっと一回音、止めてください」
「どうしてですか」
「どうしても何もね、ルールなんですよ。皆が使う広場だからさ。お兄さんのモノじゃないでしょ」
お巡りさんと紫ジャージさんは三人で押し合ったり揉み合ったりしながら、ひとまずラジカセの停止ボタンが押された。紫ジャージさんはまったく怖気づいてもいない様子で、びっくりするほど堂々としていた。音楽が止まってもなお、広場にいる全員に聞こえるような声量で滔々と語る。
「だって生きてたら歌わずにはいられないでしょう。歌い始めたら踊らずにはいられないでしょう。人間は太古の昔から、歌ったり踊ったりしてきたんですよ。それなのに歌や踊りに届けが必要ってどういうことですか。おかしいじゃないですか。人間のサガに反している」
お巡りさんたちは呆れきった様子で半分笑いながら、いやそうかもしれないけどね、それにしたって踊りたいならここじゃなくてそういうのがちゃんと許可された場所に行けばいいでしょうと懸命に説得にかかっていた。これは収拾に時間が掛かりそうだなぁとぼんやり思い、ふとお尻が冷たいなぁと気づいて、もう帰ることにした。ヒートアップする口論を背中に聞きながら広場から出た。
人通りが少なくなった家までの道を歩きながら、さっきの曲のメロディを思い出した。ふと頭の中に、高いヒールの靴を履いて派手な恰好をした大柄な人が踊っている映像が浮かんで、そうだ、小さい頃にテレビのCMで聞いた曲だったんだと確信した。何のCMだったかも思い出せないけれど、間違いなくそうだと思った。
寝る前にふと開いたインスタにせっとんが四時間前に投稿したストーリーが載っていて、見ると一枚の写真だけが映っていた。説明どころか文字のひとつさえ無かった。街角にある何かの店らしき建物の、閉じられたシャッターを撮った写真だった。シャッターには鮮やかな色とりどりのペンキで不思議な絵が描かれていて、なんとなく人のような形をした何かが踊っているように見えた。僕はその絵をどこかで見たような気がしたけれど、どこで見たのかはわからなかった。画面右下のハートマークをタップしてからスマホを枕元に置き、部屋の灯りを消した。
(6)
最初の電話は出られなかった。秋葉原のオフィスにいて、私用スマホは音も振動さえも立てず鞄の中に仕舞われていた。
退勤してからようやく、伯父さんからの不在着信に気づいた。母の兄である彼と連絡を取り合うことなんてこの数年はほとんど無かったので、不思議に思いながら掛け直した。
じいちゃんが意識不明で病院に運ばれて、つい先刻息を引き取ったと聞いたとき、やっぱり就職が決まったからとてあの家を出るべきではなかったのだと、悔いる思いが最初に浮かんだ。伯父が喪主を務めてくれた通夜で、じいちゃんとその日会う約束をしていたという老人たちに話を聞いて、「そうか、じいちゃんは寂しくなかったんだなぁ」と思ったらひどく救われたような気がして、でもそのあとで何故だか私のほうが寂しいような気になって、ぽろりと涙が出た。高円寺の爺は泣き出した私の二の腕をぽんぽんと叩いた。
「康史さんな、おとといあんたの話してたよぉ。また俺の孫の新しい本が出るんだっつってな。三冊買うんだって。一冊は自分で読む用で、もう一冊は友達に貸す用でな、最後の一冊は予備なんだってさ、あははは」
「そうそう、俺に似て文才があるんだなんて言うもんだからさ、何言ってやがる、あんたは文なんかまともに書いたことねえだろうってね、そしたらバカヤロー若い頃は書いてたんだよなんて抜かしてたよ、あははははは」
彼らがそんなふうに大笑いする横で私はますますしゃくりあげてしまって、散々泣き腫らした。それなのに、告別式が終わった夜に伯父さんが奢ってくれた高い鰻重は、ここ数年のうちに食べたもので一番美味かった。
生前のお母さんとじいちゃんは、あまり仲が良くはなかった。憎み合っていたわけではないが、とにかくずっとぎくしゃくしていた。人間と人間がうまくいかない理由などはいろいろな要素が絡み合うものなのだから、ひとつやふたつに絞れることではない。ないのだが、お母さんとじいちゃんの父娘関係の場合で決定的な岐路だった出来事は、まずひとつめにお母さんを産んだ実の母親である最初の妻と死別していたじいちゃんが、お母さんが中学生のときに別の女性と再婚したこと。もうひとつは、私を産んだときにお母さんが結婚せず、父親の名前すらも明かさなかったことだった。
だからお母さんが亡くなって、親族会議の末に私が高円寺のじいちゃんの家に住むことになるまでは、私とじいちゃんは頻繁に会っていたわけではなかった。寧ろ言動や口調がやや荒っぽく、破天荒そうな印象のじいちゃんのことを少し怖いとさえ思っていた。
じいちゃんは、私が転がしてきたキャリーケースに手をかけて持とうとした。いやいや、老人に持たせるのは変だろう、と反射的に思って「いいよ、大丈夫」と握り直すと、「あ? ああ、そっか?」と何事も無かったように、骨が浮き出た皺々の手を降ろして歩き始めた。
午後の二時頃だったと思う。あの日私は昼食を食べそびれて、高円寺駅に着いた頃にはお腹がペコペコだった。じいちゃんは斜め後ろを着いていく私を振り返りもしないまま、ぶっきらぼうな調子で「織、腹減ってねぇか」と言った。
「減ってる。すごい減ってる」
「ラーメン食うか」
「うん」
横長のカウンターだけの小さなラーメン屋に連れていかれた。「味噌ラーメンが美味いんだよ」とじいちゃんは言った。
「たまごつけてもいい?」
「おお、いいよぉ、つけろつけろ」
狭いカウンターの足元に無理やりキャリーケースを詰め込んで、ラーメンを食べた。かんかん照りの真夏だった。あれから十二年になる。今年はお母さんの十三回忌法要をしなければならない。
いつだったか、ひとりで晩酌をしていたじいちゃんが唐突に嗚咽をあげ始めたことがあった。彼は震える指の間に巻き煙草を挟んで、「海雪に申し訳なかった」と言った。俺はおとなげが無かった、もっとあの子とちゃんと向き合っていればよかった、まさか俺より先に向こうに行っちゃうなんて。俺の人生で最大の後悔だ、と泣きじゃくっていた。私はかける言葉も無く、途方に暮れて黙っていた。嫌になるほど静かな病室で、すっかり衰弱したお母さんが虚ろな目をして「お父さんともっときちんと話しておけばよかったな」と囁いた声を思い出した。
大学受験が終わってから、初めて小説らしきものを書いた。たぶん原稿用紙で八十枚分くらいだったと思う。今書いているような犯罪小説ではなく、母と娘だとか、女と女だとか、そんなことを書いた。調子に乗って文芸系の賞に送ったが、当然のごとく一次選考にも引っかからなかった。自己を投影した自分の小説などこの世で最も読みたくないもののひとつだけれど、あの頃の心臓のざわめきは今でもキーボードを叩く私の指を突き動かすときがある。
じいちゃんの三回忌は親族だけで、寺での法要と簡単な会食をした。それとは別に高円寺の仲間内でも「偲ぶ会」めいたものをやろうと、夕方からジョーさんがゆずり葉を貸し切りにしてくれ、じいちゃんと仲良くしていた人たちが集まった。
店に行くと久しぶりに楓くんがカウンターの中にいて、自分はまだ飲めないだろうに、高円寺の爺たちのために瓶ビールの栓を開けてやっていた。私の顔を見ると「あっ、織さん」と朗らかに笑った。
結局どこに行くことにしたの、と訊いて返ってきた大学名は、去年の夏に瀬戸くんが志望校だと言っていたところと同じじゃなかっただろうかと思い当たった。
「瀬戸くんは受かったの?」
「あ、えっと、あの、はい。せっとんも一緒のとこです」
「そうなんだ。良かったね」
「あの、だからって別に、僕が合わせたとかじゃ、ないですから。本当にちゃんと僕が行きたいと思って」
「わかってるよ。別にそんなこと言ってないよ。合格おめでとう」
楓くんはなんとなくばつが悪そうに唇をむにむにと歪ませたあと、真面目な顔のような、でも少し照れ臭そうな顔をした。
「僕、心理学やってみたいなって思って。臨床心理とか興味あるんですけど、でも臨床心理士とか、ホントにそういう仕事が将来したいかは、ちょっとわかんなくて。でも勉強してみたいなって一番思ったんです」
「いいじゃん。大丈夫だよ、心理学なら特に、使いどころはいろいろあるから。バイトは続けるの?」
「はい、とりあえずしばらくは続けます。卒業したら夜のバータイムにも入れるし。あっ、そうだ。ジョーさんが、もうそろそろ僕が淹れたコーヒーも出してみようかって。まずは常連さんから、割引で試してもらおうって。だから織さん、今度飲んでください」
「それは楽しみだね」と茶化すと楓くんはイヒヒと笑い、冷たいコップに注いだ瓶ビールを渡してくれた。いつも静かで穏やかな時間が流れるゆずり葉の店内が今夜はワイワイと賑やかで楽しげな空気が漂っていた。ジョーさんが店の奥のキッチンから、ウィンナーとフライドポテトと、魚か鶏のフライらしきものが大量に乗った大皿を両手に持って出てきた。
「あれ、フィッシュアンドチップスってさ、康史さん好きだって言ってたんじゃなかったっけ」
「そうだよぉ、だから作ったんだよ」
「あのジジイ、ジジイの癖に結構洒落たもんが好きだったよな。あの人のタバコ知ってる? ブラックスパイダーとかいう、アフリカかどっかの銘柄」
「なんかチマチマ自分で巻いてなかったか?」
「そうだよ、あれ新宿だか十条だかにわざわざ行って大量に買って来てたんだよ」
「そんなことしてるからサッサと逝っちまったんじゃないの」
「こういうカラダに悪そうなもんモリモリ食ってたら俺らも危ないかなぁ」
カウンターに寄り集まってはガハハと笑っている老人たちを眺めながら壁際のテーブル席に腰掛けてビールを舐めていると、楓くんがオレンジジュースの入ったコップを片手にちょこちょこと寄ってきて向かいの椅子に座った。
「あの、織さんってきょうだいはいないんでしたっけ」
「いないよ」
「失礼だったらごめんなさい、その……お父さんは」
「どっかで生きてるかもしんないけど、私は名前も知らない。昔お母さんに、会いたい? って訊かれたことあるんだけど、別に会いたくないって言ったの。種蒔いただけの人間に興味ないから」
楓くんは私の言い草にちょっと引いたのか、「わぁ……」と息のような声を出した。
「だから二親等以内はもういなくなっちゃった。どうにかして子どもでも産めば一親等が増えるけど、まあ望み薄かなぁ」
「さびしくないですか」
「寂しくないときもあるし、寂しいときもあるよ。でも、誰かと一緒にいれば寂しくなくなるわけでもないからね」
楓くんは両手でコップを手のひらで包むように握って、じっと静かな目で私の顔を見た。その野生の鹿のような黒々とした瞳を、美しいなと思いながらビールをひとくち呑んだ。不思議なほど凪いだ気分だった。
ふっ、と楓くんが視線を外して、何かに気づいたように空中を見た。
「僕、これ、好きかも」
「これ?」
「曲。なんかすごい楽しくて、ゴキゲンな感じ。今日みたいな日にぴったりじゃないですか?」
ざわめきの奥で鳴る、飛び跳ねるような金管楽器とドラムの上で、男性の陽気な歌声が響いていた。
「ジョーさぁん、このレコードなんですか」
楓くんが叫ぶと、ジョーさんがすかさず「ベイシーだよぉ」と答えた。
「この盤、康史さんも好きだったよ。ジョーくんアレ掛けてよ、ってよく言ってた」
そう言ってジョーさんはごそごそと棚からレコードを引っ張り出し、こちらに掲げて見せてくれた。
Breakfast
Dance
and
Barbecue