ありのままの自分を受け容れること
「ありのままの自分を受け容れること」長い間ブログを放置していました。読みに来てくださる方がいらしたとしたら、大変申し訳ありません。これからは、もう少し真面目に書き続けるつもりです。(あくまでも、そのつもり…)前回の記事にコメントをいただいたので、よく言われるところの「ありのままの自分を受け容れる」ことについて、私の個人的な意見を述べさせていただきたいと思います。この言葉、「ありのままの自分」というのは、少し言葉が足りなくて、本来なら、一つ一つの行為は別として、人としては「全ての人が、ありのままの姿で受け容れられるべきである」ということなのではないでしょうか。それは犯罪者をも広い心で許すとか、嫌いな人をつくらないとか、そんな高尚なことを求めているわけではなくて、ごく普通にその人が「その人であること」を認めようよ、といった感じです。自分がその人から直接的に嫌な思いをさせられたのなら、その出来事については怒って当然なのですが、そうじゃないなら、多少嫌な奴だろうが、不器用だろうが、傲慢だろうが、周囲の人間が、その人をわざわざ責める必要はないのではないでしょうか。もしそれが本当に責められなければならないようなことであれば、わざわざ他人が責めなくても、生活していく上で、ちゃんと?本人が辛い思いをするはずです。本人が気付いている、いないにかかわらず、自分のしたことは自分に返って来るので心配いりません。腹の中がどんなに黒かろうが、エゴや傲慢が渦巻いていようが、その気持ちを押し殺して、表に現れる行為がまともなら、本人が気持ちよくないだけのことですから、他人から責められるいわれはありません。客観的に観るために、いじめを例に挙げて考えてみましょう。いじめのターゲットになる子は、不器用で人見知りかもしれない。意地っ張りで、なかなか周囲となじめないかもしれない。いじめる子供からすれば、自分には、その子をいじめるだけの正当な理由があると感じているに違いありません。いじめられたくなければ、本人が変わればいい。本人の努力が足りないからだ。性格を直す必要があることを、本人のために自分は教えてあげてるんだ。自分は正義感から行動している。心から、そう信じていることでしょう。確かに、限られた一部の子供は、いじめられた経験によって何かを学び、向上できるかもしれないし、周りで見ていた子供たちも、周囲の人を不愉快にさせるようなタイプの人間は、仲間はずれにされるのだという現実を目の当たりにして、世渡り上手な大人になるための教訓を学べるかもしれない。でもそれは本当に正しいことでしょうか? あるいは、唯一の選択肢でしょうか?いじめるかどうかは、主にいじめる側の子供の選択であり、当然ながらいじめないという選択肢もあるわけです。現実問題として、障害のある子供がいじめられるのはよくあることです。子供の世界では、仕方のないことだと言えるかもしれません。でも、障害のある子を周囲の子供たちがサポートし、人がお互いを尊重し合い、ごく自然に助け合うことを学ぶことだってできます。どちらを学ぶ方が、より良い人生を送れるでしょうか?自分の嫌なところ、他人の悪いところを指摘することに時間を費やし、自分や他人を否定することにばかり心を遣うよりも、悪いところがあることは認めつつも、自分の良いところを伸ばし、自分が嫌な人がいてもわざわざ自分の時間と心を遣って責めたりせずにいることのほうを私はお奨めしたいと思います。多くの人が誤解をしているんじゃないかと感じるのは、受け容れることの意味です。私の思う「受け容れること」のポイントは、否定したり責めたりしないことであって、無理に好きになったり愛したりする必要はありません。否定や拒絶、自分や人を責めることから、良いものが生まれてくることはあり得ません。自分を責める時間があるなら、次に同じ失敗をしないための、何らかの対策を打つなり、フォローすることを考えるべきで、ダメな自分を拒絶するのではなく、自分はもっと出来ると思っていたけど、まだ出来なかった。どうすれば、もっと向上できるだろう? そんな風にだめな自分を受け容れ、きちんと見つめることではじめて、自分の悪いところを克服し、成長に繋げられるではないでしょうか?自分や人を責めるのは、実は自分の責任を放棄する行為でもあることに気付いてください。「ありのままの自分を受け容れる」ことの意味を整理すると、理想の自分があって良いし、今の自分に満足できなくてもかまいません。でももう一度考えてみましょう。自分を責めることで向上したことがありますか?人として成長しましたか?もし、本当に自分を向上させたい、こんな自分を変えたいと思うなら、今の自分を否定したり、責めたりするのは止めて、自分の良いところに注目しましょう。スポーツでも、軍隊式の厳しい特訓で一流になれるのは高校生くらいまで。本当に一流のプロや、オリンピックで金メダルを取るような人は、楽しんで、喜びを持ってプレーをしている人ではないでしょうか。それにもし私だったら、厳しいだけの指導者の下で、限られた人だけが上り詰めることが出来る超一流のプレーヤーを目指すより、褒めて伸ばしてくれる指導者の下で、競技を楽しむ二流のプレーヤーでいることを選択します。完璧を目指し、優れた人と自分を比較して落ち込んでいても意味がないし、自分にないものを求め、自分のおかれた現状を恨んでもなにも進歩がありません。自分が持っているものを大事にして、自分の範囲内で生きれば充分です。自分にないものは、自分の人生をより素晴らしいものにするために、本当に必要なものではありません。誰の人生も、その人が持っている良いものを最大限に生かせたときにこそ、最も輝くのです。