鶴千代クラブ学習会 第15回「鎌掛城と蒲生賢秀」
3月10日(日)第15回目の鶴千代クラブ学習会を開催しました。今回は「鎌掛城と蒲生賢秀」です。日野町で唯一の本格的な山城である鎌掛城の探検と、氏郷のお父さんの蒲生賢秀など鎌掛城に関わる人物の伝承について、「日野近江商人ふるさと館」の振角卓哉先生に教えていただきました。
町内、県外からの中学生とお母様お父様含め7名に参加いただきました。県外からは愛知県の井俣颯斗さん、三重県の岩田周真さんが参加してくれました。
朝10時に鎌掛公民館に集合。振角先生による「蒲生賢秀と鎌掛城」を講義いただきました。東山道と東海道を結んだ「御代参街道」と、「千草越」から分かれた「市道」との合流地点に鎌掛城があることを教わりました。また、賢秀公に至るまでの蒲生氏の厳しい歴史や、賢秀公の六角氏の家臣時代、織田氏の家臣時代の活躍を教わりました。
1570年(元亀元年)の織田氏の越前攻め失敗の時の信長の「千草越え」を賢秀公が助けたエピソードや、柴田勝家の与力として各地を転戦したこと、賢秀公が近江の武将(江州衆)の代表的な武将になり、馬廻衆(直属の武将)として安土に屋敷地を与えられたことを学びました。
本能寺の変では安土城の留守居役(留守番)をしていた賢秀公は氏郷を日野から呼び寄せ、信長の妻子を日野へ避難させました。明智軍に対抗するため日野城に籠城した際、賢秀公は徳川家康や本願寺顕如に援軍を要請しており、ただ籠城して敗北を待つのではなく、あらゆる手段を用いて亡き主君に報いようとしていたことを知りました。
賢秀公は平凡な武将と評価されがちですが、今回の学習でその的確な状況判断や城下町の整備や行政の功績を知ることによって賢秀公を見直すことができました。
鎌掛城の歴史の講義では、鎌掛城は音羽城の支城として南北朝時代あるいは応仁・文明の乱の時代に建てられたと伝わっています。大永年間の蒲生家の家督争いの戦を経て、賢秀が1582年に氏郷に家督を譲ったのちの隠居城として使用され、その後主郭部分は廃城になりました。「山屋敷」は江戸時代に至っても使われていたと伝わっていますが詳しい記録は残っていないとのことです。
昼食の後、いよいよ鎌掛城に登りました。今回は山屋敷とは反対側の「お夏茶屋」と云われる茶屋跡側から登りました。日野町内で最も高い場所に建てられた城だけあって、始めからとても険しい坂道がありましたが、注意深く足場を確認しながら急がず慌てず登城しました。
振角先生が作図された城の地図をもとに曲輪や土塁や堀、井戸などの遺構を探検しました。不整形な曲輪が多いですが、平らになった空間をはっきり見て取ることができました。中には土塁で四角く囲まれた曲輪もありました。途中に武者隠しや虎口、岩を削った石塁、井戸などの防御施設もはっきりと残っており、鎌掛城の特徴をよく知ることができました。
一旦お夏茶屋まで下山して、車で山屋敷に移動しました。山屋敷は城山のふもとを広く平坦にして堀と土塁で複数の範囲を四角く囲っており、行政や儀式を行っていたとされています。また、城へ続く大手道や庭園があったのではと推測されています。
これで鎌掛城の本丸から山屋敷まですべて制覇です!
でも、振角先生によるとまだまだ発見されていない曲輪や遺構があるのではないかということで探検と研究を進めているとのことです。楽しみですね!
最後に山屋敷前の表札前で集合写真を撮影して解散しました。
鎌掛城 山屋敷の表札前で。
鎌掛公民館に和室で振角先生による講義
鶴千代クラブのために振角先生特製のスライドとテキストで講義いただきました。
最新の研究成果に聞き入る参加者のみなさん
鎌掛城入口 お夏茶屋方面から登城
城山の山頂を目指します。
途中、いくつもの曲輪に出会います。
方形の曲輪跡もあります。
尾根の斜面を慎重に登ります。
大井戸跡
石組みが崩れずに残っています。
井戸から主格部へ続くつづらおりの通路
主格部の土塁
主格部の防御施設 攻めてくる敵に横槍を入れる武者隠し
伝本丸に到着
本丸跡から鎌掛の町が見渡せます。
北側の尾根の城郭部へ。
急な斜面に厳重なつくりの曲輪が続きます。
岩を削り残した高い土塁
北側城郭部の先端の曲輪 援軍のための臨時の駐屯地と考えられています。
ここでいったん下山して山屋敷に車で向かいます。
山屋敷跡入口
とても広い空間が土塁や堀によって区画されています。
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