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スポーツちょっといい話 ~ 還暦野球オヤジのスポーツ・コラム~

「ブログの更新がない!?」

2024.03.04 02:21

 3月2日(土)のこと、西脇公園野球場の本部席で定番の弁当(ほっともっと)を食べていたら来客があった。訪問者は元マスコミ関係のY氏だった。「いやぁ1か月もblogの更新がなされてないから体調でも悪いのかと」思ってのお伺いだった。元気なわたしを確認するとさっと帰って行かれたが、後ろ姿に頭を下げた。こういう知人(読者)がいる幸せを感謝した。

 ブログ更新の余裕もなく、連日、故・今里 純先生の評伝「ベースボールと野球を繋いだ男」の執筆にかかっている。学生時代の逸話から、英語と野球が結びついた経緯まで、正確な年代や資料を整理、確認しながらの執筆は初めての経験だ。多くの事実がわかってきた。

 世間に知られることなく12年間、今里さんは毎夜毎夜、仕事後の時間をアメリカからの短波放送受信に費やした。ラジオから流れる大リーグ中継に感動しながら、英語を学び、戦後の自由や民主主義を肌で感じていた。息子さんの言葉が重い。「父は当時、西脇市には本当の理解者はいなかったと思います」。

 今里先生は後に語っている。「わたしはケーシー・ステンゲル(ニューヨーク・ヤンキース監督)やスタン・ミュージアル(セントルイス・カージナルスの名選手)の手の温もりを感じながらラジオを聴き、スコアをつけていた」と(握手をしているんですね)。「日本野球には興味がなかった」男が逆輸入された。

 1958(昭和33)年にセントルイス・カージナルスが来日し、ミュージアルはじめ多くの選手が「ドクター・イマザトに会いたい」と申し出て、日本球界は彼の存在を知った。カージナルス側からは吉田 義男(阪神)や山内 一弘選手(大毎)を今里に紹介した。アメリカは今里先生に日米両球界の橋渡し役をしてもらう意図だったと思われるが、日本のコミッショナー事務局の井原 宏事務局長と引き合わせている。今里先生の人生が大きく変わる記念の年、昭和33年だった。長嶋 茂雄巨人入団の年のこと。

 やっと75頁まで進み、今は阪神球団が初の海外キャンプを行ったレークランド(フロリダ)の項まで筆が走った。今里先生が数年にわたって文通をしていた人物がデトロイト・タイガースの職員になり、やがてGM(ゼネンラル・マネージャー)を経て球団代表となったりして、大リーグに幅広い人脈が出来ていった。すごい仕事をした人だった。苦闘しながらも故人の業績を辿っていると、「研究」の楽しさもわかってくる。

 その充実感は古希野球のピッチングにも好影響があって、2月14日還暦の練習試合(川西・向陽台)では1イニングながら速球とカーブが予想以上に良かった。早い仕上がりだった。7番一塁で出場の機会を得て、打っては3打数の2安打、センター前とレフトオーバー。さあ3月11日から古希の公式戦が始まるぞ、西脇軟式野球協会も学童の試合から今シーズンがスタートだ、がんばろう!と、思った矢先に「コロナ」。

 2月21日、友人二人を誘って妻と4人、焼き肉&お好み焼きの「楽しい晩餐」をした。その夜から体調がおかしくなって検査をしたら、見事に試薬の縦線が二本、ばっちりと赤く描かれた。「コロナ陽性」。免疫力が高いはずだから「かかるわけがない」と思っていた男が、妻と友人二人(とその奥さんたちも)巻き込んでの大失態。どこで菌をもらったかがわからない。わたしの発熱は一夜だけで丸5日をもって完治したが、持病を持つ妻は苦しい一夜を過ごした。コロナにはまだまだ油断召されるな、そう伝えたい。

 ブログ未更新にはこういうアクシデントもあったのだ。人々は「やはり健康が一番ですね」と口にする。健康体の人は「健康」のことは考えない、当然すぎることだから。しかしねえ、今回老夫婦?が揃って静養していると、何年後か何十年後かの生活が予想されて「ゾッとする」と思ったのも確か。あらためて健康の大切さを痛感した日々だった。

 だが幸運だった。古希野球の公式戦前のコロナ。逆に疲労が抜けてよい結果を生みそうだなと感じている。妻も仕事(障害者施設)に出た。野球協会も土日の試合を消化した。トレーニングも復活した。やっとシーズン開幕の気配だ。それにしてもなんでこんなに寒い?雨が多い?こういう季節こそみなさん、「健康」に気をつけましょう。