いつものあれ
パートナーとのありよう、友人との関係。
誰かに頼まれたり、やってあげる、してもらうという関係ではなくて、その人のありようが素敵!と一目惚れしてお付き合いが始まり、関係が続いていくということもある。
人に限らず、組織であったり、コミュニティであったりするのかもしれない。
そういう始まりや関係が「対等」というのかもしれない、と思う。
素直で、まっすぐで、自分に正直。プラスお化粧もする。
それがりゅうちぇるさんだった。そんなりゅうちぇるさんに、惹かれたのです、とモデル・タレントのpecoさんは言う。
人を人として対等にみている、という言い方ができるのかなと思う。
一方で、ロバート・ダウニー・ジュニアのアカデミー賞授賞式でのふるまいが「アジア人に対する差別だ」と取り沙汰されている。
「いつもの彼の様子でしょ」というとらえ方もできるが、アジア人側からすれば「いつものあれ」は、「合衆国で私たちがいつもされる差別」と感じるのだという。
差別する側は、極めて無思考で善良であることが多い。
一方で、そんな彼、彼女らは、何も考えずにすむ特権を有していることに気づかない。
結果、「無意識に」差別的な行為をしてしまう。日本においては家父長思考がいまだ蔓延している。
男性陣が、日常生活でストレスや差別を感じずにいられるのだとしたら、もうそれは特権を手に入れているということだ。
そうした前提があるから「僕は女性を差別したり、下に見たことなんてないよ。女性はうやままやなきゃね。僕は妻が好きなことをすることを『許して』いるよ」ということをしれっと言う男性がいたら、ちょっと構えたくなる。
そもそも対等な間柄なら、「許す、許さない」なんてない。
フェミニズムが真に実現した社会とは男女に限らずあらゆる差別がない社会、だれもが対等で、どんなありようも尊重され、誰もが生きやすい社会だ。
陳腐でシンプルであるが、それにつきると思う。