罪悪感を持つ理由
罪悪感の記事にコメントをいただきましたので、罪悪感を持つ本当の理由じゃないかと私が思うところを書きたいと思います。(別の記事にも書いたような気がするけど、まあいいか)友人が同じことをしても責めないのに、自分がすると罵倒する。自分だと許せない、これってなぜなんでしょうか?前回、自分は友人と違い完璧なはずで、そんな完璧な自分が友人並のことをするのは許せないからじゃないか。そんなことを書いたのですが、それは止めて欲しいから厳しいことを言っただけで、当然ながら本音は別にあります。人の罪は許すべきだけど、自分を甘やかすような奴はダメ人間だ。そう感じているからに違いありません。思うに、人は自分の嫌な部分や、ダメなところを認めたり、許してしまうのは情けないことだと信じているので、せめて自分を責めることで、罪を償ったというか、反省したいと思い、罪悪感を持つ方が、自分に対し安心なんじゃないかと思うのです。(でも実は、罪悪感を持ったからと言って、なんの成長にも繋がらないし、罪も償ってないし、改善策もとられていません)簡単に言えば、自分に厳しい人の方が、自分に甘い人よりも立派な人間である。そう信じているんですよね。まあ、実際にそうかもしれませんが、そんなに立派な人間になる必要があるでしょうか?自分に厳しくすることで、何かを成し遂げることが出来るなら、それは素晴らしいことです。でも、自分に厳しくし過ぎて、なんにも出来ないような人生なら、適度に、自分の出来る範囲のことを着実に積み上げていく人生の方が、私はずっと価値があるように思います。理想の自分になれなくても、今の自分で出来ることをすればいいし、そんなに正しい心を持たなかったとしても、友人が同じことをしたときにその友人を見限らない程度の行動をなら、まあ良いんじゃないでしょうか。そう、友人のことは責めないのに、自分のことは責める。それは行動だけではなく、心の中の葛藤についても言えることなので、書き加えておきましょう。友人が家族の介護をしていたとして、「時々早く死んでくれたらと思うんだ。こんな私って本当にひどいよね」とか、「私って本当に自分のことしか考えていなくて、心の中は醜い思いが渦巻いてるの」と言ったとします。あなたはその友人を、本当にひどい人、醜い人間だと感じるでしょうか?「人間誰でもそんな部分を持っているんだよ。そんな気持ちになるときもあるよ。」そんな風に慰めるんじゃないでしょうか。要するに、自分に醜い部分があったとしても、責める必要なんてないってことです。自分のそんな思いを自覚して、どうしてそんなことを感じたのかをちゃんと把握して、それでも正しい行動を取れるような人になれば良いんじゃないかと思います。偽善者の記事の中にも書きましたが、本当に正しい、清い心を持った人しか良いことをしてはいけないわけではありません。清くない自分でも、それでも人のために何かしたい。そう思ったら、何もしないより行動することが、自分を良くしていくための唯一の道ではないでしょうか。