「無慈悲」で「刹那」な季節を生きる人たちへ
2018.11.11 11:29
土日合わせていったい、何時間をベッドで過ごしたのだろう?
というのを考えるのはナンセンスだ。なぜなら、
ほとんどベッドの住人として過ごしたのだから!
病気をする前の自分は、「頭至上主義」だったので、
どんなに心が摩耗しようと、
体が限界と悲鳴を上げようと、
それらを無慈悲に無視をして、「やると決めたからできないはずはない」という
頭が発する声に全身全霊で従うことができました。
それが、
病後は単純にそうしたくても、体が純粋についてこないという経験をしたことで
頭が決めたとおりにならない体、というものを意識するようになったのです。
体というのは今まで単純にフィジカルを指してきたけれど、
そうではなかった。
意思をつかさどる頭、どう感じるかの心、フィジカルとしての体、この3つそろった
状態を身体というのだとわかったのです。
ときに人生を四季になぞらえることがありますが、
そういう意味で私は今、人生の「秋」を歩き始めた季節を生きています。
無我夢中で過ぎた青年期には、目的のために手段を択ばない無慈悲さがありました。
それは、自分に対しても人に対しても。
無慈悲な季節は、言い換えて刹那の季節であり、
それはやはり眩しくも青春なのであって、まごうかたなき人生の「夏」です。
青く繁る葉という葉をすべて、光に向けて繁茂し尽くそうという
生命力のときを生きる若い人たちを見ながら、
その危うい均衡にハラハラさせられてしまう。
平均台を猛スピードで駆け抜けようとする刹那な表現を目の当たりにして
均衡をくずしたときのリスクを思いつつ、
かつて自分もそのようにするしかない日々を生きてきたことから
どうすることもできずに「夏」を見守るしかない「秋」なのでした。