同じ環境で同じような意識がある
人に情報を伝えることはとても困難だというのがわかってもらえたと思うのですが、その理由の一番にあげられるのが、物の見方にフィルターがかかっていることがあげられます。
同じ物を見ても、同じようには見えていません。
そんなことは当たり前です。
それを嘆いても意味がありません。
フィルターのかかっていない人はいません。
もし、自分だけはフィルターがかかっていないと思っていたら、そんな人程強いフィルターがかかっています。自分から見てフィルターがかかっているように見える人は、相手から見ればフィルターがかかっているように見える訳です。
フィルターがかかっていること自体を批判し合うのは猿の尻笑いです。
量子力学の世界なら観測者によって見え方が違うというのは事実上証明されている訳ですからね。
なんの不思議もありません。
難しいことはわからなくても、そのことだけわかれば十分です。
というか科学がそれを認識し始めてきたということではないかと思います。
人間一人一人は小さな力です。
常にグループになって大きな力と戦ってきました。グループとは一つの環境の中で育った同じようなフィルター(考え)を持った人の集団です。社会で言えば国と国になりでしょう。
それが他のフィルターグループと牽制しあいながら生活してきました。
昔は文明が発達していませんでしたので、人間の最大の的は自然だったと思います。だから大きなグループになって大自然と戦ってきた。しかし、現在は自然をコントロールすることはできませんが、ある程度身を守る術が増えました。
まだまだですが、文明が発達する以前と比べれば桁違いだと思います。台風の予測はできるようになりましたし、作物も進化させてきました。インフラも整備されました。
逆に言えば、文明が発達した為に人と人を戦わせる規模が大きくなったのかもわかりません。
それが世界大戦にまで発展したのではないかと私は思っています。
詳しい歴史のことはわかりません。でも小さいグループの中で起こっていることは世界でも起こります。
それが良いことなのか悪いことなのかは一概には言えません。人間の中に眠る闘争本能というのは、やはり何かと敵対していなくてはならないのかもわかりません。
だからフィルターをなくせば良いかというと、そうとも限りません。フィルターをなくすということは、その人の育ってきた環境や考えを否定することにもつながります。
考えや感じることを捨てなさいと言われているのと同じです。だからフィルターをなくすことが本当に良いことだとは私は思いません。
グローバルを訴え、グローバルが良いことだという時代から、グローバルが少しずつ否定された時代になってきました。それは個人がフィルターを大切にすることの意味を自覚してきたからだと思います。
グローバル、グローバル!!
フィルターをなくせ!!
これは、皮肉にもローカルなフィルターで固めた社会を余計に作る結果になったのではないかと思います。スローガンとは真逆の現象が世界では起こっているように思います。
グローバルを訴えなければ、うまくやっていたものを世界基準という変な理想を掲げた為におかしくなってしまった社会とも言えるのではないかと思います。
医療の世界ではエビデンスという言葉がそれにあたります。科学的に立証されたものを基準にして治療を行わなければならない!!
と訴えれば訴える程、職人技が重要になってくるはずです。これは今の社会現象と同じだろうと思います。社会で起こっていることは医療の世界でも必ず起こります。
ちょっとタイムラグがあるだけです。
臨床上では、エビデンスは参考にしかなりません。
エビデンスが絶対と考えた時点で、それではどうしようもない症例が増え、逆に問題を多くさせるだけだと思います。グローバルのルールさえ守っていれば大丈夫という安直な考えがグローバルの本当の意味を無意味なものにしてしまっているように思えてなりません。
かといって、あまりフィルターを主張し過ぎても、グローバルを主張しているのと変わりないです。文明が発達し人の住来が激しくなった訳ですからね。これは事実です。
それだけ昔とは環境が変化してしまったのですからグローバルが不必要とも思いません。
だからエビデンスが不必要だとも思いません。
しかし、片寄ったグローバルは絶対に無意味です。
文明が変化したら、それに合わせるということが必要になってきます。しかし、急激な変化過ぎて私達の脳がそれについていけないという状態なんだろうと思います。
それでも奥にしまっているフィルターは誰にも侵害されてはならないのです。
しばらく混沌とした状態は続くでしょうね。
ホントにうまくいきませんよね。