泥水から抜け出そう
Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事
【雑感】『禅の世界支配』〜Z E Nが変質した瞬間〜
1.鈴木大拙から始まった「東洋の反乱」1950年代、ニューヨークの大学や知識人サークルを中心に「ZENブーム」が起きた。
それは単なる宗教現象ではなく、西洋理性主義に対する精神的カウンターであった。
1 ドナルドケーンやアラン・ワッツ、ビート・ジェネレーションの詩人たちは、
鈴木大拙の『禅と日本文化』を読みながら、論理ではなく「直観」で生きる東洋の思想に救済を見出した。
キリスト教的な「罪と救い」の世界観を超えて、「空(くう)」……存在の無限の自由……へと向かう道。 それは、西洋の退屈な理性主義に対する精神的な革命であった。
2. 禅がZENになりアメリカを変えた:ビートとヒッピーの間に流れる「空気」
ジャック・ケルアック『ダルマ・バムズ』、ゲイリー・スナイダー、アレン・ギンズバーグ……彼らは山に登り、自然の声に耳を傾け、「思考を止める」ことを通じて新しい詩と政治の形を模索した。
そこにあったのは、禅ではなく「ZEN」……
日本の僧侶の沈黙ではなく、これまでのキリスト教の教義の窮屈さやヨーロッパの既成的な考え方からアメリカ的自由の象徴に変更した。。
そしてそれがドラッグと音楽、愛と革命、そして自己の拡張。彼らの「悟り」は LSD の幻覚と紙一重だった。
3. 禅からZENへ:スピリチュアル・グローバリズムの誕生
やがてその「ZEN」は、テクノロジーとデザインの世界へと姿を変える。
スティーブ・ジョブズが曹洞宗の僧・鈴木俊隆の著書『禅マインド、ビギナーズ・マインド』を座右に置いたことは象徴的である。
彼が目指したのは「機能の削除」と「意識の集中」。
黒いタートルネック、Levi’s 501、ニューバランスのシューズ。
それは「無駄を削る」ことで得られる悟りの形……。まさにデジタル時代の「わびさび」だった。だが、ここで起きたのは逆転である。
禅が本来めざしたのは「執着の放棄」だったが、Apple の世界は「執着の制度化」であった。要するに本来の禅とは真逆のものだった。
美しいミニマリズム(最小限化)の裏で、人々はデバイスに心を奪われ、マインドフルネス「今ここにある」ことから遠ざかっていった。
4. スマートという幻想……禅の逆転支配
ジョブズは、自分の子どもに iPad を触らせなかった。彼は知っていたのだ。それが「現代のドラッグ」であることを。
スティーブ・ジョブズの師の乙川弘文も薬物使用に対する考え方が緩かったこともあり、LSDの使用が拡大した。
かつての LSD が意識を拡張したように、スマホは意識を縮小させる。
すべてを「通知」と「短文」に還元し、沈黙と直観を失わせる。それでも私たちは「スマート」という言葉に酔う。だが、スマートなのは作り手であって、使っている私たちではない。
5. ZENという名のコントロール装置
こうして、禅は世界を支配した。だがそれは悟りの支配ではない。
「ZEN」というブランドが、ミニマリズム、マインドフルネス、自己啓発の名のもとに、人間の注意と時間を商品化したのである。
禅は「空」を語り、Z E N は「制御」を行う。本来の禅は「手放す技法」であり、Z E N は「所有の技法」へと変質した。空がクラウドへ、坐禅がログインへ。
6. 終章……「無」への帰還
だが、まだ遅くはない。もし私たちがスマホを一日だけ閉じ、誰の声でもない「内なる声」に耳を澄ませるなら、そこにかすかな「禅」が息づいている。
それはブランドでも哲学でもない。ただ、ひとつの呼吸であり、一滴の水の静けさだ。
禅は世界を支配したのではない。世界が、禅の「無」を誤読したのだ。
Facebook相田 公弘さん投稿記事「円融便り」 昭和55.9.1発行 第33号
「弱いから」相田みつを
わたしは弱い人間だからふつうの人といっしょにではとても骨が折れるんです
みんなといっしょではとてもついてゆけませんわたしはのろまだから同じことをやるにも
ひと(他人)よりはるかに手間がかかるんですわたしは気が小さいからまわりのことが非常に気になるんです
わたしは怠け屋だからいくつになってもおっかない師匠が必要なんです
わたしがどうしようもない人間だから安心できる観音さまが必要なんです
いつでもどこでもどんな場合でもわたしをじっと見ていてくれる仏さまが必要なんです
武井哲応老師随聞記 “泥水の中でも”
昔、中国に智門という和尚がいた。そこへ或僧がきて問うた。「蓮華未だ水を出でざる時如何?」智門が答えた。「レンゲ(蓮華)」するとまたその僧が尋ねた「出でて後如何?」
智門がまた答えた。「カショウ(荷葉)」〈荷葉〉とは蓮のことだ。蓮の異名だ。蓮華未だ水を出でざる時、というのは、つまり、蓮が水中にもぐっている時、ということだ。蓮というのは花の咲くまでは泥水の中にもぐっている。泥水とは人間の煩悩妄想(迷い)のことだ。この場合の蓮は自己だ。いつもいうように他人ごとじゃない、自己自身のことだ。自己が煩悩妄想の中にいる時はどうだ?ということだ。それが〈蓮が水を出でざる時〉だ。泥水につかっていようが蓮は蓮だ。泥水から出て花を咲かせた時、それは煩悩妄想(人間の迷いの世界)から脱却した世界だな。その時も蓮は蓮だ。つまり、泥水のの中につかっていようが、泥水から出て花を咲かせようが蓮はどこでも蓮だ。
ここを押さえることが先ず一番大事。自己が煩悩妄想の世界を迷っていようが、そこから抜け出して悟りの世界にいようが自己はいつでも自己だ。そこを一つしっかり押さえる。
“そこで安心してはいけない”
すると、人間て、いうものはすぐこう思う。
「ああ、そうか、泥水の中にいようが、そこから抜け出そうが、自己そのものには少しも変わりがないのか。そんなら何もアクセク骨折ることはない。と安易に考えてすぐそこへ腰を落着けてしまう。安心してしまう。また、その反対に、なんとか泥水から抜け出そうと、アセリにアセッていらいらしたり、欲求不満を起こしたりする。人間というのは、この二つのうちのどちらかに大体片寄る。レンゲは人間のようにそんなみっともないまねはしない。
レンゲは泥水の中にいる時も、水から出て花を咲かせる時も、いつでもどこでも、その時その時を、いのちいっぱいに、レンゲのいのちを生きている。
泥水の中にいる時は泥水の中で、いのちいっぱいに生きている。そして、時がくれば水から出て美しい花を咲かせる。
時がくればということは、つまり、時節因縁だ。時節因縁がくれば泥水の中の蓮が水から外へ出て花を咲かす。そして、時節因縁がくれば、やがてまた枯れて水の中にもぐる。それが蓮のいのちだ。蓮のいきざまだ。
そこまでまた、時節因縁というと、人間はすぐ「そうか」と安心する。時節因縁がくれば俺も花が咲く-なんて腰を落ち着けてしまう。時節因縁のいうのはそんなもんじゃない。泥水の中に腰を落ち着けることも、水から抜け出ようとアセリにアセルことも一切を放下して、自己が自己として、その時その時を、一所懸命に、いのちいっぱいに生きてゆくことだ。それが智門のレンゲだ。
ま、いま、〈智門の蓮華〉という有名な公案を採り上げて、コタコタ説明したけれど、そんな説明は本当はなんにもしなくてもいいのだ。
「蓮華未だ水を出でざる時如何」
「レンゲ(蓮華)」「出でて後如何」「カショウ(荷葉)」すっきりとこう言えばいい。