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ZIPANG-8 TOKIO 2020  「心の文明へ」2−2   あなたが微笑めば 世界が平和に 【寄稿文】一舟・光秀

2024.03.17 13:25


令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、
能登半島地震で被害を受けた皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。(編集局)


今酷い戦争の真っ只中に人類に希望を抱かせる未来を示唆するような、国を民族を宗教を超え、平和と幸せのすばらしい人類の姿なのではないかと思う彫像に出会った。


東西の文明の十字路に生まれた平和の融合の花、ガンダーラ美術・デザインの結晶。


筆者が少年時代からずっと想っていた仏は、宗教と言うより人のあり方そのもの、そのままの存在であると思って来た。先日ZIPANG-8 TOKIO 2020の投稿に理想の人の無の姿に出会った。ゴーダマ・シッタルーダ、若きシャカのお姿である。


ガンダーラ美術の至宝…弥勒菩薩交脚像1軀 片岩 ガンダーラ 2~3世紀 高62.0 cm

龍谷大学 龍谷ミュージアムにて「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」を
2024年4月20日(土)より6月16日(日)まで開催

 

「人の幸せと平和に寄与するデザインとは」

 

デザインとは自然の摂理に従うこと
平和と幸せな世界を創る聖なる仕事
全ての家公共施設は風土に合わせよ
全ての人工物は自然を引き立て従え

 

ともすると暴走する利の物質文明を
無言で宥め励まし自然体に誘う役割
人類本来の生きる暮らし文化の番人


物質文明は人類の欲望を掻き立てる
人の命を弄ぶ邪悪な欲望の溜まり場


戦争という幼稚で厚顔無恥な行為を
経済活動と言って正当化し憚らない
最も恥ずべき殺人を白昼堂々とやる


人類の本質は欲望の物質文明にある


国連も無力で神も加担するかの如く
何度も愚を繰り返す人類文明の恥辱


「では人はどうすればいい」 この人物のお姿から想う

幸せも平和も人類の飽くなき試行錯誤の文化

人の心の幸せを豊かな広がりを「美」という


ところが人類は同時に人を不幸のどん底に落とす兵器を現在も実戦で試行錯誤日夜進化させている。


物質の根源にまで手を伸ばし、一瞬にして全て蒸発させてしまう核兵器水爆さえ手に入れ、世界にはすでに人類を百回消滅できる備蓄があるという。


不幸な事に日本に使われた、なんとしても許せない二発の原爆、その凄惨な結果を世界が知った今、ウクライナでも何処でも、国も独裁者も核を脅しに使かうに留まっているが、人類滅亡のカウントダウンの時計の針は止まっていない。


何か根元から今、とても簡単なことから、人類のバカさ加減に目覚める手はないのだろうか?


歳のせいか最近子供のよちよち歩き、遊ぶ姿を街で見ると何故か幸せを感じ、自然と微笑みたくなる。


この人間誰もがもっている不思議な力、生きものの持つ自然の根元に近い、とても大きなものを感じる。


何かしら生命の誕生の古代から、人の未来に資する自然の摂理が存在し、国連にも、参加してない小さな民族にも、生きもの全てにある大切なもの。微生物時代から生き物全てに備わった、生きる喜びの最も出発点にある本能だろう。


「とても大きなもの」

子供は大人の背中を見て育ち、大人はやがて子供の寝顔をみて、仕草をみて、成長する姿を見て、幸せと、平和を願う責任感を持つのだろう。そして真剣に今の暮らしと社会と、自からを取り戻すだろう。


往年の戦国の世の信長にしろ、秀吉にしろ、いまだに英雄という、あのまま信長が天下を取ったら、秀吉が韓半島で負けなかったら、もっと独裁者の治世は、ロシアの大統領や、イスラエルの首相のように、多くの国民と、他国の民を地獄の苦しみに合わせたことであろう。


たとえ子供のゲームとは言え、アニメも相手を倒す話は、子供心に好戦的な人類の記憶を蘇らせる愚はもう世界中でやめにしよう。


生物界の食物連鎖は自然の摂理で許されるが、それを超える同じ種同士の際限のない物質文明欲の人の行為は自然界の恥であり犯罪である。


「礼に始まり礼に終わる」共存共栄の幸せと平和

ところで我が国の美徳に、人同士の競争、勝敗は、敗者を見下したり嘲るのではなく、人としての慈しみの心で締め括る。我が国の武道やスポーツ、道のつく事柄では例外なく礼に始まり礼に終わる。


また世界共通かもしれないが、狩猟者マタギが狩りに出る前下着を新しくし、人が季節の幸を求め山に入る時、必ず山に礼をして入る。


人の心の慈しみと自然の美しさとは、いきもの界の真理の真善美である。その出発点はあなたの微笑みにある。


「幸せと平和は美しきトータルデザインから始まる」


世界一美しいと言われるスターバックスを産んだ富山市の環水公園



先日日本色彩学会の富山での研究会で、人のための良きデザイン例にも出会った。
我が国の公営住宅は、おざなりと言っては失礼だが、人を収容する機能優先は日本の常識だが、富山県各自治体では、工業団地などで働く環境を、我が国の人口減少、雇用問題などを考慮し、住まい環境に配慮した良き事例に出会う。


まず事例画像から汲み取って頂き、ぜひ現地を訪れご覧いただくと行政の配慮も四季折々の風土との調和も、よりわかると思います。


デザインとは個々バラバラではなく環境全体で取り組むトータルデザインが基本です。我が国は明治以降は縦割り行政になり、その慣習が世界に類を見ない混乱した美しくない国土環境になった。迫る国の衰退を目の前に、幸せと平和に取り組もう。


富山の工業団地や各自治体の実情に合った先進的美しき取り組み

風土と伝統建築の素材やデザインが丁寧である。出入り口付近のデザインはいかにも自然で優しい。また建物間のオープンペースの空間デザインは公園のような丁寧なデザインは美しい。



真冬の2月であっても田園とも調和した風景、地域の風土、伝統様式、屋根などの素材、生活感のある木造デザインの配慮には、ここで働き長く住むに値するという富山県民の心のビジョンが独りでに伝わって来る。春夏秋の幸せな風景も思い浮かぶ。




立山と富山湾が育てた幸せの 富山王国の風景

富山は水深1100mの富山湾と豊かな平野と背後に迫るの3000mの長大な立山連邦とで完結した、富山王国であると思っている。新たな産業、多くの伝統工芸彫刻、祭り、寺社仏閣、麗しき田園風景の美、世界一のスタバを産んだ色彩豊かな水辺の都市環境デザイン、などなどである。


雄大な立山連峰の存在を活かしたインフラデザイン新湊大橋

180度広がる立山連峰は人々の心に神の存在を思わせる。それは釈迦がネパールのヒマラヤ連峰の元で生まれ育ち、偉大な思想家になったことを想い起させる。




寄稿文 一舟・光秀(林 英光)



環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。

発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


弥勒菩薩交脚像1軀 片岩 ガンダーラ 2~3世紀 高62.0 cm 平山郁夫シルクロード美術館


文明の十字路

バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰

―ガンダーラから日本へ―


龍谷大学 龍谷ミュージアム(京都府京都市下京区堀川通正面下る[西本願寺前])にて、「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」を2024年4月20日(土)より6月16日(日)まで開催いたします。


アフガニスタンのバーミヤン遺跡は、ユーラシア各地の文化が行き交った文明の十字路とも呼ばれる地域です。


2001年にイスラム原理主義組織・タリバンによって爆破されてしまいましたが、ここには多くの石窟と2体の大仏が彫られ、大仏の周囲には「太陽神」や「弥勒」のすがたが壁画で表現されていました。


本展では、この失われた壁画の新たな描き起こし図や、弥勒信仰がアジアに広がる様子を多くの彫刻や絵画などから紹介します。


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-8 TOKIO 2020 文明の十字路 バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰―ガンダーラから日本へ―
https://tokyo2020-8.themedia.jp/posts/52129656



現代、日本海側は『裏日本』とか『鄙(ひな)の国』などと言われていますが、遠い昔、弥生時代(紀元前4~500年から 紀元後300年くらい)は日本海側が『表日本』であり、日本海を通じて様々な交流が行われていました。


馬並(な)めて いざうち行かな 渋谿(しぶたに)の 清き磯廻(いそわ)に 寄する波見に


高岡市 雨晴海岸


大伴家持がしばしば訪れ、万葉集に「渋谿(しぶたに)」と詠まれた雨晴海岸(あまはらしかいがん)は、岩礁多く白砂青松の景勝の地で日本の渚百選の一つにも選ばれており、天候に恵まれれば富山湾越しに3000メートル級の立山連峰(たてやまれんぽう)を望むことができます。


「義経岩(よしつねいわ)」は、源義経が奥州へ落ち延びる途中、にわか雨の晴れるのを待ったという岩で、地名「雨晴(あまはらし)」の由来となっています。また、この景色は、松尾芭蕉が『おくのほそ道』に詠んだ由緒地であり、女岩と義経岩は「おくのほそ道の風景地」ー有磯海ーとして国・名勝に指定されています。


さらに、この海岸から氷見市にいたる長浜は、家持が何度も歌に詠んだ松太枝浜(松田江浜)です。

住所 富山県高岡市太田雨晴 アクセス ■JR氷見線 雨晴駅から徒歩5分


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020「~ 大伴家持の足跡を『越の国』に辿る ~『高岡市万葉会館』万葉集の内容に踏み込んだ日本初の施設(1)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6001135



立山の 雪し来(く)らしも 延槻(はいつき)の 河の渡り瀬 鐙(あぶみ)浸(つ)かすも


早月川と剱岳(立山)いおりの里 晴天


早月川と剱岳(富山県新川郡上市町折戸)「剱いおりの郷」近郊


早月川と剱岳「鐙(あぶみ)浸(つ)かすも」なので、此れ位の水量でしょうか?


大伴氏の跡取り

大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、生まれ年は養老(ようろう)2年(718)といわれています。母は旅人の正妻ではなかったのですが、大伴氏の家督(かとく=相続すべき家の跡目)を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)のもとで育てられました。けれどもその郎女とは11歳の時に、また父の旅人とは14歳の時に死別しました。

家持は大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、しっかりと学んでいました。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に『万葉集』編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得することができたようです。またその歌をたどっていくと、のびのびとした青春時代をすごしていたようです。


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020「~ 大伴家持の足跡を『越の国』に辿る ~『立山の 雪し来(く)らしも 延槻(はいつき)の 河の渡り瀬 鐙(あぶみ)浸(つ)かすも』(2)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6016720



天皇皇后両陛下行幸啓

富山県射水市「第35回 全国豊かな海づくり大会」


平成27年10月24日・25日、富山県射水市にて「第35回 全国豊かな海づくり大会」が開催され、天皇皇后両陛下が御来臨されました。


大伴家持の創建による

放生津八幡宮


射水市 放生津八幡宮


由緒1

嘉祥元年(848)8月に記された当宮の由緒を要約すると、「天平18年、越中国守、大伴家持が奈呉の浦を遊船中、にわかに風が強くなり、波濤高く船の舷に激しくうちつけた。家持は、掌で潮水を掬い、両手を合わせてひたすらに宇佐八幡神に祈願した。すると、たちまち順風に変わり、無事国府に帰ることができた。


そこで、家持は、天平19年8月に、本殿、拝殿、七堂伽藍を建立し、宇佐八幡神を勧請した。・・・」というもの。家持は、強風で船が転覆しそうになり、命の危険にさらされたが、宇佐八幡神のご加護により助かったということが語られています。


当時は、朝廷の宇佐八幡宮への信仰が高まっている時期でありました。天平17年(745)に、聖武天皇が病気に罹られ重篤な症状に陥られた。朝廷では、宇佐八幡宮に聖武天皇の病気平癒祈願を行った。その甲斐あって聖武天皇の病気が快復しました。


大分県 国東市 八幡総本宮 宇佐神宮


八幡総本宮 宇佐神宮

天平19年(747)新年早々、家持は、重病に罹り病床に着くことになる。家持自身、命の危険を感じていたことが万葉集から窺えます。


正倉院文書によると、2月23日に、佐保の大伴家では氏寺で、十一面観音菩薩に家持の病気平癒祈願を行ったという記載がある。家持の重病の報が奈良の大伴家にも伝えられていたことが分かる。


2月29日に、家持が越中掾、大伴池主に宛てた書簡によると、「百神に祈り、ようやく病が小康状態になった。・・」という趣旨のことが書かれています。家持が祈った百神の筆頭に、聖武天皇の病気平癒に霊験のあった宇佐八幡神がおられたのではなかろうか。


奈良時代に国府があった高岡市伏木と、射水川(現小矢部川)を挟んで対峙する 新湊市の海浜部に「奈呉」と称する地区があります。


「奈呉の浦」は、この一帯の海岸のことを指しています。 その奈呉の浦近くにある放生津八幡宮には、家持を祀る「祖霊社」があります。
下の白黒写真は、八幡宮裏にひろがる「奈呉の浦」の景色ですが、 現在は、近代的な 漁港となっています。


射水市 奈呉の浦


家持作の

「あゆの風 いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ」

の歌に詠まれているように、奈呉にはすでに海人の集落があり漁業を営んでいたことが窺えます。奈呉は当宮の鎮座地であります。


家持は、国守として海人の暮らしぶりに関心を持ち、実際に舟に乗って海人の暮らしぶりを見廻られたに違いない。そして、海人の暮らしの安寧と海幸の豊かなことを祈られたと考えられます。


この由緒には、家持の強い祈願によって宇佐八幡神が勧請されたことが背景にあると考えられます。

放生津八幡宮は、大伴家持によって創建され、当初は奈呉八幡宮と称されていました。


由緒2


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020「~ 大伴家持の足跡を『越の国』に辿る ~大伴家持により創建された『放生津八幡宮』(3)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6026005



新湊曳山祭の真骨頂~昼は『花山』夜は『提灯山』~


新湊曳山祭(花山)


新湊曳山祭(提灯山)


新湊曳山祭とは

放生津八幡宮の秋季例大祭は、宵祭に海上より「御祖神、代々之祖達神」の御魂を迎え、次いでこの神霊を築山に降臨を仰いで祭事を行う。この築山が、車輪を付けて移動する曳山へと発展したと考えられており、 創始の年代は、いい伝えによれば、慶安3年(1650)の古新町曳山車といわれています。


また、延宝4年(1676)8月15日の放生津八幡宮例祭に曼陀羅寺から「法楽の引山」が曳かれており、300年前ごろにはいくつかの曳山車が曳かれていたと考えられます。元禄から享保のころ(1688~)には半数以上の曳山車ができ、文久2年(1862)には13本の曳山車が揃うことになりました。この放生津の曳山車は13本で県内では最も多く、絢爛豪華そのものであります。


みどころ

朝、放生津八幡宮前でお祓いを受けた曳山が、古新町の曳山を先頭に順番に出発します。 また、内川にかかる湊橋を渡るところも見所です。湊橋へとつながる道は直角のカーブを2回続けて曲がらなければならないため、引き手の腕の見せどころであり、曳山の曳き回しの中で最も迫力があります。


標識(だし)

曳山の尖端に飾る各町のシンボル。 昔は「出シ」と呼ばれていた。明治 後期以降、電線が架設され、引っ掛 けないよう、低くした町もあった。


古新町

2000年に350周年を迎えた、放生津でもっとも古い歴史をもつ曳山。古新町は「鬮除け一番山」なので、クジを引きません。ほかの12町は順番が変わりますが、古新町は常に曳山巡行の先導を務めます。誇らしき一番山であるからこそ、ルート取りや曳き方など、他町の模範としての意識や責任感は並々ならぬものがあります。安全でスムーズな巡行のため、細かな役割分担や確認・練習などの影の努力があります。


標識(だし)~独鈷の鈴~

鈷鈴(これい)とは、密教法具の一種で煩悩を打ち払う意味がある。一番山として、曳行の障害の除去と古新町の「古」の形、鈴を「振る」をかけている。昔の標識は、高岡の名工辻丹甫の作。提灯山に付け替えてもしっかりと見えるよう、近年、標識の位置を高くした。


13 本の先頭を飾る「元祖の山」。 誇らしくゆるぎない、一番山


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 2018年10月射水~新湊曳山祭~「浜の男達の祭が始まる!曳山囃子の音色が響き勇壮な13基の曳山が躍る‼(第二話)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4879088



立山(雄山)雄山神社峰本社


日本は、国土の約7割から8割が丘陵や山地、山岳で占められた風土・環境にあるためか、古来、山を神聖視し崇拝の対象とする山岳信仰が発達し、それは平安時代末期頃にはシャーマニズム、道教、密教などの影響を受けながら「修験道」として体系化されました。こうした修験道の影響で日本各地に何百ヶ所もの修験の霊山が成立しました。


ところで近年、ユネスコの世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」の名称で、吉野、大峰、熊野三山、高野山、熊野参詣道、大峯奥駈道、高野山町石道が登録され(2004年)、また最近では「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の名称で、富士山およびそれに関する文化財群が登録され(2013年)、今まさに山の歴史や文化の重要性が再認識されてきています。


ながい歴史のなかで自然と対峙して育まれた山岳信仰は、日本の宗教や日本人の精神文化において重要な位置を占めるものと考えられます。


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020「立山曼荼羅に表徴された 常願寺川水系の 水神信仰(その1) 【寄稿文】 福江 充」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5506492




芦峅寺で行われた布橋灌頂会

江戸時代、越中立山は山中に地獄や浄土がある“あの世”と考えられていた。

人々はあの世の立山に入山することで擬似的に死者となり、地獄の責め苦に見立てられた厳しい禅定登山を行うことで、自分の罪を滅ぼして下山する。こうして新たな人格・生命に再生し、現世の安穏や死後の浄土往生が約束された。


しかし、当時の立山は女人禁制の霊場であった。そこで、江戸時代、毎年秋彼岸の中日に山麓の芦峅寺村(現、富山県中新川郡立山町)では、男性の禅定登山と同義の儀礼として、村の閻魔堂・布橋・姥堂の宗教施設を舞台に、女性の浄土往生を願って「布橋大灌頂」と称する法会が開催された。


布橋灌頂会の内容

地元宿坊衆徒の主催により、全国から参集した女性参詣者(実際は男性参詣者も参加していた)は閻魔堂で懺悔の儀式を受け、次にこの世とあの世の境界の布橋を渡り、死後の世界に赴く。


そこには立山山中に見立てられた姥堂(芦峅寺の人々の山の神を根源とする姥尊が祀られている)があり、堂内で天台系の儀式を受けた。 こうして、すべての儀式に参加した女性は、受戒し血脈を授かり、男性のように死後の浄土往生が約束されたのである。


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020「立山曼荼羅に表徴された 常願寺川水系の 水神信仰 (その2) ~ 布橋灌頂会とは ~ 【寄稿文】 福江 充」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5519755



芦峅寺の姥尊信仰


『立山曼荼羅 大仙坊A本(姥堂・姥尊・奪衣婆)』
(個人蔵・絹本4幅・133.0cm ×157.0cm〔内寸〕)


江戸時代、立山信仰の拠点村落である芦峅寺は加賀藩の支配下に置か れ、38軒の宿坊を構え、同藩の祈願所や立山禅定登山の基地としての役割を果たしていた。宿坊の主人は加賀藩の身分支配上は宗教者として扱わ れ、衆徒と称された。


芦峅寺衆徒は実生活上は焼畑も行い半僧半俗のかたちをとっていた。同時代、芦峅寺集落には、芦峅中宮寺の施設として姥堂・閻魔堂・帝釈堂・ 布橋・立山開山堂・講堂・拝殿・大宮・若宮・立山開山廟所などが建ち並んでいた。このうち姥堂は、江戸時代、姥谷川の左岸、閻魔堂の先の布橋を渡った所に、入母屋造、唐様の建築様式で立っていた。


堂内には本尊3体の姥尊像が須弥壇上の厨子に祀られ、さらにその両脇壇上には、江戸時代の日本の国数にちなみ、66体の姥尊像が祀られてい た。その姿は乳房を垂らした老婆で、片膝を立てて座す。容貌は髪が長く、 目を見開き、中には口をカッと開けたものや般若相のものもあり、いかにも恐ろしげである。


現存の像は、いずれも南北朝時代(現存最古の姥尊は永和元年 〔1375〕に成立したものである)から江戸時代にかけて作られている。


この異形の姥尊は、芦峅寺の人々にはもとより、越中国主佐々成政や加賀初代藩主前田利家らの武将たちにも、芦峅寺で最も重要な尊体と位置づ けられ、信仰された。


芦峅寺が立山信仰の宗教村落になる以前から、同村には猟師や杣・木挽などの山民や焼畑農民が存在しており、彼らは山の神に対する信仰をもっていたと推測される。それは縄文時代につながるものかもしれない。芦峅寺の姥尊は、まずこうした山の神を起源とするものであろう。


姥尊は、その後、同村が宗教村落として展開していくなかで、 鎌倉時代頃から日本で盛んになった外来の十王信仰の影響を受 け、南北朝時代頃までには、三途の川の奪衣婆と習合した。

江戸時代になると奪衣婆の信仰が庶民に広まり、ますます盛んになるにつれ、芦峅寺の姥尊も奪衣婆そのものになっていった。しかし、おそらく妖怪的な奪衣婆では、外部者に対して体裁が悪かったのだろう。そこで衆徒たちは姥尊の縁起を作り、それに仏教の尊格を当てた。

まず姥尊を立山大権現の親神とし、次に阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来・不動明王などの本地を説き、それが垂迹して、醜いけれども奪衣婆的な姥尊の姿で衆生を救済するのだとした。


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020「立山曼荼羅に表徴された 常願寺川水系の 水神信仰 (その3) ~ 芦峅寺の姥尊信仰 ~ 【寄稿文】 福江 充」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5537732



立山 室堂から見る雲海の富山平野


霊峰「立山」

古来より富士山、白山と共に日本三霊山として数えられ、最高峰の大汝山(標高3,015m)、主峰の雄山、富士ノ折立の3峰からなります。雄山頂上にある雄山神社峰本社(その1にて紹介)には、夏に多くの登拝者が訪れます。


刈込池と竜神

立山カルデラ内には、「刈込池」(狩籠池・狩込池などとも表記される)と呼ばれる池があったが、大鳶の大崩壊で消滅した。だが、その時にできた別の池が新たに刈込池と名づけられ、今日に至っている。 なお、かつての刈込池の跡地は古刈込池と名づけられている。


刈込池については、幾つかの文献によりその宗教的な性格がうかがわれる。

例えば、江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』には、天狗岳の峰に狩籠池の神である竜神を祀った社があると記す。また、明治18年(1885)に竹中邦香が記した『越中遊覧誌』には、刈込池が常願寺川上流の真川の水源地(真川は常願寺川の本流。実際の源流は北俣岳)であり、そこに神がいるとする。


さらに、明治23年(1890)に杉木有一が記した『越中国誌』には、刈込池が常願寺川上流の湯川の水源地で、そこに蟠竜が棲むとする。 これらの文献が示すように、刈込池が人々には常願寺川の水源地とみなさ


『立山曼荼羅 坪井家A本(刈込池の部分)』(個人蔵、富山県[立山博物館]寄託資料)

作成時期:天保元年(1830)以前


『越中立山古記録』や『越中立山古文書』所収の芦峅寺文書や岩峅寺文書には、立山衆徒による刈込池での雨乞儀式に関する記載がみられる。それらより、立山衆徒や山麓の人々は、刈込池を常願寺川の水神が山中の水源地に水分神として祀られる場合は、山の神と同一視されることが多いが、刈込池の竜神も立山の山の神とみてよいだろう。


それは、前述の岩峅寺文書のなかで、岩峅寺衆徒が加賀藩に対して「立山狩籠池は立山大権現(本地は阿弥陀如来)が竜神を狩籠めなされ置いた(封じ込めた)池である」と説明していることや、刈込池にまつわる地元の伝説のなかに、この池に立山山中の悪竜悪蛇を封じ込めたとするものがあることからもうかがわれる。


こうした、霊山の水分神である竜蛇神を池に封じ込めるといった内容の伝説には、白山の開山者泰澄が悪竜悪蛇を千蛇ヶ池に封じ込めたとする伝説や、日光の開山者勝道が悪蛇を封じ込めたとする伝説がある。


そしてこれらの伝説には、前章で述べた立山開山縁起の本来的な意味と同様、古来、山中の水源地を支配してきた水分神である竜神が、外来の仏教の仏に押さえ込まれたといった意味がある。水源地とみなしており、さらにそこには水田稲作に必要な水の供給や制御を司る水神としての竜神が棲んでいると信じていたことがわかる。


それゆえ、加賀藩領内では日照りが続くと、慣例的に芦峅寺や岩峅寺の衆徒が藩や村役人の依頼を受け、刈込池で雨乞の祈祷を行っていた。


宝永6年(1709)6月頃、連日厳しい日照りに見舞われていたようで、同月28日、芦峅寺衆徒は黒崎村(富山市)の三郎右衛門から雨乞の依頼を受けた。そこで芦峅寺衆徒が刈込池で祈祷を行ったところ、その効果があって7月2日まで大洪水となり、祈祷料を得ている。 その後、同年8月10日に、今度は岩峅寺衆徒が天正寺村(富山市)十村の十右衛門から雨乞の依頼を受けている。


翌11日、衆徒六名が狩籠池へ向けて登山しようとしたが、途中、 芦峅寺一山より、8月1日以降は山仕舞い(閉山)であることを理由に無理やり追い返されたので、狩籠池での祈祷を断念している。 その代わりとして、岩峅寺衆徒は8月14日に岩峅寺前立社壇で雨乞の祈祷を行っているが、狩籠池での祈祷を妨害した芦峅寺衆徒に対する不満はおさまらず、8月18日に芦峅寺衆徒の暴挙を加賀藩寺社奉行に訴え出ている。


水神が山中の水源地に水分神として祀られる場合は、山の神と同一視されることが多いが、刈込池の竜神も立山の山の神とみてよいだろう。


水神碑(立山町西大森) 土台は安政の大転石。巨大な転石体は堤体の中。


それは、前述の岩峅寺文書のなかで、岩峅寺衆徒が加賀藩に対して「立山狩籠池は立山大権現(本地は阿弥陀如来)が竜神を狩籠めなされ置いた(封じ込めた)池である」と説明していることや、刈込池にまつわる地元の伝説のなかに、この池に立山山中の悪竜悪蛇を封じ込めたとするものがあることからもうかがわれる。


こうした、霊山の水分神である竜蛇神を池に封じ込めるといった内容の伝説には、白山の開山者泰澄が悪竜悪蛇を千蛇ヶ池に封じ込めたとする伝説や、日光の開山者勝道が悪蛇を封じ込めたとする伝説がある。


そしてこれらの伝説には、前章で述べた立山開山縁起の本来的な意味と同様、古来、山中の水源地を支配してきた水分神である竜神が、外来の仏教の仏に押さえ込まれたといった意味がある。


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020「立山曼荼羅に表徴された 常願寺川水系の 水神信仰(最終話)~立山カルデラの 刈込池と竜神~【寄稿文】 福江 充」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5535948



対馬・壱岐・五島・福岡・唐津・沖縄等地図(画像をクリックすると拡大できます)


対馬について

対馬(つしま)は、九州と韓国の間の対馬海峡に浮かぶ島で、長崎県に属しています。

博多港(はかたこう。福岡県)までは航路で132キロ、韓国までは直線距離で49.5キロに位置し、「国境の島」と呼ばれています。

南北82キロ・東西18キロ、面積は約708平方キロ(属島ふくむ)で、沖縄本島と北方四島を除けば、佐渡島・奄美大島に次ぐ大きさです。

平成16年に島内の旧6町が合併し、長崎県下の市町村では最大の面積をもつ「対馬市」になりました。


対馬一の宮「海神神社」とは


対馬一の宮「海神神社」

対馬の中央部・峰町の西岸に位置する木坂地域に、対馬一の宮「海神神社」(かいじんじんじゃ)が鎮座しています。かつて「街道をゆく13 壱岐対馬の道」の取材で、この地を訪れた司馬遼太郎氏は以下のように記述しています。


「街道をゆく13 壱岐・対馬の道」より

「対馬が神々の島であるというのは十世紀の『延喜式神名帳』に記載されているいわゆる式内社だけで二十九社もあり、これを肥前(長崎県・佐賀県)がわずか三社しかないことにくらべると、よくわかる」 「照葉樹で覆われたこのまるい伊豆山は、海上からその山容をみれば雲などを湧きあがらせてまことに奇(くす)しき山であるにちがいない。


ここに対馬の海部(海洋民俗)たちが、自分たちの住まいである船と航海の安全をいのって海(わだつみ)の神をまつったのは、当然であるかと思える。」 「海神神社は、伊豆山の山頂にある。山頂への道は堂々たる石段で、登るのが大変だが、ただこのような土地にこれほど贅沢な石段が造営されていることにおどろかされた。」


 「全山が原始林で、野鳥の天国のようになっている。その頂上の平坦地にある拝殿は社殿とともに大ぶりな建築で、みごとというほかない。社殿は、南西の海に向かっている。航海する海辺のひとびとを守りつづけてきたという感じが、社前に立つとわかってくるような気がする。」


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020日本遺産 国境の島『対馬』を知る「神々の時代から現代まで‼対馬楽講座~歴史編~」
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7649955



『魏志倭人伝』一支国の王都 壱岐「原の辻遺跡」


魏志倭人伝に記された国境の島

日本がまだ「倭」とよばれていた時代、魏(中国)の使者は、朝鮮半島を南下し、対馬や壱岐を経由して、倭の女王がいる邪馬台国を目指しました。中国の歴史書『三国志』の中の「魏志」倭人伝(*1)には、対馬国(現在の対馬市)と一支国(いきこく)(現在の壱岐市)の様子が次のように記されています。


狗邪韓国からはじめて海を渡ると対馬国に着く。山は険しく、深い林が広がり、道も獣道のようだ。良い田がほとんどなく、海産物を食べて生活し、南や北へ行き、交易をしている。


対馬国を出て、また南に海を渡ると一支国に着く。海の名は瀚海という。林が多く、少し田はあるが、田を耕しても、食料が足りないので、やはり南や北へ行き、交易している。

(「魏志」倭人伝(現代語訳)より抜粋)


対馬は、韓国の釜山までわずか49.5kmの距離にあります。切り立った山々と高さ100mに及ぶ断崖絶壁が見られます。島の89%が山林で、白嶽や龍良山には、国の天然記念物に指定されている原始林が残り、「魏志」倭人伝に記された対馬の姿と重なります。


このように、平地が少なく、耕地に乏しい地理的条件から、対馬では古代より船で南(日本列島)と北(朝鮮半島)を行き来し、人・物・文化の交流が行われていました。

*1.「魏書」第30巻東夷伝・倭人条の通称


壱岐「原の辻」一支国王都復元公園

復元された建物と周囲に広がる田園風景は、弥生時代にタイムスリップしたかのようです。
真夏の焼けるような日差しの中での発掘作業が花開きました。


海の道に浮かぶ国際交流の都

壱岐は、対馬とは対照的に山地が少ない平らな島です。島内最長の幡鉾川の流域に広がる平野・深江田原には、弥生時代、一支国の王都「原の辻(はるのつじ)」がありました。


日本と朝鮮半島を行き来する古代船は、壱岐島の東部にある内海湾(うちめわん)に停泊し、人や物を小舟に移して、幡鉾川を1.5kmほどさかのぼったところにある船着場を目指しました。


原の辻遺跡から発見された船着場跡は、大陸の高度な土木技術を取り入れて造られた王都の玄関口にふさわしい立派なもので、日本最古の船着場跡とされています。


倭の国々の中でも、いち早く海外の情報を入手できる原の辻は、海上交易で王都を築いた国際交流都市の先駆けで、日本人だけでなく、朝鮮半島から移り住んだ人もいて、活気に満ちあふれていました。


原の辻遺跡からは、朝鮮半島で作られた土器、中国の貨幣、人の顔をした人面石など国内外の多様な遺物が出土しています。なかでも、きらきらと青色に輝く中国製トンボ玉は、女性や子どもたちの心を捉えたことでしょう。


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~古代からの架け橋~日本遺産認定「国境の島 壱岐・対馬・五島」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4615487



高さ20mにも迫る雪の大谷(室堂)


【雪の大谷とは?】

世界有数の豪雪地帯、標高2,450mの立山室堂で特に雪が吹きだまる「大谷」付近を除雪してできる巨大な雪の壁が「雪の大谷」で、今年の高さは18メートルとなりました。

※7月13日現在、バスの高さ位の雪の壁が続いています。


黒部ダム ヒストリー

日本を代表するダムである「くろよん」こと黒部ダム。現在は観光スポットとしても人気ですが、その竣工は困難を極め、戦後の関西電力の社運と、関西地域一帯の命運をかけた一世一代の大プロジェクトでした。

いまもなお、日本最大級の規模を誇るこのダムは、工事の記録も人々を惹きつけて止みません。


黒部川水力電源開発


黒部開発の調査のため、黒部川左岸の絶壁の岩を削ってつくられた幅50センチほどの日電歩道(16.6キロメートル)を大きな荷物を担いで命がけで運ぶ測量隊(大正14年ごろ)


黒部川の水力電源開発は大正時代から始まりました。


「日本の屋根」といわれる北アルプスの3千メートル級の高い山々に挟まれた黒部峡谷は人々をよせつけない地形でしたが、降雨量が多く急峻な河川であることから、水力発電に極めて適した条件を備えていました。


大正7年、黒部における水力発電の可能性調査を開始。大正12年には、宇奈月~猫又間の軌道の開削に着手、また日電歩道も開削され調査が進められていきました。


その後、昭和2年、柳河原発電所運転開始に始まり、黒部川第二(昭和10年)、黒部川第三発電所(昭和15年)など次々と発電所が建設されていきました。


くろよん建設開始


(詳しくは下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020 「立山黒部アルペンルート」 雪の大谷・黒部の太陽(黒部ダム)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/35965432/



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