法友を見送りに、大磯。
【長文】法友を見送りに、大磯まで行ってきました。
およそ20年前、永平寺の山門頭に立つ彼を、私は指導役として山内に迎え入れました。ドキュメンタリーでよく見る「尊候何しにきた」というやりとりをしたわけですが、当時の彼は還暦前。教職を早期で退き、一念発起して永平寺の門を叩いた「老齢の雲水」でした。
私はその一ヶ月後に永平寺を下りる予定で、後進に自身の経験を余すことなく伝えようと、厳しくも「愛情」を持って指導したつもりでした。
彼らの見習い期間が終わるのを見届けて、永平寺から去る私が山門で草鞋の紐を結んでいると、彼が私の傍に寄って来て、押し黙ったまま私の旅支度を見守ってくれました。
「これから頑張って。ぜひ〝楽しい〟(と後から思える)修行を」。
私は彼にそう声をかけ、永平寺を去りました。
それが今生の別れだと思っていたのですが、彼とは不思議と縁がつながり、その後に私がいた別の道場に彼が入って来ました。偶然の再会を喜びつつ、永平寺では十分に出来なかった言語と感情のコミュニケーションを交わし合いました。
当時、私は何者にもなれる気がして、何事にもひた向きでした。そんな私と彼は、不思議と波長が合いました。
初夏の恐山を、一緒に参拝したこともありました。
島根に来た時、車内で聴いた「安来のおじ」の曲をいたく気に入り、道中ずっと片言の出雲弁でおじの口真似をしていました。
私の仏前結婚式では、呼んでないのに気がついたら一般席で参列してました。
やがて彼は家族と住む大磯から、単身で下関に移り、寺の住職になりました。伝え聞くところでは、彼はずっとひた向きのようでした。
一方の私は、しばらく会わない間に波長が合わなくなったのか、すっかり「中年の危機」にまみれていました。
「大磯で荼毘に付される」との連絡があった時、「忙しい」ことを言い訳にして、供養に行く機会を別に設けることも考えました。
でも、今彼に会いに行かないと、何か大切なものを一生失ったままにしてしまう。自らを奮い起こすように、飛行機に飛び乗りました。
棺桶の中で静かに眠る彼を見て、かつてのひた向きだった自分を思い出しながら、師父より年長にも関わらず、私以上にひた向きなエネルギー体であり続けた彼の凄さを、改めて痛感しました。
彼と過ごした時間は、私にとって紛れもない「青春時代」でした。そして今の私は、当時の彼よりまだ若い。
「中年の危機とか言ってたら、彼にドヤされるな」。
満員の東海道線で僧衣をクシャクシャにしながら、「中年の危機」に立ち向かう山門頭に立つ決意をしました。(住職 記)