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俳句を愛するということ

2024.10.07 05:36

Facebookj詩人 木村浩欣さん投稿記事

お願いだから、みんな和歌と俳句を創って欲しい。和歌・俳句には確かに上手いと下手があるよ。しかし、上手けりゃ良いってものではないの。

肝心なことは和歌と俳句を創る行動を通して、場とファクトと自分の心を観察する意識が太く成ることなんです。

天地自然が如何に美しい世界かが、如実に実感できるし、美しい和歌と俳句を創るために

様々な人格的努力が産まれる。正直さと愛の在る「言い回し」が、うまれる。

技巧にこって難しい古語を多用してそれで正直さや誠実な美を見失う人もいるのです。

和歌と俳句は日本の神仏習合の歴史と生活習慣に直結しています。

御先祖様の正直さや「温愛」が、自分の言葉を通して今ここの自分の生活ににじみ出てきます。ぜひ和歌と俳句を楽しんでほしい。

美しくない生活経験など一つもない。

和歌と俳句は本来の日本人の生活の一部なんです。

合掌・感謝・浩欣。


http://100nenhaiku.marukobo.com/?eid=1293895 【俳句を愛するということ】より

俳句を愛する私たちは、お互いの作品を信頼することを土台としています。俳句には「類想類句」という言葉があります。

文字通り、同類の発想・同類の句という意味です。似たような発想の元に、似たような句ができるのは、短詩系文学の宿命です。ましてや俳句はたった十七音。俳句を作るということは「類想類句」との闘いなのです。

しかし「類想類句」を恐れていては、俳句は作れません。日本中いや世界中で作られている俳句、詩歌すべてを網羅するデータベースを作ることは不可能。そんなことに奔走するのは、本末転倒。

俳句を愛する私たちは、自分の心を表現したくて俳句を作る。あくまでもそれが第一義です。

「類想類句」は当然生まれます。

だから、俳句を愛する私たちは、他の人とは違った表現、多彩なオリジナリティと究極のリアリティを求めて研鑽し合うのです。数日前の本ブログ記事への書き込み。福岡の理酔くんが書いてくれてました。ニックの音楽に対する姿勢に触れたコメントです。

「ニックさんの音楽に対する姿勢に圧倒されます、変化させようもない名曲のスコアにどう己の音をぶちこむのかを問い実行する。スコアの忠実な再現者ではない表現者の闘いに感銘します。

俳句も同じだ、昔からある季語に対峙して如何に新しい表現をぶつけるか。古い革袋には新しい酒ではなくて、誰も知らない酒を注ぎ込まなくてはと思いを新たにしました。」

そう、これが俳句を愛する私たちが求めるものです。

とはいえ、たった十七音しかない俳句ですから、自分が創った句が誰かの句に類似していた!ということはよくあります。あるいは、その句がいつかどこかの段階で自分の脳に刷り込まれていて、自分の句のような顔をして後日現れるということもあります。私も経験したこと、何度もあります。

最初に経験したのは三十年前。まだ初心の頃です。

先輩方と吟行に行きました。気持ちのよい秋の日でした。座り心地のよい石を見つけてそこに座り、句帳を開いていると、頭上から大きな葉が降ってくるのに気づきました。大きな葉でした。秋のひかりを受けながら、きらりきらりと落ちてくるのです。なんて美しい葉なんだろうと感嘆しつつ眺めていると、心の奥底から一片の詩句が浮かび上がりました。

「日当たりながら落ちにけり」

うん、これはまさにこの葉の描写だ!と自分なりに納得しました。あとはこの葉がなんという植物の葉なのか、誰かに聞けばいいだけです。近くを通りかかった、句会の先輩に「これはなんという木の葉っぱですか。」すると先輩は、笑いながら「いつきさん、この葉の名前を知らないのか。桐だよ、桐一葉だよ」と教えて下さいました。へえ、これが桐か。そういえば「桐一葉」って季語が歳時記に載ってたなあ。

「桐一葉日当たりながら落ちにけり」

うん、佳い句を授かった!と思った瞬間、脳内に妙な波長が起こりました。ん?……これは。次の瞬間、私は唖然としました。これは高浜虚子の句だったことに気づいたからです。この葉の名前が分からない状態で、中七下五の詩句が浮かぶ! これぞ、虚子の言葉の力なんだ!と、ひれ伏す思いでした。

俳句を続けていれば、誰にでもこんな経験はあります。

俳句を愛する私たちは、お互いの作品を信頼することを土台としています。

誰かの作品が別の誰かの作品に酷似している。それを論って批判するのは、大人げの無い行為です。その先行句を元々知らないケースもあれば、全くの偶然ということもあるのですから、悪意を前提としての批判は無粋です。そんな時は、ご本人にそっと知らせてあげればよいのです。どこそこに発表された○○さんの句にこんなのがありますよ、と。俳句の世界では、後に発表した作者がその作品を取り下げる、のが暗黙のルール。作者の側は「先行句、知らせていただいてありがとう」と、知らせてくれた人にお礼を言う。それで何の問題もないのです。

時に反論する人もいます。

「意図的に盗作をする人を許し続けるのですか!?」

そのような人は、俳句を愛している人ではなく、誉められることを愛している人です。

そのような人たちは、いずれ俳句に捨てられます。

実に傷ましいことです。

痛々しいことです。

俳句を愛する私たちは、俳句に捨てられたくない。

だから、真摯に俳句と立ち向かう。

だから、真剣に俳句と遊ぶのです。

俳句を愛する私たちは、信頼のもとにつながっていなくてはいけません。

清らかな思いで、俳句のある人生を共に歩いてまいりましょう。


https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202208/202208_12_jp.html 【自然に対する深い愛情を表現した俳人:加賀の千代女】より

自然に対する深い愛情を表現した俳句を詠み、俳句を通じて国際交流の先駆けを果たしたとされる俳人、加賀の千代女(かがの ちよじょ。1703〜1775年)を紹介する。

加賀の千代女(以下「千代女」)は、1703年、加賀国松任(まっとう)(現在の石川県白山市(はくさんし))の、掛け軸などを仕立てる表具屋の娘として生まれた。千代女は、幼い頃から父が集めた書画に囲まれて育ち、6歳*の頃にはすでに俳句を詠んでいたと伝わっている。

17歳のときには、俳人・松尾芭蕉**の弟子、各務支考(かがみ しこう)に俳句の才能を認められ、「あたまからふしぎの名人(不思議というしかないほどの名人)」と評された。こうした周囲の評価にも後押しされ、千代女は俳句の創作に打ち込んでいく。その後、両親や兄弟が相次いで亡くなり、30代半ばから一時、家業を切り盛りするために俳句から離れたが、40代後半から1775年に73歳で亡くなる直前まで俳句の創作に情熱を注いだ。千代女が一生のうちに詠んだ俳句は、現在までに約1900句確認されている。

千代女の故郷である石川県白山市に建つ「千代女の里俳句館」の学芸員、横西彩(よこにし あや)さんは「千代女の句は情緒的で、豊かな感性と自然に対する深い愛情がうかがえます。生まれ育った土地の豊かな自然と四季折々の美しい風景が、彼女の作る句に影響を与えたと言えるのではないでしょうか」と語る。

千代女は52歳の時に出家し、仏門に入り、尼僧となった。横西さんは、「千代女は、『世の中が嫌になったから出家したのではなく、月日の流れの早さに心細くなったため』と(記(しる))しています。ただ、尼僧となった後も、千代女は多くの俳句を作っています。おそらく家業が軌道にのって、俳句に打ち込める環境になったのではないかと考えられます」と話す。

千代女が世により広く知られるようになったきっかけの一つに、朝鮮通信使***へ俳句の献上がある。1763年、朝鮮通信使一行が、徳川家治(とくがわ いえはる。1737~1786年)の第10代将軍就任祝賀のために来日した時、61歳の千代女は、この一行に、俳句を献上することになったのだ。

「千代女は、加賀藩****の命を受け、掛軸6幅と扇15本に自作の句を書いて献上しました。これは、日本の俳句作品が公式に海外へ紹介された、極めて初期の事例です。つまり、千代女は、俳句による国際交流の先駆け役を果たしたと言えるでしょう。さらに、明治時代(1868~1912年)には、ドイツの日本文学研究者カール・フローレンツ(1865〜1939年)や英国の言語学者バジル・ホール・チェンバレン(1850〜1935年)によって、千代女の俳句が翻訳、紹介されたことで、“女詩人チヨ”としてその名が世界に広がりました」と横西さんは言う。

千代女の豊かな感性と自然に対する深い愛情が、日本人のみならず、外国人の心にも触れたにちがいない。

* 年齢は全て、伝統的な「数え年」での年齢。生まれた時を1歳として、1月1日を迎える毎に1歳ずつ加える。

** 芭蕉は17世紀の俳人で、「俳聖」として知られる。Highlighting Japan 2022年5月号参照 https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202205/202205_12_jp.htmlOpen a new window

*** 朝鮮通信使は1603年から1811年まで12回にわたり朝鮮国から来日した外交使節団。

**** 加賀藩は、現在の石川県と富山県にあたる地域を所領とした、江戸時代で最も有力な藩の一つ。

朝顔やつるべとられてもらひ水

千代女の最も有名な句。制作年は不明だが、若い頃の作と考えられる。季語は「朝顔」で秋。「朝早く起きて井戸の水を汲みに行くと、釣瓶(つるべ)の縄に朝顔の蔓(つる)が絡みついて美しい花を咲かせていた。水を汲むために蔓を切ってしまうのは忍びないので近所から水をもらってきて間に合わせた」という様子を詠んでいる。早朝のすがすがしい空気や美しい朝顔に寄せるやさしさが感じられる趣き豊かな句である。

紅(べに)さいた口もわするゝしみづかな

制作年不明。季語は「しみづ(しみず)」で夏。「焼けつくような暑い夏の日、きちんと口紅をさして家を出たものの、あまりの暑さに途中で見つけた清水で口紅が落ちるのも忘れて喉を潤した」という光景を詠んでいる。せっかく塗った口紅が水で落ちてしまったことを気にする繊細な感情が読み取れる句だ。

百生(ひゃくなり)や蔓(つる)一すじの心より

25歳の頃の作。季語は、「百生(ひゃくなり、ヒョウタンのこと)」で初秋。この句は、仏教の教えを基に作られた句で、一本の蔓から多くのヒョウタンの実がつけるように、「人間のすべての行いはただ一つの心から生まれる。すべては心の持ち方次第」という内容を詠んでいる。この句を書いた千代女の書画が多く残っていることから、自身も気に入っていたと考えられる。