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偉人『高峰譲吉 幼少期編』

2024.04.05 00:00

幕末から明治・大正と激動の時代を生きた高峰譲吉はサムライ科学者、バイオテクノロジーの父、国際結婚第1号、実業家、工学博士及び薬学博士、タカジアスターゼ、アドレナリンを生み出した人物であり、晩年は日米の友好の架け橋になろう、そして日本人の心とも言える桜を見てもらいたいと桜の木を植樹など様々な活動に尽力した人物である。今回は桜に関する記事を書き記しているため遠回り感のする偉人選びではあるが、高峰譲吉という人物にスポットを当て彼を突き動かした幼少期の出来事を紐解き志高き人にするための導き方を考えてみようではないか。


1854年11月3日富山県高岡市御馬出町で誕生した。その後金沢に転居した。当時の金沢藩主は学問を奨励し学ぶ土壌に恵まれていた。父高峰精一は加賀藩主の医師であり化学にも精通した人物である。また母幸子の実家は日本酒の醸造元であったため譲吉は幼い頃から醸造技術と医学に興味を持っていた。

彼の人生を決定的にする衝撃的な光景が広がったのは1858年7月11日の夜のことである。そしてその光景を意図して目にさせたのは父である。同年2月に金沢は60年ぶりの大地震に見舞われ、5月からは長雨が続き大凶作となり米の値上がりにより餓死寸前の人々で城下は溢れていた。餓死寸前の町民と農民2000人余りが立ち入り御法度の卯辰山に上り、空腹を訴える泣き一揆を起こしたのである。父精一は4歳になったばかりの丈吉を背負い医者の子として今夜のことを見せてなくてはならないと考え、松明を掲げて泣き叫ぶ人々の中に飛び込みその尋常ではない様子を見聞きさせ、父は人々の泣き声に負けぬ大きな声でこう叫んでいたという。「わしらは代々医者の家じゃ、医術の前には貧富の差はない。お前が大きゅうなったら今夜のような人たちを救える医者になれ。」と。この父の言葉とその言葉以上に危機として迫る人々の命とその魂の叫びに衝撃を受けた譲吉は、生涯このことを胸に刻み人々のため国のためにと実行した人物である。命を脅かされる人々の鬼気迫る状況を目の当たりにしたことがないため想像するしかないのであるが、果たして4歳になったばかりの子供にその状況を見せて良いのかと一瞬頭を過った。一方でもしかすると夜陰であり松明の明かりだけで明瞭な視覚認知ができないからこそトラウマにならずに済んだのかもしれない、また年齢が夢と現実を行き来する3歳に近い4歳であったことが幸だったのではないだろうか。もしその泣き一揆が煌々と明るい日中であれば夢と現実を行き来する年齢であっても視覚重視の子供にとっては難しい問題を引き起こしていたであろう。また聴覚という点からも人が人ではないような叫び声をあげていたら耳を塞ぎたくなる経験であったに違いないが、ではなぜ譲吉はそのことがトラウマにならず大勢の人々を助けるという思考に結びついていったのかを考えてみよう。

その理由は譲吉の父精一は加賀藩の御典医であり医術だけではなく舎蜜(せいみ)という西洋でいう所の化学にも精通していたことが深く関係したと考えている。精一は幕末時であり国を守るための火薬の主成分となる硝石を養蚕農家で扶養となった蚕を使用し作ることで藩に貢献し、尚且つ貧しい農家の米年貢の代わりとして納めることが出来るよう藩に掛け合ったバランスの取れた人物である。譲吉はあの腐った蛹からなぜキラキラとした美しい硝石が出来るのかを父に訊ねた。父はそれが舎密(化学)であることを伝え、息子の科学に対する関心と興味の芽を育てたのである。ここで譲吉は多くの飢えた人々を救うのは医術ではなく化学であると気づいたという。幼少期から少年にかけてのゴールデンエイジというタイミングで『なぜ、どうして、どのように』などという疑問を十分に育てそれを実際に行動することができれば、大人でも気づくことが難しい自らの人生を決定するような確信を得ることが出来るのだと考える。志の高い親に出会うことも重要なことなのだ。

このような学びができる譲吉は9歳で加賀藩の藩校の明倫堂で学び、11歳で長崎へ国内留学し致遠館で外国人教師から英語で西洋文化や文明について学んだ。15歳になり科学技術をの研究・教育を行う大阪舎蜜局で聴講生として学び、化学分野を学び国のために働く決意をする。その後工部大学校(現・東京大学工学部)に第一期生として入学し、教授はすべて外国人で講義も使用する教科書もすべて英語という環境で学び、応用科学化を主席で卒業する。


1880年26歳で政府派遣の留学生として英国スコットランドの工業都市グラスコーへ留学する。実際にガス灯や車道レールなどが鉄でできており発展している英国の凄さを目の当たりにした。工場で働きながら工業技術を実際に学び、大学では採点端の科学や特許の重要性について学んだのである。また小さなリン酸肥料で作物の収穫が増えることを知り、休暇を利用してグラスゴー以外にも赴きリン酸肥料の製造工業へも足を運んだ。

帰国後農商務省の職員となった丈吉は1884年再びアメリカ・ニューオリンズで行われた綿100年を記念する産業博覧会へ参加するため渡米した。産業博覧会に出品した麦芽酵素製剤は効力が認められのちの消化剤(胃腸薬)として現在でも使われている『タカヂアスターゼ』である。この時博覧会会場で人造肥料のもととなるリン鉱石を発見し、採掘先のサウスカロライナ州チャールストンに買い付けに出かける。

当時長期出張をしていたニューオリンズのヒッチ家に下宿をし、その家の長女キャロラインと婚約をした。また全財産をはたきリン鉱石、リン酸肥料を大量買い付けし帰国する。帰国後譲吉は日本の農業発展のため持ち帰ったリン鉱石とリン酸肥料で人造肥料を開発し、日本の国力を上げる農業の発展に尽力した。1887年渋沢栄一らと共に人口肥料会社を立ち上げるため視察と機械輸入のためヨーロッパへ向かい、その後キャロラインと結婚するためにアメリカに向かう。帰国後東京人造肥料会社を設立し奔走する。あの渋沢栄一がなぜ賛同したのかといえば彼が農民の出身であったとも言えるが、譲吉の並々ならぬ熱意と実証実験を形にしたデーターの存在を渋沢栄一は緻密に検証したという。アポ無しで渋沢栄一の元を訪れていなければ日本の農業の発展もなければ日産株式会社もなかったであろう。

ではなぜ譲吉がこれほどまでに熱き思いに動かされていたのかを再度考えてみよう。

これまでの私の記事を読んでいる方であればその素養が形成されるのは乳児期の原始反射への働きかけと幼児期から学童期のゴールデンエイジ期に「なぜ、どうして、どのように、どうやって」を生み出せる環境で導き、その考えたこと感じたこと思ったこと想像したこと全てを実際に経験として積み上げるべきであることは容易に想像できるであろう。しかしそれだけで世界を変えるような人物になるのは難しいのである。親の職業や思考が深く関係していることを避けては通れないことが今回の偉人高峰譲吉から知り得たと思う。しかしそれだけではなく金沢藩という向学心に燃えた藩であったが故学ぶ環境に恵まれていたとも言える。そう考えると沖縄の学力の低下は先の世界大戦で教育者となるべく優秀な人材が学徒動員され、教師生徒共に失ったことが影響していると考える。そこに気づいていたはずの大先輩らがいたのにも関わらず放置してしまったことが口惜しい。しかし時代も変わり経済的に留学ができない子供達の窓口を開こうと沖縄県内に居住している外国人のもとへホームステイする取り組みも始まっているらしい。このような発想の転換を教育に結びつけてくださった方々のような大人がどんどんと出てくれば沖縄のチャンスは無尽蔵に広がるであろう。博識な親でなくても経済的に恵まれなくても何かしらの公的手段を作ってあげれば、子供本人の努力という点でカバーは可能かと考える。そしてこれからの子供達に必要なことは常識が常識ではない豊かな発想で常識を覆すことができる力を身につけることだ。

一方カエルの子供はカエルと親が考えているようではダメだとも付け加えておこう。私はカエルかもしれないが子供は私以上の何かを成し遂げる人物になる可能性を秘めていると信じなければならぬということである。そして親自身も学びを子供任せにするのではなく、親として学び直しをして欲しいと思う。死すまで人生は学びであると大先輩の言葉を思い出すたびにそうである、そうでなけれなばならないと痛感するのである。親の常に学ぶ姿を見る子供は自然と親の姿から学ぶことは多いいはずである。

高峰譲吉は科学を愛し何よりも命の大切さを知り、多くの飢えた人々一度にを助ける譲吉は化学を志し実行した人物である。そして何よりも日本人の誇りを持ち、日本の行く末を案じた人物なのだ。日米親睦の証であるワシントンのポトマックの桜を見てどのくらいの日本人が高峰譲吉に思いを馳せ、誇り高きに日本人として桜を眺めているだろう。ワシントンにいる人物にはその高峰譲吉の思いを汲んで勉学に励んで欲しいものである。