言霊の旅人
Facebookメル さかさん投稿記事
はせくらさんの昨日のオンラインセミナーより〜最後に内なる叡智から降ろしていただいた言葉…声に出して言ってみる3つの言霊です❣️🌈
◇全てはベストタイミングである✨ ※認識の視点が上がっていく
◇私は起こる出来事と調和している✨ ※高次の自己の周波数と同調する
◇私は、愛より生まれ、愛を生き、愛へと帰る旅人です✨ ※とても自分が癒される
Facebookまなゆいインストラクター 佐藤文香さん投稿記事
🌎『必死』にならず、『夢中』でいるコツ
先日のさとうみつろうさん、阿部敏郎さんの秋分の日イベントで、「夢中で生きる」という話がありました。
阿部さんが言ったのか、喜納昌吉さんが言ったのか忘れてしまいましたが😅なんだか良いなあ~💕と思ったんです。
✨夢中で生きる。✨今、自分がやっていることに夢中になる。
私の場合、まず浮かんだのが、私の“志事”、「まなゆい」や「言霊」を伝えることを、夢中でやっていこう💗ということでした。
ただちょっと気をつけないといけないのが、「使命」とか「志」とかいうと、けっこう多くの人が、『夢中』のつもりが『必死』になってしまう💦
私もよくやりがちなんですが……😅
『夢中』とは
1 物事に熱中して我を忘れること。また、そのさま。「―で本を読む」「競馬に―になる」「無我―」
『必死』とは2 死ぬ覚悟で全力を尽くすこと。また、そのさま。死にものぐるい。
「―の形相」「―に逃げる」
(いずれもgoo辞書より)
どちらも“我を忘れて打ち込んでいる感”は同じでしょうが、『必死』は、なんか悲壮感が漂いますね……😖
真面目な人ほど、気をつけないといけません。
・やってて、楽しさが薄れてきた……・いつのまにか、ただ「やらなくちゃ」 と思っている
こんな気持ちが出てきたら要注意。
『必死』なのが悪いわけじゃありませんが、『必死』になり過ぎるとエネルギーが重くなって、あなた自身が苦しくなります。「やらなくちゃ」という思いも、悪いわけじゃありません。
「やらなくちゃ」という思いについては、たまたま読んでいた喜多川泰さんの本の中に、ドンピシャリな言葉がありました。
(ここから引用)
でも、自由に生きてる大人も世の中にはいるんだ。その人たちは朝から晩まで<やりたいこと>だけをやって生きている。(中略)かれらにも<やらなきゃいけないこと>がないわけじゃないんだ。かれらにとって、<やらなきゃいけないこと>すら<やりたいこと>なんだよ。(喜多川泰『ライフトラベラー 人生の旅人』より)
『夢中』で生きていれば、自分がやっていることに『夢中』になって楽しんでやっていれば、
<やらなきゃ>と思ったことは<やりたい>ことにもなる。だから私は最近、「~しなくちゃ」という思いが出てきたら、ちょっと立ち止まって「まなゆい」して、そこに「やりたい」という思いがあるかどうかを確かめます。
「~べき」「~ねば」も、「~たい」に昇華できれば、問題ない😉。
『必死』にならずに、『夢中』でい続けることができるんじゃないかと思います。
あなたもいつも『夢中』でいられる生き方、していきましょう💝
Facebook近藤裕子さん投稿記事 ☘️素敵な仏教語☘️ 「和顔施」 わがんせ
柔和な顔で人に接する事をを《和顔施》といいます。笑顔で対応すれば 相手も笑顔で応えてくれます。《笑う》とアルファ波が増えて、リラックス効果が高まります。 記憶力、判断力を活性化したり、血行を促進する効果もあります。
また笑う事で作られる「ドーパミン」は 痛みを和らげたり神経を落ち着かせます。
また幸福ホルモンと呼ばれる「セロトニン」、愛情ホルモン「オキシトシン」などの脳内物質が分泌され、心身がリラックスする効果も。 その結果「元気に長生き」に繋がります。
《笑う門には福来たる》
鏡の中の中の自分に笑顔で挨拶することから 私の一日は始まります😊。
いつもの道に沈丁花が咲き始めました。ほのかな香りが嬉しいです。
Facebook相田 公弘さん投稿記事【字が教えてくれること】
女性が笑顔でいるところに、嬉しいことはやって来る「大丈夫」という字を よくみてください。「大」「丈」「夫」それぞれ「人」という字が入っています。
あなたに何かあったとき、周りの人は必ずあなたを支えてくれます。
どんなときも、あなたの味方は三人いるんです。「始まる」って文字を見て下さい。
「女」が「土台」って書くんです。女性が笑顔でいることから始まります。
だから「嬉しい」って「女」が「喜」って書くんです。女性が笑顔でいるところに、嬉しいことはやってきます。「決断」とは、「決めて」「断つこと」。何かを決めるときには、ひとつ何かを断ち切る。すると新しいものが手に入ります。
「大切」って「切る」って字が入っています。執着を「切ったとき」に、「大きなもの」が手に入るんです。「癌」とうい字は「三つの口の山の病」と書きます。それは、「食べすぎ、飲みすぎ、吸いすぎ」です。「光る言葉」と書いて、「誉める」。誉めてあげると、相手は最高の笑顔で輝きます。「吐く」という字は 「口」に「±(プラスマイナス)」って書きます。
もしもマイナスの言葉を控えたら…?…「叶い」ます。
「命」=「人」+「一」+「叩」、「人は一度叩かれる」と書いて「命」。
誰だって、一度は人生で本当に辛いことがある。そこを乗り越えるために生まれてきた。
そして心臓は「ドックン、ドックン」と「人」を「一生」「叩いて」くれています。
※いい言葉は人生を変えるより
https://note.com/jikannohuukei/n/ne49e5dcc8f77 【「芭蕉のことだま」のおはなし】
時間の風景‐地域の今と過去とこれからを知る‐(静岡県中部)
如舟と芭蕉
「駿河路に蕉門なしと言われた頃、ひとり島田の一駅だけに焦門あり」(島田市史・中)と伝えられる。芭蕉の俳諧門人、師友、友人などが蕉門と呼ばれた。各地での句会は芭蕉の紀行と共に後世に伝えられる。しかし駿河路においては島田宿以外、芭蕉の足跡は残っていない。元禄四年(1691)冬、江戸に向かう途次、島田の駅で、『馬方はしらじ時雨(しぐれ) の大井川』と詠む。この時が芭蕉と如舟の最初の出会いであった。二回目の島田宿滞在は、江戸から故郷へ戻る途中の元禄七年のこと、大井川の川止めによって四日間の滞在となった。『さみだれの空吹きおとせ大井川』句で知られる。その間島田宿の蕉門達と句会を開いている。『やわらかにたけよことしの手作麦』(如舟)の発句に『田植えとともにたびの朝起』(芭薫)と続く。
如舟と島田宿
塚本如舟(1641~1724)は代々塚本孫兵衛を名乗り、彼はその三代目であった。酒造、製茶を営み江戸と商売するなど、裕福な事業家であった。加えて人望も厚く、大井川川奉行役を任され、元禄九年には初代の川庄屋にも就いている。日々変化する大井川の水深を計り、その日の川越料金を決め、おおよそ五百人と言われる川越人足の区分采配を行っていた。江戸元禄の繁栄はまた島田宿の繁栄でもあった。多くの旅人が行き交い島田宿に滞在した。如舟はまた島田宿文人たちの中心として活躍しており、俳諧蕉門の情報は全国から寄せられていた。島田宿蕉門としては如舟ほか如竹、桃青、嵐雪、山呼、燕悦らの名が残る。
子規・俳句革新
正岡子規 (1867~1902)は「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」(「芭蕉雑談」)と語り、十七文字の表現にこそ文学的な美が存在するとし、『俳句』と名付けた。子規の時代、芭蕉は「俳聖」と言われ、旧俳諧派などから「飛音明神」と呼ばれるなど神格化されていた。子規は彼らを批判する。一方、芭蕉の世界を「古池に蛙の飛び込む音を聞いたという事実以外...一点の曖昧さも無い」と評価する自身の句論の核とする。子規は十七文字の世界から感情や、思い入れなどすべての曖昧さを排除し、対象そのものの視覚的世界こそ俳句の美であると語り、それを「写生俳句」と呼んだ。やがて子規は脊椎カリエスに侵され病臥の人となる。そこでの絶筆は写生俳句を極める。『糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな』
それぞれの言霊
近年芭蕉の紀行は現実と虚構が交差しせめぎあう世界であると言われる。元禄四年島田の宿で の如舟との出会い『宿かりて名を名乗らするしぐれ哉』の句はまさにそれであった。「時雨」は一時の雨、一夜の仮宿を著わす。冷たい雨に疲れた旅人と宿を乞われ名前を問う宿の主人がいる。そこには蕉門の祖、芭蕉と島田宿実力者如舟の姿はない。まさに「虚偽に遊戯する」(上野洋三「芭蕉、旅へ」岩波新書)世界で あった。芭蕉の死後多くの蕉門たちが島田宿の如舟亭を訪れている。それは現在も変わらない。
「芭蕉が放った言霊(ことだま)が地に棲みつき、みんなそれに会いに行く。」(嵐山光三郎「芭蕉紀行」新潮文庫)のだ。子規もまた「ことだま」を訪ねた。
『五月雨や假橋ゆるぐ大井川』(「寒山落木」)
http://www.st.rim.or.jp/~success/kaotodama_ye.html 【言霊の危険 ある芭蕉の句に寄せて】より
今日は佐藤も妙なことを言うものだ、と思う人が多いだろう。でも黙って聞いて貰いたい。
その意味は後で、生涯かけて考えて貰えばいい。
* * * * * * *
ある人物が「田一枚、植えて立ち去る、柳かな」などと、芭蕉の句を、あたかも自分の心境のごとく書いている。このような安易な態度は、さけた方がよい。何故ならば、この句は、芭蕉の死生観を物語る言葉であり、芭蕉の思想そのものだからだ。
人は、たったひとつの言葉や思想によって、生かされもすれば、殺されもする。冒頭のような危険極まりない句を、真言(マントラ)のように簡単に好きになってはいけない。
昔から、日本人は、言葉を言霊(ことだま)と呼び、何か神秘的な力が宿っていると信じられてきた。この芭蕉の句は、死を覚悟した句である。芭蕉は、奥の細道を書き上げて死ぬ気だったからいい。しかし、まだまだ青二才の我々が簡単に、好きだの嫌いだのと言ってはならない句のように感じる。
もちろんこの句は、芭蕉が、生涯の師と仰いだ西行法師の次の和歌に応えて作られたものだ。
”道の辺に、清水流れる柳陰(やなぎかげ)、しばしとてこそ、立ちどまりつれ”
西行は芭蕉から数えて500年前に生きた漂泊の歌人である。現在の栃木県の那須地方に芦野(あしの)という農村がある。その田んぼの中に、見事な柳があり、芭蕉は、西行が詠んだこの和歌を意識しながら、この柳を鑑賞したのである。
普通の人間であれば、「ああ、これがあの西行さんが詠んだ柳か…」で終わるところだ。しかし芭蕉はその柳を、ただ見つめるのではなく、西行の芸術すら乗り越えようと、その柳を魂でみているのである。だから西行が「しばし立ち止まって見ていきなさい。」というのに対して、「立ち去る」というあえて西行に反抗するような決意の言葉を発することになるのである。
通常の解釈によれば「村人が田んぼ一枚植えるくらいの時間を過ごして、柳の前から、さっさと立ち去って行こう」というほどの意味でしかない。しかしこの句を詠んだ時の芭蕉の潜在意識を分析すれば、「田」とは、芭蕉にとっての最後にして生涯最大の作品と考えている「奥の細道」そのものであり、柳とは西行法師その人なのである。だからこの句は、次のように解釈する事ができるはずだ。
「尊敬する西行法師よ、私は、奥の細道を書き終えて、あなたの芸術的境地を乗り越えて行く覚悟だ。私は自分の生涯の目標を、その一点に賭けている。しかる後、私の精神と思想は、この奥の細道という作品の中で、永遠に生き続けるだろう」という解釈になるのである。つまりこの句は、俳句に、自分の命すら捧げる決意と覚悟を含ませた句なのである。もっと大げさに言えば、この句には、芭蕉という人物の念が込められていると言ってもいい。
芭蕉の死生観(死にたいする考え方)をよくあらわしている句に”野ざらしを、こころに風の、しむ身かな”(「野ざらし紀行」より)というものがある。そもそも「野ざらし」とは、野原にさらされたドクロのことを指す。だからこの句の解釈は、「この旅をするに当たって、自分は、たとえ旅の途中で、死に野ざらしとなっても、この旅に賭けてみたい。それにしても秋風が、身にしみるなあ」というのである。
更に旅が進んで来ると、”死にもせぬ、旅寝の果てよ、秋の暮れ”(解釈;死ぬ覚悟で、旅に出たのだが、どうやらまだ自分は死んでいないようだ。秋はいよいよ暮れてきて、寒さもひとしをだ)
人は、死生観や思想(自分が正しいと信ずる考え)に殉ずるものである。簡単にいえば、人がどのような考えをその根本に持っているかによって、運命も変わるということだ。当然、潜在意識が、死を欲すれば、その人間には、死が自分の寿命より早く訪れることになる。芭蕉という人間は、奥の細道の冒頭で、「古人も多く旅に死せるあり」と旅の途中で死ぬことを賛美するような言葉をのべている。どうも芭蕉は、旅において死ぬことに美学を感じている節がある。
元々芭蕉という人間は、37才の絶頂期に隠居をした変人である。別の表現をすれば、芭蕉という人物は、早く自分を老け込ませ、そして自分の思想や芸術の中で死にたかった人物であった。だから彼が、四十半ばで、奥の細道を旅する時には、完全に老人の風体(ふうてい;姿のこと)になっていた。そして51才で、見事に旅人として、旅の途中で死んでみせたのである。つまり彼の潜在意識が、彼の早すぎる死を呼び寄せたと言ってもよい。
誰に限らず、分からない言葉や思想を生半可な知識で語らぬ方がよい。分からぬことは、分からないで良い。背伸びや、知ったかぶりは、危険ですらある。
知ったかぶって、安易に芭蕉の句などに触れぬ方がよい。この句を本気で好きになってしまえば、その生涯を、この句に込められた言霊の威力によって封じ込められてしまうことにもなりかねない。何百年に一度しか現れぬような芭蕉のような人間の言葉というものには、それなりの重みと力がひそんでいることを忘れてはならぬ。佐藤。
https://www.bookbang.jp/review/article/530575 【俳聖・芭蕉の正体は?/『芭蕉という修羅』嵐山光三郎 レビュー新潮社 波 [レビュー]】より
『芭蕉という修羅』著者嵐山, 光三郎, 1942-出版社新潮社
俳聖・芭蕉の正体は?[レビュアー] 藤原作弥(元日本銀行副総裁)
『おくのほそ道』の冒頭は中学三年の国語(古典)の授業で、暗誦させられた。そのときは意味もわからず「ツキヒハハクタイノカカクニシテ……」とお経のように覚えたものだが、そのうち芭蕉の言霊(ことだま)が躯(からだ)にしみてきた。
*
右は嵐山光三郎氏の近刊『芭蕉という修羅』からの引用だが、私の少年時代の記憶にそっくり当てはまる。この文章は李白の「夫(ソ)レ天地ハ万物(バンブツ)ノ逆旅ニシテ、光陰ハ百代ノ過客ナリ」に由来するが、冒頭の書き出しはさらに「行きかう年もまた旅人なり」と続き、「日々旅にして旅を栖(すみか)とす」や「古人も多く旅に死せるあり」など芭蕉の“人生は旅”の哲学論を展開している。
中学時代にその芭蕉の感化を受けて「追っかけ」になった嵐山氏は大学時代に3週間かけて「奥の細道」の全ルートを踏破、さらには自らも俳諧を業とする徘徊人として旅を愛するようになった。芭蕉に惚れ込んだ嵐山氏はさらに『芭蕉紀行』『悪党芭蕉』などの著作を通じて芭蕉という奥の細道を旅しながらその正体を探求するのだが、その間に氏の芭蕉観も大きく変化していく。
その決定版ともいうべき総括が本書であろう。芭蕉は俳聖と奉られて聖人視されているが、すでに芥川龍之介は“大山師”と喝破し、子規は作品の大半を“悪句駄句”と批判した。そして今、嵐山氏は「悪党」呼ばわりしたあと「修羅」と位置づけるに到った。修羅(阿修羅)とは古代インド神話の「悪神」つまり、芭蕉は嵐山氏にとって聖人から悪神に昇華した人間なのである。人間とは欲望の塊り。本書を読むと、芭蕉がモノ、カネ、名声……あらゆる欲望を希求した人物であることが、数々の傍証的エピソードによって良く判る。
例えば人間の欲望の最たるセックスについてだけみても芭蕉は典型的なLGBT(性的少数者)だった。衆道の盛んな江戸時代だが、絶えず美少年を追い駆ける反面、寿貞という尼僧と世帯を持ち、ちゃんと子供を儲けている。
芭蕉が最も名声を追い求めたのは、風雅の先達である西行という求道的紀行詩人に憧れたからであり、同じ俳諧道で切磋琢磨するうちに、浄瑠璃の世界で大成した文学者・西鶴に対するライバル意識もあった。だが、芭蕉は、飽くまで当時の(彼にとっての)“総合芸術”である俳句道にこだわった。紀行文である「おくのほそ道」一篇にしても定本が完成するまで推敲に推敲を重ね、ブラッシュ・アップしている。
いくつかの仮面を被った芭蕉という人間の顔の中で、嵐山氏が推理小説よろしく追及するのが、幕府の隠密としての役割りだ。「おくのほそ道」は日光東照宮の建設の命を受けた仙台藩伊達家の実情を探索する密命行脚。実は、プロの密偵・曾良を帯同した“ミッション・インポッシブル”的プロジェクトだった!?
嵐山氏によれば、スパイ稼業は「観察眼にすぐれた俳諧師ならではの任務で、曾良の調査力と芭蕉の直観が合体すれば、情報の精度が増す」と推理、そうした特性を活かして芭蕉と曾良はまず日光東照宮の建設工事を念入りに偵察した。そして仙台から松島を経て石巻では、北上川流域に治水と開拓によって新田や新港を築き、名目62万石ながら実質100万石といわれる穀倉地帯の本石米を江戸へ送り込む仙台藩のインフラ事業を丹念に調査した……。
偶々、仙台出身の私が最も強い関心を抱いたのは、芭蕉が宿泊した大崎庄左衛門邸が大町と奥州街道が交叉する目抜通りの国分町だったということ。現在、その四つ角は日銀・仙台支店などがある金融中心街で、「芭蕉の辻」と呼ばれている。昔、わが家の居間にも殷賑を極めたその「芭蕉の辻」の錦絵版画が掛けてあった。
その点を地元の郷土史家に確認すると、実は元禄・徳川綱吉時代の芭蕉以前に、家康時代の慶長年間に伊達政宗が密偵として日本全国を探らせていた芭蕉という名の虚無僧がその四つ角に住んでいた、とのこと。虚無僧・芭蕉は徳川家康の動静調査の恩賞として伊達政宗からその一等地を賜わったのだった。江戸初期には芭蕉という名のスパイが2人いた訳けである。
オット。話が横道に逸れたが、芭蕉・密偵説はともかく、本書『芭蕉という修羅』の私の読後感は、嵐山光三郎氏が枯淡の俳聖と崇められる松尾芭蕉という人物を腑分けしてその実像に鋭く迫った異色の歴史的推理ノンフィクション――である。
https://ooikomon.blogspot.com/2017/04/ 【大井恒行の日日彼是】より抜粋
攝津幸彦「南国に死して御恩のみなみかぜ」(『俳句という他界』より)・・
関悦史『俳句という他界』(邑書林)。著者「あとがき」に、
本書は私の最初の評論集となる。この中で最も古い原稿は二〇〇六年の「幸彦的主体」である。
と記され、本書に収められた一番最近のものは、初出一覧によると、「朝日新聞」二〇一四年十二月八日朝刊「歌壇俳壇」欄の「渡辺白泉の『不思議な町』である。最近、最新といっても三年以上以前のことになる。
約10年ほど前の、「幸彦的主体」の部分には以下のように述べられている。
抽象語が肉体性を帯びているのではない。幸彦句においては具体物をさす語が、全て透明にしなやかに抽象化されているのだ。原初的な記憶にもぐりこみ、郷愁に濾過されることによって。
《南国に死して御恩のみなみかぜ》における天皇もそうした晒しあげられた官能的な抽象である。のちに『陸々集』に収録される日記連載中の幸彦がたまたま昭和天皇の崩御に接し、この時事を句に取り込めなかったのは当然であった。
そしてまた、渡辺白泉『不思議な町』では、以下のように記す。
戦争が廊下の奥に立つてゐた
気づいたときに戦争は、暮らしにも内面にも立ち混じっている。いや国民の側が招き入れている。翌十五年、京大俳句事件が起こった。ただ俳句を作っていただけの人々が治安維持法違反の嫌疑をかけられ、白泉も検挙された。翌十六年の今日、太平洋戦争開戦。「銃後」の非戦闘員も無差別に爆撃を受けた。そして明後日、特定秘密保護法が施行される。「特定秘密」は約十六万件にも上るという。何が秘密にあたるかは誰も知らない。選挙の争点にもあんまりなっていない。「不思議な町」は今眼前にある。
その頃から、壮大のゼロといわれた70安保闘争以来の(動員数でははるかに及ばなかったが)、実に平和な、非暴力、直接行動の抗議の声が国会を取り巻いていったことは記憶に新しい。
そして、今日、4月3日(月)、東京新聞夕刊には、テロ対策を強調した拡大解釈自由の「『共謀罪』6日審議入り」の見出しが舞っている。ますます事態は我々にとって悪くなっている。「不思議な町」は眼前にあるのだ。
末尾になったが、本著のカバー、表紙、大扉の写真には、著者自身制作のオリビア(黄色い一つ目の物体)が、関悦史の友人・小野健一の撮影によってそれぞれに飾られている(装幀も著者との両名による)。
関悦史、1969年、茨城県生まれ。
https://edgeofart.jp/%E3%80%8A%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E7%95%8C%E3%80%8B%E3%81%AE%E3%81%BB%E3%81%8B%E3%81%AB%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E3%81%AA%E3%81%97%E3%80%9C%E4%BF%B3%E4%BA%BA%E3%83%BB%E9%96%A2%E6%82%A6%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B8%96/ 【俳人 関悦史《現実界(レエル)》のほかに俳句なし〜俳人・関悦史の世界〜】より
https://www.youtube.com/watch?v=NM9coPJbpcE
俳壇の郊外からいま、怪物が進撃しつつある。俳句といえば、日本の古き良き伝統文化と考える人にとって、関悦史は日本庭園を踏みにじるゴジラに等しい。この番組では、「平成の怪物」と評される関の作句活動に、はじめてカメラが肉薄している。
東日本大震災で建造物の倒壊などの被害を受けた関。被災状況を証明する書類を届けに行った土浦の役所で見た桜は、白けて見えたという。《現実界》のほかに俳句なし 〜俳人・関悦史の世界〜
呆けゐて死なざりしかば花うるさし 悦史
「花うるさし」の一語に込められた、伝統美へのアイロニー。関は、日本美の代表ともいえる桜も、風流とは程遠い観点で俳句に詠む。
あるいは、同世代の仲間と動物園に出かけていき、レストランのテーブルの上に短冊を並べてバラバラの言葉を無作為につなぎあわせてゆく関の姿は、宗匠帽をかぶって桜の木の下で短冊に筆を走らせる俳人の姿と、どれほど隔たっていることか。俳句を「悪ふざけ」と称し、「イタズラをしかける」気持ちに近いと言う関。子供の頃に負った脊椎の怪我のために労働に従事することがかなわない関にとって、《現実界》のほかに俳句なし 〜俳人・関悦史の世界〜
地下道を蒲団引きずる男かな 悦史
の「男」は、世外の徒である自画像でもある。彼にとって、この世はすべて異界。スーパーで買ってきた惣菜をかきこみ、旧式のノートパソコンに「メモ帳」機能で書きつける句は、伝統的な季語から現代風俗までを対象とし、哲学や芸術用語も織り交ぜ、まさに混沌の現代社会そのものの写し絵なのだ。
関悦史 (俳人) 1969年生まれ
句集『六十億本の回転する曲がつた棒』『花咲く機械状独身者たちの活造り』。評論集『俳句という他界』。共著『新撰21』他。