「裁かれたキリスト」
マタイの福音書26章57-68節
57. 人々はイエスを捕らえると、大祭司カヤパのところに連れて行った。そこには律法学者たち、長老たちが集まっていた。
58. ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の中庭まで行った。そして中に入り、成り行きを見ようと下役たちと一緒に座った。59. さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。
60. 多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。しかし、最後に二人の者が進み出て、
61. こう言った。「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」
62. そこで大祭司が立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」
63. しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」
64. イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
65. すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒瀆した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒瀆することばを聞いたのだ。
66. どう思うか。」すると彼らは「彼は死に値する」と答えた。
67. それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、
68. 「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。
礼拝メッセージ
2024年3月10日
マタイの福音書26章57-68節
「裁かれたキリスト」
ここ最近、国会の政治倫理審査会(政倫審)での質疑が報道されています。きちんと処理されていなかったお金の問題が取り上げられています。不正を明らかにしようと追及する側と、何とかやり過ごそうと努める側のせめぎ合いなのでしょうか。政治の世界、国会での審議、大切な事なのでしょうが、ここ数年、正直、私は見たいとも聞きたいとも思えなくなっています。それは相手を責め立てる言葉の余りの厳しさと、それを受け流そうとする人たちの返答のいい加減さに、聞いていてつらくなってしまうからです。それよりも、もっと日々のためになる情報を、ほっとさせてくれたり、なごませてくれたり、笑わせてくれるような話を聞きたいと思います。
今年の受難節は、マタイの福音書からイエス様の十字架に向かわれる出来事と復活の出来事をたどっていきます。先週は受難週の木曜日の夕方(ユダヤの時の数え方では金曜日が始まっている)、イエス様が最後の晩餐の席で、最初の聖餐式を行われたみことばを開きました(26:17-29)。その食事の後、イエス様と弟子たちはいつもの祈りの場所=ゲツセマネの園に向かわれます。そこでイエス様は壮絶な祈りを父なる神様になさいます(26:30-44)。
祈りの後、私たちの主であり救い主であられるイエス様は逮捕されます(26:47-50)。縄で縛られ、ユダヤの最高法院に連行され、真夜中、秘密裏に開かれた裁判で裁かれます。あることないこと追及され、非難され、罪人にしたて上げられようとしていました。そんな中、イエス様が示された3つの態度に注目していきます。
1. 沈黙されるイエス・キリスト
59節「さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。」
ユダヤ教の指導者たち:祭司長たちと、議員たち:政治指導者たちは結託してイエスをおとしめ、イエスを亡き者にしようと企んでいました。「イエスは神の聖所を軽蔑し、神を冒涜するとんでもない罪人(ざいにん)だ」と言いがかりをつけ、一つの結論に向かわせるため、イエスの語ったこと、なさったことをでっち上げたり、勝手に付け加えたりして証言する=偽証をする者たちを前もって用意していました。
「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」(26:51)と、イエス様の過去の発言を訴える証言者が二人現れました。彼らは、イエスは神の聖所を破壊しようと企む危険な存在だと言いたかったのです。時々、学校などに嫌がらせ行為で「爆弾をしかけた」と脅迫メールがあって、休校になったり大迷惑が起きていますが、イエスの発言もそれと同じように、危険だと印象付けようとしたのでしょう。
実際、イエス様はこのような発言をなさいました。けれどもイエス様が語られた「神殿」は建物としての「エルサレム神殿」でなく、「神の宮」である「ご自分のからだ」を例えて言われていました。死んだ後、三日後に復活なさることを予告されたのです 。
イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、 聖書とイエスが言われたことばを信じた。(ヨハネの福音書2:19―22)
イエス様は、彼らの悪意・悪い企み・不当な訴えなどすべてお見通しでした。心の中の思いもすべて分かっておられるお方でした 。
.イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。(マタイ9:4)
それでもイエス様はこの場面、反論も自己弁護も一切なさらなかったのです。
63節、しかし、イエスは黙っておられた。
「あなたたちの訴えはうそ偽りだらけだ。わたしはそんなこと言っていない。またあの時のあの言葉の意味は、こうなんだ。」とか、「そんなことはやっていない。証拠はあるのか。旧約聖書の律法では、二人の証言者がいて、その証言が一致しなければ罪を確定できない 。それも、できていないじゃないか」ともおっしゃらなかったのです。
二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。(申命記17:6)
先ほど交読した旧約聖書の預言書、イザヤ53章で予告されていた苦しめられるイエス様のお姿の通りでした。
「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)
弱々しい羊のように、怖くて何も反論できないように見えたイエス様のお姿。しかし実際には、イエス様は勇ましく、あえて沈黙を保たれたのです。余計な時間を取りたくなかったのです。偽証に反論し、議論を挑み、一つ一つ真偽を明らかにしていけば、イエス様の方が正しい、訴えは全てうそ偽りだと証明されたはずです。イエス様の逮捕は不当であり、冤罪だ。イエス様は無実だ、すぐに釈放すべきという結論に達したかもしれない。
しかしイエス様はあえて、そうされなかったのです。自己弁護を一切なさらなかったのです。ご自分を救うための反論を一切なさらなかったのです。 ―「さあ早く、わたしを十字架に向かわせよ。明日の夕方になったら過越の祭りの安息日に入るぞ。あなた方は一切、仕事が出来なくなるぞ。その前に早く私を十字架に向かわせよ」。「わたしにはなすべき務め=父のみこころがある。すべての人の身代わりに、その罪をすべて背負って十字架で死ぬというわたしにとって一番大事な使命が待っている。さあ早く、余計な時間を取らせるな」― 沈黙されるイエス様の御姿から、そんな叫びが聞こえて来るようです。
2. ご自分の正体を、はっきりと語られるイエス・キリスト
63,64節 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
余計な反論を一切なさらず、あえて沈黙されたイエス様ですが、ただ一つだけ、
「おまえは神の子キリストなのか」という問いに対しては、はっきりと答えられます。
「そうだ。Yes.わたしはあなたの言うとおりの者だ。私は神の子キリストだ」と、ご自分のことをはっきりと主張されます。さらに祭司たちを切れさせたのは、イエス様の次の証言でした。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
「人の子 であるわたしイエスはこれから天の神の右の座に着き、再臨の日、そこから降って来る。すべてのものの裁き主・審判者として、わたしが天の雲とともに降って来る のを、あなたたちは目撃するだろう!」 これはイエス様がご自分を神だと証言なさったことでした。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル書7:13,14)
見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。(ヨハネの黙示録1:7)
一神教のユダヤ世界。主なる神の他に神があってはならない。神の御名をみだりにとなえてはいけないと、十戒の戒めに従っているユダヤの宗教家たち。そしてまことの神は、父・子・聖霊なる三位一体のお方であることを知らなかった彼らは、イエス様のこの発言を「自分を神と等しくすることで、聖なる唯一の神を侮辱し、神を冒涜する赦しがたい犯罪行為だ、とんでもない冒涜発言を今、私たちは耳にした。現行犯だ」と、イエスの決定的罪の告白を聞いたと興奮し、激しい憎悪と怒りと殺意に燃え、「彼は死に値する」(26:66)と決定してしまうのです。
神の子であるお方が、「その通り。私はそういうものだ」と答えたにも関わらず、
キリスト・救い主が、「その通り。私はそういうものだ」と答えたにも関わらず、
神がご自分のことを「大いなる神だ。審判者だ」と答えたにも関わらず、
真実をありのまま語ったがために、それを絶対に受け入れようとしない当局と宗教家によって、イエス様は死刑だと審判が下るのです。
そうなることもイエス様はすべて分かった上で、はっきりとまっすぐに、ご自分の正体を明かされたのです。ご自分の命を守るための発言は、一言もなさらなかったイエス様です。そして、ご自分を死刑に向かわせるための決定的な証言は、逃げもごまかしもせずに、ここで明確に答えられたのです。
このすぐ後でペテロが、自分は何者かをはっきりと口にできなかった。いや、”Yes” というべきところで”No”と否定してしまった姿 とは対照的でした。
私たちはどうでしょうか? ぺちゃくちゃとおしゃべりはできる。世の中のこと、好きな食べ物や芸能人のこと。人のこと、家族のこと、あれやこれやと余計なことは色々しゃべってしまう。
しかし肝心要の大事なこと「私は何者なのか。私は何なのか」を語れない。語っていない。ちゃんと自覚していないのではないでしょうか。
「私は罪人です。本当に弱い存在です。
けれども、そんな私を愛していてくださるイエス・キリストの十字架により罪赦され、救われた者です。
神の子どもとされ、クリスチャンとなって、今、教会に通っています。
日曜日は他の何物を差し置いても、神様を喜び礼拝することを大切にしています。
そして神様から私に与えられた使命を自覚しながら、日々を過ごしています。
いつこの世を去る日が来ても大丈夫です。ちゃんと行き先が決まっていますから。
天国でイエス様とともに永遠に生きます。
私はそういう者です。」
キリストにあって、私は何者かということを、いつでも誰にでも語ることが出来るように準備しておきたいと思います。
3. 耐え忍ばれるイエス・キリスト
67,68節 それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。
神であられるお方が、人から最低の侮辱を浴びせかけられました。悪口雑言に加えて暴力を振るわれました。拷問を受けました。
神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、 打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。(イザヤ書 50:5、6)
こう預言されていたことが、実現してしまいました。
現場にいあわせた弟子のペテロは、どんな思いでイエス様の痛め付けられるお姿を見たでしょうか? 胸が張り裂けそうな痛み・悲しみをペテロも感じたでしょう。または、私にも被害が及ぶのか、恐ろしい、早くこの場から逃げ出したい。そんな思いになったでしょうか?
後にペテロは、こう書き記しています。
ペテロの手紙 第Ⅰ 2章22-24節キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
イエス様は、ご自身が教えられたこと = 「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」(マタイの福音書5:39)をその通り、実行されました。
私たちの罪を赦し、私たちを滅びから救い出し、私たちを死から永遠のいのちに移してくださるために、イエス様は、不当な訴えをされても沈黙を守り、死刑に至ると分かっていてもはっきりとご自分の正体を明らかにされ、肉体・精神の極限の苦しみに耐え抜いて、死んでくださいました。このイエス様をいつも覚え続けていきましょう。
そして、このイエス様の足跡に従うようにと、神様に選ばれている私自身であることをいつも覚え続けていきましょう。
ペテロの手紙 第Ⅰ 2章21節
このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
祈ります。