「備えられた食卓」
マタイの福音書 26章 17-30節
17. さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」
18. イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」
19. 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。
20. 夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。21. 皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」
22. 弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。
23. イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。
24. 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
25. すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。
26. また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
27. また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28. これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
29. わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」
30. そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。
聖餐礼拝メッセージ
2024年3月3日
マタイの福音書 26章 17-30節
「備えられた食卓」
今日は3月3日、日本の暦では桃の節句、ひな祭りの日ですね。スーパーに食材を買いに行きますと、ひな祭りフェアが開催されていました。お祝いのちらし寿司や卵焼きやデザート、ひなあられなどがいっぱい並んでいました。ピンクや黄色・黄緑など、春を先取りしたような鮮やかな色合いを見ているだけで、ワクワクうれしくなりました。
私たちの毎日の朝昼晩の普段のご飯の中にも時々、決められた時期にのみ頂く特別な食事がありますよね。日本の宗教や伝統にルーツがあったりしますが、大晦日の年越しそば、お正月のお節料理、1月7日の七草がゆなどなど。それらで使われる食材や料理には、願いや意味が込められています。「将来の見通しが良くなるように」という願いから、穴の開いたレンコンを食べるなどです。ダジャレの要素もいっぱいありますね。
聖書の中の食事、今日この後、私たちがあずかる聖餐式は、元をたどれば出エジプトを記念する過越の食事がルーツでした。ちょうどこれからの時期、春のお祭りです。そこで出される種なしパンや苦菜(エジプトでの苦しみを表す)、ほふられた子羊には大切な意味がありました。今日の交読箇所:出エジプト記12章に記されているように、一家の家長:おじいちゃんやお父さんは、過越の食事を主催し、整えさせ、このお祝いの意味・食事の意味を子どもたち・孫たちに語り聞かせました。
「種なしパンを食べるのは、過酷な奴隷生活で苦しめられていたエジプトを脱出する際に、神様に押し出されて、急いで出てきたからだよ。種(イースト菌)を入れて、ふくらむのを待っている時間的余裕はなかったんだ。あわててエジプトを出てきたんだ(出エジプト記12:33,34、39)。そして種なしパンは、私たちが神様の御前で罪赦されて、聖くあることを表しているんだよ。種を入れた小麦粉がどんどんふくらむように、私たちの内側から湧いてくる罪・悪い考えや言葉は、どんどんふくらんでいくよ。だから気を付けて。神様に赦していただいて、心の中の悪いパン種を無くしてもらおうね」
おじいちゃん・お父さんは、そんなふうに子どもたち・孫たちに伝え、それから、目の前の種なしパンを取って、「われらの神である主、世界の王、地よりパンをもたらしたあなたはほむべきかな」と神様に感謝し、神様をほめたたえ、パンを裂いて家族一人ひとりに手渡して、みんなで食べました。
最後の晩餐の席上、主イエス様もそうなさったでしょう。そして、その場でイエス様は、過越の食事に新しい意味を加えて、教えてくださいました。これからすぐにご自身が体験して行かれることを前もって示してくださったのです。十字架の死とそれによってもたらされる私たちの赦し、救いを示してくださいました。
種なしパンを弟子たちに手渡しながら、「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」(マタイ26:26)と。このパンのように、わたしのからだと心は、これから引き千切られていく。あなたたちのすべての罪を赦すために、身代わりに神の刑罰を全部引き受ける。十字架で父なる神からさばかれる。わたしは身と心を裂かれる。このことを忘れないように、いつも覚えているように。このパンを食べ続けなさい。これはわたしのからだだと、イエス様はおっしゃるのです。
そのパンを手にし、口に入れ、硬いパンを噛み千切って飲み込んでいきます。私たちの罪のために、十字架で引き千切られたイエス様をしっかりと覚えていくのです。
そして私たちは、ひとつのいのちのパンである主イエス様につながっている神の家族の一員であることを確認していくのです。
「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:51)
聖餐式はイエス様の裂かれた御身体と流された血潮を頂くことです。あずかるたびごとに、私たちは神様の側がとてつもない犠牲を払って、私たちを救い出してくださったこと。この私の罪を赦し、救い、永遠に生かすという確かなお約束を、神様が主導権をもって結んでくださったことを覚えていくのです。
続いて、ぶどう酒が入った杯を手にし、イエス様は感謝の祈りをささげます(マタイ26:27)。「なんじ、我らの神である主、世界の王はほむべきかな。なんじは、ぶどうの実を造り - 」と語られ、それからイエス様は、ぶどう酒に新しい意味を加えてくださいました。そこに表されているご自身の血潮の意味を教えてくださいます。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:27,28)
出エジプトの際、各家庭で子羊がほふられ、その血が家の門柱とかもいに塗られました。それをしなかったエジプトの全家庭には、神様の恐ろしいさばきが下り、長男という全長男の命が息絶えます。想像を絶する恐怖・悲鳴がエジプト中に起こりました。けれども、神様の命令に従って、神様の約束を信じて、子羊の血を塗ったイスラエルの家の前を、神様は過越してくださったのです。この衝撃的事件を経て、かたくななエジプトの王ファラオは心砕かれ、全イスラエル人の帰還を許したのです。
子羊の血は、神様の怒り・さばきから救い出し、いのちを与えるものでした。それからずっとイスラエルの民は、この事実を忘れないように過越の食事にあずかって来ました。そして過越でほふられ続けてきた身代わりの子羊は、神の子羊なるイエス・キリストを前もって指し示すものでした。イエス様こそ一度限りの完全な身代わりの子羊として、十字架で肉を裂かれ、血を流し、いのちをささげてくださったお方なのです。
イエス様が、かかげられた杯の中身は赤いぶどう酒=「血」の色です。そして「みな、この杯から飲みなさい」とおっしゃいます。イエス様はどうしてここで「このぶどう酒を」と語らずに、「この杯から」とおっしゃったのでしょうか? それは弟子たちの注意を「イエス様の杯」に向けさせたかったからです。過越の食事では、テーブルの上に各自の杯が置かれていました。イエス様が「この杯」と強調されたのは、すでに弟子たちの手元にあるそれぞれの杯ではなく、イエス様から与えられる「ひとつの杯」に目を向けさせるためでした。イエス様の手から受け取る杯が何よりも大事なのです。
この食事の背後で恐ろしい企みが練られていました。イエス様を裏切り、銀貨30枚(今の金額で言えば、120万円ほど)でイエス様の身柄を売り飛ばす算段が付いてました(マタイ26:14-16)。陰でこそこそと動き、練られていたイエス様殺害計画。しかし、イエス様はすべてお見通しでした。すべて分かった上で、イエス様は十字架に向かって行かれたのです。
イエス様が十字架によってもたらしてくださった救いを私たちは頂くのです。イエス様が結んでくださった新しい契約を再確認していくのです。聖餐式のたびごとに、私たちは自らの罪の悲惨さを知り、この罪を赦すためにイエス様が十字架上で血を流し、御身体を裂かれたこと。そして十字架での身代わりの死によって、私たちの罪の赦しがもうすでに完成されていること。この救いを受け取ってほしいと、イエス様が私たちのために用意し、待っていてくださることを覚えていくのです。
聖餐式はさらに、私たちの今現在とやがて将来の確かな希望を表しています。「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」(マタイ26:29)
最後の晩餐でした。翌日の午後3時、イエス様は十字架で死なれました。もう一緒にご飯を食べることはないと思いました。悲しい別れの食事だったと。しかし事実は違いました。三日後、主はよみがえられたのす。復活されたイエス様は、弟子たちの目の前で焼き魚をむしゃむしゃと召し上がられました(ルカ24:41-43、ヨハネ21:9-13)。
父の御国でぶどう酒・ぶどうジュースを一緒に飲んで楽しむ。イエス様はそうおっしゃいました。それは、やがて天国でうれしいイエス様との対面が待っていて、祝宴にあずかるという確かな希望です。同時に、今この時も、この聖餐礼拝の中にも、私たちの教会のただ中にも、神の家族の中心に主イエス様がご臨在くださっていることではないでしょうか。ルカの福音書17:20,21、
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
あなた方、私たちのただ中に神の国がある。神の家族の中に神の国が実現しています。その中央に主イエス様がいてくださいます。2千年前の受難週のエルサレムで会場を用意し、弟子たちを遣わして食卓を整えさせ、過越の食事を主催してくださったイエス様が、今日もこれからあずかる聖餐式のただ中にいてくださることを信じ、待ち望みましょう。
イエス様が食卓を備えてくださり、「食べなさい、飲みなさい」と私たちに給仕し、もてなしてくださっています。このことを頭の中でイメージする中で、まるでイエス様がエプロンを身にまとい、しゃもじを手にして、お釜からご飯をよそってくださって、「いっぱい食べなさい」と手渡してくださっているような気がしてきました。さらに急須からあったかいお茶を湯呑に注ぎ、「美味しいお茶だよ。ほっとするよ。一緒に飲もう」とさそってくださっているような思いがしました。
備えられ、整えられている食卓。それは私たちの赦し・救い・永遠のいのちが、一方的な神様からの恵みであることを表しています。放蕩息子がぼろぼろに落ちぶれた姿でお父さんのところに帰って来た時、お父さんは無条件で息子を抱きしめ、盛大なお祝いの宴会を準備してくれました(ルカ15:20-24)。
今日も、イエス様はあなたが帰ってくるのを待っていてくださいます。ほかほかの美味しいいのちのパンと、からからに渇き切ったあなたのたましいをうるおす飲み物を準備して待っていてくださいます。
「ただいまー、いただきまーす」と、この喜びの食卓にあずかっていきましょう。
祈ります。