違った飛び方のできるふたつの翼。
Naoyaです。
自転車を漕いでいたら、街角でミモザの木を見かけました。黄色い小さなポンポンのような花をたくさん咲かせていました。花屋だけでなく、コンビニでもミモザの切り花が売られていたし、よく映画を観に行く複合施設でも毎年恒例のミモザのお祭りのために、あちこちにミモザが飾られています。春だなぁと感じます。日本で春の色というとピンクをイメージする人が多いと思いますが、僕はミモザや菜の花のような鮮やかな黄色も春の色だと思っています。
今日は二十四節気の3番目、啓蟄です。冬眠していた虫たちが土から出てくる頃というタイミング。重いアウターが必要な寒い日もあれば、Tシャツだけで過ごしたい暖かい日もあって、どんどん春へと移ろっている今日この頃です。
「今後はもっと喋る活動を増やしたい」
さっき7年前のFacebookの投稿を目にして、そんなこと書いていたなぁと思い出しました。なんだかいろいろと人前で喋る機会が増えていた頃です。
では、今はどうなのか?
書くことも喋ることも分け隔てなく、そのときに必要な表現方法を使えばいいと思っています。違った飛び方のできるふたつの翼を使い分けているような感じです。
「Naoyaさん、最近書いてますか?」
以前、占星術のSUGARさんと話していたとき、そう聞かれたことがありました。ちょうど喋る機会が増えていたその頃だったと思います。書くことに飽きたから、喋ることをもっと増やそうと思っていたときでした。SUGARさんによると、僕はホロスコープ的に書く星の下に生まれているのだそうです。喋ることと書くことは同じようでいて、ちょっと違う「ハウス」を使っていることを説明してくれました。
「だからもっと書いた方がいいですよ」
SUGARさんにそう言われて、妙に腑に落ちたというかハッとさせられました。そこから喋る活動を増やしたい云々と思ったり、自分で自分をコントロールしたりするのをやめて、流れにゆだねることにしました。
うちの先祖には俳人がいて、松尾芭蕉が弟子の曾良と「奥の細道」の旅の途中で先祖の家に宿泊した…なんて話を、かつて祖母から聞いたことがありましたが、その血を引いていると勝手に思っています。うちの父はまったくそういうタイプではありませんでしたが、隔世遺伝という概念に当てはめれば納得できます。僕にとっての書くという行為は食事や歯磨き、入浴、あるいは呼吸や睡眠、排泄と同じライン上にあるものです。趣味でも仕事でもない感じ。たまたまそれがこれまで仕事に活かせているだけなのです。
YouTubeで定期的に喋る機会を得ているせいでしょうか。最近、書くという行為が改めていいなと思っています。文章を書くのが苦痛で書くのに一苦労する人もいますが、ふと書きたいと思ったときに、気軽に書くことができるタイプの人間で本当によかったと思っています。
書くことが好きな理由は、ひとりでも成立できることだからです。自分ひとりで書いて読んでも成立できますし、誰かが読めば結果として社交のきっかけにもなります。でも、始まりはひとりで孤独という部分に強く惹かれます。
僕は自分の文章がうまいと思ったことはありませんが、でも、伝わりやすくてわかりやすいとは思っています。意図的に笑わせるあざといコメディが僕は苦手なのですが、それと同じような感じで奇をてらった文章が苦手。そういう文章を目にすると、途端に思考回路や読解力が機能しなくなります。だから、自分が書く文章は至ってシンプルなものにしたいと思っています。
毎朝、Xでポストしている「今日のマナカード(通称:朝マナ)」もそうですし、この「森羅万象の聲」や映画の感想を投稿しているFilmarksもそうなのですが、基本的に誰かに読んでもらいたいというガツガツした欲求がなくて自分自身のために書いているので、たとえ読まれなくても反応がなくても特に気にしません。でも、誰かが読んでくれたならそれはそれで嬉しいです。自分が主人公でありたいとか、みんなのアイドル的な存在になりたい、注目されたいという人だと、読んでもらえないことに不満や寂しさ、不安や憤り、悔しさを感じるでしょう。そういうものがまったくない自分にとっては、自分が書くと決めた場で書きたいことを書きたいように書いて完結しているのです。それは自分の中に存在する小宇宙を自分で回している感覚にも似ています。