鑑賞から実作へ
https://note.com/hitone_idobata/n/n5fcdaa08cd77 【4C読書:「実作俳句入門」を読んで、】より
俳句を始めて2年4か月。毎月の句会のために五句を作ることも大変だ。
考えて考えて、思い浮かばない。
考えるほどに月並みな、これまで自分が繰り返し使ってきた発想と言葉が出てくるだけ。
教えてください、、、と 図書館に出かけて 「作り方」「入門」「コツ」を書いている本を読む、読む、読む。
何のために俳句を作るのか?
本を開くと、第1章に「何のために俳句を作るのか?」とある。
俳句を始めた動機について、
1.友人にすすめられて、面白そうだから始めた。
2.カルチャー教室でなにか学ぼうと思って「俳句」講座があった。
3.勤め先の上司にすすめられ、付き合いで仕方なく句会にでるようになった。
その後はなんとなくダラダラと続けたり、あるいは、作品を褒められて病みつきになったり。 ただ、漫然と作句を続けても、おいそれと上手くいくものではないですよ。「なぜ作る?」を、考えてください。と著者は言います。
自分のために作る
「俳句を作るのは、誰のためでもない、自分のためだ」という自覚を強くもつことが肝要
「自覚」を「強く」もつ。
「誰かに誘われて始めた」としても、「俳句をやって見よう」と思った時から、もはや「自分のために」作り始めたのだ、と著者は言います。
「自分のため」とは、自己表現でしょうか?
俳句は、日本だけでなく海外でも評価されている文芸。絵や書、詩や小説、などの作品より手軽で、何とかなりそう。俳句は 五七五の十七字。それは誰でも知っていること。
私などは、五七五で何かを表すことが出来るのなら、しめたもの! 自分の作品を残すことが出来たら嬉しいと思いました。
閑さや岩にしみ入る蝉の声〈芭蕉〉 雀の子そこのけそこのけお馬が通る〈一茶〉
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〈子規〉 これらの句は、みんなが知っている。
なん百年経っても「あれは〈芭蕉〉の句 だ」と覚えてもらえる素晴らしさ。
俳句は、自分がつづる、自分の生の証といっていいでしょう。この過酷な世の中を、自分がどう生きているということの証。そしてまた、そうした自分を見つめ、みずからを慈しむ気持ち、それが俳句の根底にないと、読む人の心をうつ俳句は作れません。
「自分のために」とは「自愛のこころ」と教えられます。だから「自分の感情を表現する」ことが大切と思います。「いま、私は何を感じたのか?」
私は、多くの場合、 目で見たことを「説明」しています。でも、私が見たものを見たままに表現しても、他の人には面白くありませんね。写メする方が良く伝わる。
そもそも、写真を十七字で説明できるものでもない。
それより、いまの私の感動を十七字で表現出来たら素晴らしい。
どうやら、日本語は 五七五の韻文で 感動を表現できるようです。
季語は離して使う
俳句に季語を使うことは、大切なお約束。 感動を 五七五で表現するために、私たちの日本語のこころに宿る情景を「季語」が引き出してくれる。
「柿」「蝉」「雀の子」
この季語を聞くと、私の脳裏には 風景や情景を想像できます。
「柿」の季節感、空気感、色、あたりの景色、手の感触、時間帯、などなど。
著者は言います。「この土手に登るべからず警視庁」これはフレーズであって俳句ではありません。この「警視庁」を季語に替えてみると、
この土手に登るべからず春の雲 この土手に登るべからず卒業歌
この土手に登るべからず啄木忌
どれが良いか? と問われれば、、、「春の雲」は情景「卒業歌」は情景+心象
「啄木忌」は心象 を表しています。
俳句は「自分のために作る」のですから、「ああ、今日は啄木忌だったな」と気づいた作者の想い作者の内面の部分を表している「啄木忌」を選べば、一句の深みという点からいえば、いっそうよろしい。「季語」とその他とを「離して使う」ことで深みのある句になります
教えていただきました。感謝します
今日も 本から大切なことを教えてもらいました。ありがとうございます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
https://note.com/asakawww/n/n742034ee2e97?magazine_key=mcc728061f00b 【鑑賞から実作へ 楽しい俳句(第1741回資料)】より
このnoteには、河北TBCカルチャー「楽しい俳句」の復習やときどき教材もアップしていきます。受講生の皆様、これから受講をお考えの皆様、ご活用ください。
基本的には、本講座は句会形式で進めて、句会の中でときどき講義的な内容をお話ししていきます。
そういうこともあって頻繁に公開はできないかもしれません(し、箇条書き程度になることも多いと思いますが)があしからずご了承ください……。
目次
〇観念的な難解句と、一見難解だが写生の句を見極めよう
〇理屈の上での「わからなさ」はむしろ「伝統的」な詩的奥行き
〇「わからなさ」に出会ったとき、何が「わからない」のか考えないのは、俳句への態度として不誠実
〇良い鑑賞、良い句とは……
〇観念的な難解句と、一見難解だが写生の句を見極めよう
見にくいですが、下の記事をみてください。
画像
阿部みどり女「句の鑑賞」(「駒草」昭和36年4月号)
「わからない」で済ませて読めていない句、取りこぼしている句はありませんか?
句会では、「よくわかったのでいただきました」「共感します」というコメントがあります。「共感」は大事です。でも逆に、本当はよく読めばわかるはずなのに「わからない」と思い込んでしまっていることはないでしょうか、
俳句は省略の文芸であり、特有の言い回しもあるので、経験不足で「わからない」場合もあります。
それに、わかる句だけが良い句なのでしょうか。もちろんわかりやすくて深い句は最高です。でも、わかりすぎて陳腐な句もあります。わかりやすくしようとして、わかるけれども韻文としての特性が死んでしまっている句もあります。
わかりにくい句にだって、理解不能で奇怪な句もありますが、難しいが奥行きのある良い句もあります。
読み手によって、わかりやすくて共感できると思うか、陳腐な句と捉えるかは違ってきますし、経験を重ねて、「わからない」が「わかる」になることもあります。
今回は、「わかる」だけを判断基準にするのは危険です、というお話です。
〇理屈の上での「わからなさ」はむしろ「伝統的」な詩的奥行き
そもそも、俳句は「わかりやすいのがいい」というのは「平談俗語を用いる」という理念によると思います。雅語に依らない、ということです。
日常の言葉で直叙表現するという価値は、ひょっとすると紀貫之「仮名序」の歌の分類にある「ただごと歌」にまで遡れるかもしれません。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
「病牀六尺」
子規の句、理屈で考えると「だから何?」と思う人も多いと思います。事実、この句を巡っては駄句か秀句かの論争も起きました。ただ、鶏頭という物の存在感や、「ありぬべし」と言い切った作者の呼吸は、何か伝わるのではないでしょうか。どこが良い、とうまく言えない名句もあるのです。
また、俳句のわかる/わからないを理屈で考えるのも一考を要します。
俳句は、眼前の現象を推論によって説明するのではなく、直観で捉えて言い切るのが重要な文芸だからです。芭蕉の言葉として「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」(「赤さうし」)と伝えられていますが、その芭蕉の句にこんな句があります。
海暮れて鴨の聲ほのかに白し 芭蕉
「こがらし紀行」
芭蕉の句も、理屈で考えるとどうして聴覚が見えるのか「理解できない」と思ってしまうでしょう。でも、あれこれ言わずとも心をまっさらにすれば感覚的にわかる句だとも思います。わからない人はわからなくても良い、そういう句が、古典として残るようにも思われます。
〇「わからなさ」に出会ったとき、何が「わからない」のか考えないのは、俳句への態度として不誠実
翻って俳句のわからなさを考えてみると、
① 理解や解釈のわからなさ
② 実感や情感のわからなさ
③ 評価していいのかどうかのわからなさ
ということがあるように思います。
もし、句会で、「何か気になるのだけどわからない、取るのをやめておくか」と思ったら、上の3つのどのわからなさか考えて、次のように自問してみてください。
1つ目なら、内容が本当に理解不能なのか、それとも自分の俳句読解力が低いのか。
2つ目なら、本当に無味乾燥だったりリアリティ皆無なのか、それとも自分の想像力や感受性の乏しさなのか。
3つ目なら、俳句への理解や価値基準が、偏りすぎていないかどうか。
もちろんそれで、「わからないし良くない句だ」と判断することは私も多いです。でも、自分の読みの力を常に反省することが、実はとても大事だと思います。
〇良い鑑賞、良い句とは……
まとめに近づきますが、大切なことは
× 意味が「わかる」
〇 感動に「ひきこまれる」(伝わる)
です。
句を評価するときは、わかるかどうかより
引き込まれたかどうかを優先しましょう。部分的にでも、わかるところを手がかりにして、「わからないけど良い」に迫るのが良い鑑賞だと思います。
そして、頭でこうだと決めつけて共感される「わかりやすさ」は、作者にも読み手にも、底の浅い自己満足しかもたらさないことにも注意を。
暮れて来て戻る巣探すはぐれ鴨
詠み人知らず
はぐれ鴨、よくわかります。鴨に、思いを寄せているのもよくわかる。でも、鴨は本当に巣を「探」しているのでしょうか。中途半端に見た決めつけかもしれません。要は、言い過ぎ。よくわかるけど冗長です。
夕方の群れに近づくはぐれ鴨
詠み人知らず
より観察と省略を効かせると、読者が想像し、共感を働かせる余地が違います。
また、ありがちな内容でも、作者の心の深さが伝われば、それはまさに「平明に、深く」ということ。安易に「わかりすぎる」というのも考えものです。
枯るゝ庭ものの草紙にあるがごと 高浜虚子
虚子五句集
景色が絵本のようだ、というのはありがちな発想です。でも、枯れた冬の庭だからこそ、「ものの草紙」によって、枯れの景色にも意外な明るさがあることを気づかせてくれます。古くても一点の新しみがあるかどうか、こればかりは俳句に慣れるしかないのですが。
というわけで、良い俳句とは「意味や理屈がわかる」とイコールではないこと、頭に入れて選句や評、そして作句にチャレンジしていただきたいと思います。